#01 遠い記憶は花曇り

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#01 遠い記憶は花曇り

 季節の巡りを、人はどこから感じるのだろう。  しばらく前までの俺は、朝起きて窓を開けたときに肌を撫でる外気の温もりや、聴こえてくる鳥の鳴き声からそれを感じ取っていた。  大概(たいがい)の人はショーウィンドウの入れ替えや、すれ違う人の服装でそれと気付くのだと知ったのは少し前のことだ。  あれはちょうど秋から冬に移り変わる時期で、水気を失った落ち葉の乾いた音が、踏みしめるたび耳に心地良くなってきた頃だった。  そして長かった冬を越え、春。  俺は一軒の家の門前に立っていた。被っていたキャップを一度脱ぎ、癖が付いてしまった前髪を掻き上げると、木漏れ日を揺らした風が火照った肌を撫でていく。  陽射しを遮るものが増えたおかげか、商店街を歩いていたときより、体感する気温は幾分涼しい。  庭に連なる背の高い木々の葉がレンガの上に影を落として揺れている光景は、記憶の中とあまりにも変化がなくて、少しだけ俺を戸惑わせた。  駅から続く商店街の一本道を十五分ほど歩いたところに、その赤茶色のレンガ造りの家は現れた。  商店が長く軒を連ねて賑わっている北側と、駅から少し離れれば閑静な住宅街になる南側が駅を境に別れたこの街は、ターミナルである新宿から私鉄で約20分と利便性が高い。  隣の駅は有名な高級住宅街だ。その割には微かに残る思い出の中でも、昔からかしこまり過ぎない気安さがこの街にはあった。  大きく息を吸って、ゆっくりと吐き出す。柄にもなく緊張しているのか、俺。  昔、何度か訪れたときは子どもだったし、父さん達もいた。記憶の中とそれほど変わっていないとしても、中にいるのが見知らぬ他人だというだけで緊張感に拍車がかかる。  バックパックに突っ込んだキーケースにはこの家の鍵が既に収まっていたけど、さすがにいきなり使う気にはなれなくて、迷った挙げ句、俺は鉄格子の門の脇にあるチャイムを押した。  ピンポーン  聴こえたのは昔ながらのチャイム音。しばらく誰かが応対してくれるのを待ってみたものの、インターホンは無言を貫いた。 「……誰もいない?」  拍子抜けして、思わず肩を落とす。  確認した腕時計の針は、午前十一時ちょうどを差していた。先に伝えておいてもらった時間ぴったりだし、その時間には誰かしらいるからと聞いていたのだ。  念のため、もう一度、今度はゆっくりとチャイムを押す。  ピンポーーン  さっきより間延びしたチャイムが、家の中で微かに反響して聞こえて来る。  だがやっぱり応答はない。  鉄格子の向こうに見える庭を覗き込んでみると、木陰に木製のリクライニングチェアとテーブルが見えた。  俺の実家にも同じものがあるけど、こっちの方が年季が入っていそうだ。昔から置いてあったっけと考えて、やめた。元々欠けているものを思い出そうとしても意味がない。  樹の梢で鳥が鳴いている。のどかだ。人目が少ない場所とは言え、ずっと門前に突っ立ったままというのも気が引ける。もう一度押して反応がなかったら、キーケースに収められている鍵の出番だろうか。  ダメ押しの最後の一回で、三たびチャイムに指を伸ばしたとき、ガチャガチャとインターホンの向こうで音がした。よかった、人がいた。ホッとしたのも束の間、ようやく聞こえてきたのは、唸るように低く、不機嫌を隠さない声だった。 『誰』  問いなのか威嚇なのかわからない端的な言葉に、無意識に姿勢が伸びる。 「こ、こんにちは! 俺、今日からここの管理人になる藍沢夕哉(あいざわゆうや)といいます!」  勢いだけの俺の自己紹介に、インターホンの向こうの相手は閉口した。  もしや話が通ってなかったのか。続く沈黙に絶えられなくて「あの……」と声をかける。不手際があったのなら謝らなければいけない。  初日から変な汗をかき始めたところに、ようやく次の言葉が聞こえてきた。 『鍵なら空いてる。勝手に入って来ていい』 「え? あの、」  面倒です、と言わんばかりの物言いに驚く俺を放って、インターホンは再びけたたましい音を立てて切れてしまった。  いまのがここに住んでいる内の誰かだということはわかったけれど、あまり歓迎されているとは思えない対応だ。  だからと言って、引き返す選択肢があるわけじゃない。どんな人が住んでいようと、俺はここで頑張るしかないのだ。
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