#00-1 それは気が遠くなる程の

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#00-1 それは気が遠くなる程の

 + + +  森の中にいた。  背の高い木の梢が風に揺れてさざめいている。  太陽の溢れた光を受けて輝く葉の色は、届かないところにある宝石のように見えた。  舗装されていない土の道を俺は付いて行く。前を行く後ろ姿は数歩歩いては俺を振り返った。まるでそれが決まり事みたいに。その度にワンピースの腰で結ばれた赤いリボンがふわりと揺れ、心配の色を映した大きな瞳が俺を見た。  俺はそれが少しだけ疎ましくて、けど当然のように受け入れていた。  小さなその手の片方は俺の手に、もう片方はバイオリンの入ったケースを大事そうに抱えている。誕生日に両親からプレゼントされた新しいバイオリンだ。  バイオリニストだったばあちゃんに憧れて始めたのだと聞いたのは、ずいぶん後だ。俺は現役の頃のばあちゃんを見たことが無いから、俺の中でバイオリニストと言えば彼女——姉しかいなかった。  わかってる。これは夢だ。  夢の中で何度も何度も繰り返し見た、かつての記憶。  色彩溢れた最後の記憶。  幼い手に引かれ、俺は小屋に入る。使わなくなったログハウス調の物置だ。  ここは俺と彼女の二人だけの場所。お気に入りのおもちゃと森の中で集めた宝物に囲まれた秘密基地。  「夕哉、どうだった?」と、彼女が問いかける。  弾きこなせるようになったばかりの曲の余韻が、小さな部屋に満ちていた。  幼い顔とちぐはぐな凛とした声音で俺の名前を呼ぶのは、最後に見た記憶と聞いた記憶がずれているからだろう。 「この間より音がポンポン跳ねてる。わくわくした」  少ない語彙で、それでも素直に褒めると、彼女は当然とばかりに微笑む。  俺は彼女の最初の観客だった。 「夕哉も始めればいいのに、バイオリン。耳がいいからきっとすぐに上手くなるよ」 「僕はいい」 「じゃあ、チェロは? おじいちゃんが教えてくれるよ」  そうすれば一緒に弾けるのに。  口癖のように言われる言葉に首を振る。俺は音の波に身を任せて、楽しそうにバイオリンを弾く姉の姿を見る方が好きだった。 「あ、楽譜、置いてきちゃった」  新しい課題曲、夕哉に聞かせたかったのにと、眉根を寄せる。 「家から持ってくる。夕哉はここで待ってて」 「一緒に行く」 「夕哉は歩くの遅いもん。私一人で行った方が早いの」  立ち上がる自分を見て顔を歪める俺に、姉は微笑む。ふっくらとまるい頬がかわいいと評判の笑顔だった。 「寂しがりの夕哉。そんな顔しないでよ。そうだ、あれ貸してあげる!」  そう言って、おもちゃ箱のひとつからキャンドルとライターを取り出して灯を点す。 「これ見て、綺麗でしょ?」  その手元を覗き込むと、赤い磨りガラスの中で小さな炎が揺らめいている。最近彼女が両親にねだって買ってもらったキャンドルだ。  磨りガラスに彫られた模様が、炎に照らされて壁に模様を描く。俺はそれを見るのが好きだった。でもこのキャンドルは彼女のもので、機嫌の良い時にしか見せてくれない。  気ままで、我が侭で、自由に過ごす事が当たり前なこの姉に、弟の俺はよく振り回されていた。ああでも、そう気付いたのは最近だ。  あの頃は、姉の後ろに付いて行く事が当たり前だった。だからあの日もいつも通り。二人で小屋で遊んでいたんだ。  壁に映し出される模様に見蕩れる俺の横に、ケースに仕舞ったバイオリンを置くと「勝手に扉を開けちゃダメだからね」と言って小屋から出て行った。  姉が唐突に俺をひとり小屋に残して行く事はよくあった。  何かしら理由をつけて、すぐ戻ると良いながら、大抵十分程放って置かれる。  始めこそ長く感じたその時間も、ひとりで遊んでいたらあっという間に過ぎた。その内戻って来た姉はやたらと俺を気遣い、変わったところが無いとわかると何事も無かったようにまた遊び始めるのだ。  だからあの日もそんなよくある日のひとつになるはずだった。  風の強い日で、小屋の壁の隙間から入り込んで来た風が、キャンドルの火を微かに揺らして行く。小さな炎の揺れが、壁に描かれた模様をさざめかせる。  もっと大きく炎を揺らせば、この模様も様子を変えるかもしれない。そう思った俺は、小屋にひとつだけある窓を開けようと、立ち上がった。  立て付けの悪いサッシに苦戦して、なんとか開けたのは良いが後ろに転げてしまった。尻餅をついた拍子に、ゴトリと何かが床を転がって行く。  キャンドルの入った丸い磨りガラスだ。  振り返った時には、ブランケットにガラス玉から溢れた火が燃え移っていた。その側には、姉の置いていったバイオリン。  ——ダメだ、  咄嗟に引き寄せて抱え込む。  燃え広がった火に囲まれて、俺の視界は瞬く間に赤い炎だけになった。  赤。赤。赤。  乾いた木が焦げていく匂いに、息苦しさを覚えて蹲る。周り一面が炎に囲まれて、どこに小屋の入り口があるのかわからなくなった。  古い木製の小屋が燃えるのなんてあっという間だ。パチパチ爆ぜる音と、ギシリと木が軋んだ音がして、見上げると、焼けた木材が目の前に迫った。  そこで俺は夢から覚める。  起きてもそこは真っ暗な世界だった。意識はあるのに眠りから覚めない。いつまで経ってもそこは暗闇のままだった。なのに全身が焼け付くように痛い。  少し待っていれば、姉が扉を開けてくれる。この暗闇から俺を引っ張り出してくれる。バイオリンを守ったこと、きっと褒めてくれる。いつもの満足そうな微笑みで。  けれどもう、俺が姉の笑顔を見る事はなかった。  視力を失ったのだと理解するまで、幼い俺は暴れ回り、泣き叫び、両親と姉の名を呼び続けた。  ずっとそばに温もりを感じている。声も聴こえる。けれど俺はもうお父さんが、お母さんが……お姉ちゃんが、どんな顔をして俺を見ているのか知る事は出来ない。不気味な暗闇の中に放り出された恐怖で、おかしくなりそうだった。    + + +
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