餅つき青年

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ある青年が餅をついている。 一人でついているから、餅を一回ついては自分でひっくり返している。 それゆえに大変な重労働である。 なぜ、一人で餅をついているのか。 それは・・・ 一匹の野良犬がいる その犬が青年の前に現れた。 青年はいつものように、自分の田んぼを耕し、水を引いていたが 田んぼの中に、犬が入ってきてはかなわないと 「こら、そこの犬 田んぼから出て行けと」言って 追い払おうとした。 しかし、 ますます、田んぼの中に犬は入ってきた。 青年は、困ったあげくに 田んぼのどろどろの土を 犬に投げつけた。それで追い払おうとした。 ところが、投げつけた、泥の土は犬を はずれた。 はずれて、勢いよく 田んぼの水を跳ね上げ 水しぶき 泥しぶきを撒き散らした。 跳ね上がった しぶきが たまたま そこのあぜ道を通りがかった 若いお嬢さんの 綺麗な洋服と日傘を汚した。 お嬢さんは驚き 立ちすくんだ 泥土をなげた 青年は自分のした事とお嬢さんも表情に うろたえた。 そして、お嬢さんはその場で 悲しげに表情を崩し、静かに 「グスン」と涙を流し 泣き出してしまった。 青年は田んぼの中で、必死に冷静になろうと試みるあまり逆にお嬢さんも自分も犬も 目には写ったが、見えなくなってしまっている。 もし、その時の青年の姿をほかの人が見たら 青年がお嬢さんに意地悪をしているように見たかもしれない。 なぜ、「お嬢さんに駆け寄らない」と叱責したかもしれない。 青年の頭はグルグル自分を守る回路を彷徨っている。 一瞬の永遠の回路を 青年の頭は回っている。 グルグルを巡る回路が 青年の眉間に しわ を寄せろと 青年に内緒で命令した。 ただ、その瞬間 青年は しかめっ面で 田んぼの中で立っていたその時間は・・・ 青年の頭の中で、歴史の教科書で計る年表の時間より遥かに永く感じたに違いない。 青年の頭は新たに何千年歴史を数えているだろう。 「ワン!」 その永く青年の頭が刻んでいる歴史が一瞬にやぶられた。 犬が突然ほえた。 青年は、ハッとしてお嬢さんに向かって走り出そうと 一歩、踏み出したとき 田んぼの ぬかるみに足をとられてつんのめった。 そして、そのまま倒れ泥と水にまみれた。 が、必死に青年は立ち上がり 泥と汗となんだか分からない液にまみれたままお嬢さんに 慌てよった。 お嬢さんはまだ、泣いている。 お嬢さんに駈け寄った青年は、上半身が前のめりになるような 腰の抜けた格好で 手を伸ばして丁度届かないくらいの距離で、身構えるような様子で距離をとり 一言 「ごめんなさい」と ひとり言をいうような声で、お嬢さんに言った。 お嬢さんには、なんとなくその声は聞こえているであろう。 しかし、泣き続けている。 泣き続けることで、お嬢さんは青年に意地悪をしていたのか? 自分の惨めな気持ちを、泣き続けることで押し付けるように理解させようとしていたのか? 青年が思い切ってかけた「ごめんなさい」の言葉。 その言葉にもお嬢さんは、泣き止もうとする様子がなく、青年が沈黙を怖がる時間だけが無意味に永く感じた。 その、永い時間を青年は処理しようと 「大丈夫?」と 青年は、ぶっきら棒を強い自分と人に演出するような低い声で、自分に言うようにお嬢さんにたずねた。 お嬢さんの様子は変わらない。 ただ、青年とお嬢さんの感じる時間だけが過ぎていく。 青年はこの無謀な時間を埋めるすべを知らない。 知らないがゆえに、必死に青年の心は 時間を埋めようともがいている。 まったく曇りのない空の青さと、青年のグルグルとめぐる混沌とのギャップが痛いほどに皮膚に伝わるようであった。 二人は、どれくらい時間を感じ、時間を耐えたであろう。 犬は、尻尾を無邪気に動かしながら、田んぼの畦に無造作に生えた、単子葉類の草の葉をかじっていた。 その後、止まった時間を、動かしたのはお嬢さんであった。 お嬢さんはまっすぐな姿勢で、顔は下向き 肩を小刻みに上下させながら、 青年の方へゆっくりと、向かってきた。 青年は、自分の方へ歩みはじめたお嬢さんから、自分にとって何か都合のいいことが起こることを想像した。 お嬢さんが動いたというだけで、この自然に時間が動いてくれたという安堵のかすかな温かみが、青年の凍りついた全身を、薄くぬぐった。 地面を見つめるでもなく、ただ、いたずらな涙でうつむくお嬢さんが青年の目の前までよってきた。 青年は、はたからはただ静止しているように見えたが両肩が身構えた。 しかし、お嬢さんは青年には一瞥もくれず青年の左横を通り過ぎた。 青年は、お嬢さんが自分の後ろ四、五歩過ぎたであろう所で左肩越しに少しだけ振り向いた。 青年は、硬直した両肩をどうにも動かすことができなかった。  何度か、少しずつ青年は振り返った。 そのだびに、お嬢さんの姿はは小さくなって行った。 それから、どれだけ青年はその場に立ち尽くしただろう。 実際の時間では、お嬢さんと青年が対峙していた間より、 今、青年が立ち尽くしている時間のほうがはるかに長い。 だが、青年が今、感じている時間の流れは滝が落ちるように速かった。 日が下がり、西と東の空の真ん中で夜と昼間の色がコントラストとなっていた。 青年は時折、立ったまま貧乏ゆすりをするかのように意識した無意識でもって、砂利の多い地面を足でならす様なしぐさをしたり、砂利の一部である小さな石を蹴ったりしていた。 青年の目に映る景色は、いつもの田んぼ、いつもの草、いつもの顔はよく知っているが話したことのない 微妙な近所のおばさんや子供、いつもの電線、いつも見える夕暮れの東の空のオリオン座がみえていた。 その、いつもの風景たちが今日は青年を嘲笑し、自分の恥部をあからさまに見られているように感じた。 その反面、いつもの風景たちはそんな恥ずかしい自分を理解してくれていると青年は いつもの風景にあまえた。 いま、家に何ごともなかった様に歩きを進めているように見える青年。 青年は、お嬢さんを泣かせてしまった悪い自分を、 それを、どうすることもできなかった情けなく頼りない自分という どうしようもなく恥ずかしい自分が ここに いることを知られてしまうことで 同じ風景たちに見捨てられてしまいそうな気がした。 しかし、その気持ちを相談できるのもいつもの風景だけだった。 青年が自分の家に着いたときには いつもより、すこし暗くなっていた。 青年のうちは、お百姓さんのうちらしく、庭はテニスコートが一面造れるくらい広く 大きくなった 柿の木や花壇があり、その横には水瓶がある。 離れの建物には、農機具や今は使われなくなった竃(へっつい)や薪などが置かれていた。 青年は玄関の前に立った。が、すぐにガラガラと開けることができなかった。
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