兄/量一/S.S…11

1/1
前へ
/26ページ
次へ

兄/量一/S.S…11

エスカレーターの中程を過ぎた時だった。 「お兄ちゃんお腹空いているんでしょ?」 頭をグイッと右に傾けて、にんまりと笑う紫苑。悪戯を披露するときの顔だ。 こういう時は、次にサプライズがある事を俺は知っている。 「あ、あぁ。……そうだな、今日は何も食べてないからな」 先ほどまでの一連に申し訳ないな、と思いを巡らせていた俺は意表を突かれるのだけど、こうした仕草がとても可愛く思えて、彼女の他意を孕んだ誘導尋問には、いつもあえて乗ることにしていた。 「お腹と背中がくっつきそうだよ」 そう言って笑いかける俺に、紫苑はひろげた両手の平を見せて、握る。 「ジャジャーン!」 掛け声とともに握った拳を広げる。すると、白い包装紙に巻かれたチーズドックが、ひょっこりと頭を覗かせていた。 「お兄ちゃん、お腹空いてると思って、一つ食べないで持ってきたんだ! これね、すごく美味しいんだよ!」 腹が減っては買い物はできぬぅ。と付け加えてチーズドックを渡してくれる紫苑は「驚いたでしょ?」と、こちらにリアクションを期待する目を輝かせていた。 「あはははっ。マジか! スゲー嬉しい! ありがとう、紫苑!」 紫苑から貰ったチーズドックを一口。 甘い。 口の中でホロホロと解けるしっとりとした生地。ほんのりとしたバニラの香りが鼻を抜けて、チーズの旨味が後から口の中に広がった。 旨い! 出来立ての熱々ではないけれど、人肌の温かさのチーズドッグ。 もう一口。 紫苑の体温が感じられた。その優しさが、嬉しかった。紫苑の温かさが、口の中に広がった。 「旨いよ、紫苑。これなら、2、3個すぐに食べれちゃうな」 えへへ。と笑う紫苑の左頬には、唇の端にえくぼが浮いていて、子供の頃と変わらない屈託がない表情に、思わず昔を思い出した。 俺が9歳。紫苑が3歳。 蝉の鳴き声が聞こえる。 紫苑と初めて会ったのは、近所のくたびれた駄菓子屋だった。戦時の大空襲から焼け残ったらしく、築100年以上経つと噂されていた。瓦屋根はひしゃげていて、まるでお化け屋敷を彷彿とさせる狭い店内は、古い木の匂いがした。 アブラゼミの声が聞こえる。 幼い紫苑は十円で買った鼈甲飴(琥珀)を一つ握っていた。ぷっくりとした短い指では、飴は握れきれずにちらちらと見えていた。 俺に向かって両手を伸ばす紫苑。夏の夕日が照らす片手からは、琥珀色()の陽がいく筋にも伸びていて、プラネタリウムのように薄暗い店内を彩り、眩しかった。 「どぉーち、だぁ!」 紫苑は頭を右に傾けて、にんまりと笑う。 俺は迷ったふりをして、飴が握られてない方の手を指差した。 「ぶっぶー」 俺が飴を外したことに喜ぶ紫苑。だけれど、そのあと迷わずに飴をくれた。 「これね、美味しいの」と上目遣いで。 ーー出会ったその日に知ったんだ。紫苑。 お前がすごく優しい娘だってこと。 幼少期から変わらない、悪戯に満ちた瞳と左頬のえくぼ。 よく覚えている。 だから、昔を思い出した。
/26ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加