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兄/量一/S.S…11
エスカレーターの中程を過ぎた時だった。
「お兄ちゃんお腹空いているんでしょ?」
頭をグイッと右に傾けて、にんまりと笑う紫苑。悪戯を披露するときの顔だ。
こういう時は、次にサプライズがある事を俺は知っている。
「あ、あぁ。……そうだな、今日は何も食べてないからな」
先ほどまでの一連に申し訳ないな、と思いを巡らせていた俺は意表を突かれるのだけど、こうした仕草がとても可愛く思えて、彼女の他意を孕んだ誘導尋問には、いつもあえて乗ることにしていた。
「お腹と背中がくっつきそうだよ」
そう言って笑いかける俺に、紫苑はひろげた両手の平を見せて、握る。
「ジャジャーン!」
掛け声とともに握った拳を広げる。すると、白い包装紙に巻かれたチーズドックが、ひょっこりと頭を覗かせていた。
「お兄ちゃん、お腹空いてると思って、一つ食べないで持ってきたんだ! これね、すごく美味しいんだよ!」
腹が減っては買い物はできぬぅ。と付け加えてチーズドックを渡してくれる紫苑は「驚いたでしょ?」と、こちらにリアクションを期待する目を輝かせていた。
「あはははっ。マジか! スゲー嬉しい! ありがとう、紫苑!」
紫苑から貰ったチーズドックを一口。
甘い。
口の中でホロホロと解けるしっとりとした生地。ほんのりとしたバニラの香りが鼻を抜けて、チーズの旨味が後から口の中に広がった。
旨い!
出来立ての熱々ではないけれど、人肌の温かさのチーズドッグ。
もう一口。
紫苑の体温が感じられた。その優しさが、嬉しかった。紫苑の温かさが、口の中に広がった。
「旨いよ、紫苑。これなら、2、3個すぐに食べれちゃうな」
えへへ。と笑う紫苑の左頬には、唇の端にえくぼが浮いていて、子供の頃と変わらない屈託がない表情に、思わず昔を思い出した。
俺が9歳。紫苑が3歳。
蝉の鳴き声が聞こえる。
紫苑と初めて会ったのは、近所のくたびれた駄菓子屋だった。戦時の大空襲から焼け残ったらしく、築100年以上経つと噂されていた。瓦屋根はひしゃげていて、まるでお化け屋敷を彷彿とさせる狭い店内は、古い木の匂いがした。
アブラゼミの声が聞こえる。
幼い紫苑は十円で買った鼈甲飴を一つ握っていた。ぷっくりとした短い指では、飴は握れきれずにちらちらと見えていた。
俺に向かって両手を伸ばす紫苑。夏の夕日が照らす片手からは、琥珀色の陽がいく筋にも伸びていて、プラネタリウムのように薄暗い店内を彩り、眩しかった。
「どぉーち、だぁ!」
紫苑は頭を右に傾けて、にんまりと笑う。
俺は迷ったふりをして、飴が握られてない方の手を指差した。
「ぶっぶー」
俺が飴を外したことに喜ぶ紫苑。だけれど、そのあと迷わずに飴をくれた。
「これね、美味しいの」と上目遣いで。
ーー出会ったその日に知ったんだ。紫苑。
お前がすごく優しい娘だってこと。
幼少期から変わらない、悪戯に満ちた瞳と左頬のえくぼ。
よく覚えている。
だから、昔を思い出した。
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