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#02 101号室の住人は
鉄格子の門を押して庭に入ると、木々で隠れていた家の外観が露わになる。
さっきは記憶と寸分違わないと感じた二階建ての家は、よくよく見ればあの頃よりいくらかレンガも煤けていた。壁に這う蔦もずいぶん増えた気がする。
門の外から見えたリクライニングチェアとテーブルの脇を通り過ぎると、壁に沿って大きさの違う空き瓶がいくつか並んでいる。ラベルに書かれているのはどれも全部お酒の銘柄だ。
午前中のまだ透明度の高い陽射しが、列をなしているガラス瓶に降り注ぎ、乱反射した光で地面に点描を描く。
空気の中に浮かぶ埃や塵が、光に照らされてキラキラ。パチパチ。シャラシャラ。
ふと、指先が無意識に動いていたことに気付いて苦笑した。
俺の相棒は、慣れない都心の電車で一緒に来るには小回りが効かない。ありったけの梱包材でケースを包んで、一足先に配送業者に渡したのが三日前。
きっと中で俺の到着を待っている。思えば、引っ越し作業に追われ、もう三日も触れていないのだ。
男が言っていた通り、家の扉は本当に鍵がかかっていなかった。
広い玄関には一足も靴がなかったが、俺は特に驚かなかった。ばあちゃんは几帳面で、乱雑さを嫌っている。無造作に脱ぎ捨てられた靴など見ようものなら、そのままゴミ箱に消えてしまっても文句は言えなかった。
家にはその家のルールがあって、管理人を退いたいまもここがばあちゃんの家であることに変わりはない。
代わりに、どれだけ客人が来ても収納出来る年期の入った大きなシューズボックスが玄関でどんと構えている。
その横には、部屋番号の書かれたモーテルキーリングを模したプレートが四つ、壁に備え付けられた木製のフックにかけられていた。
この家の住人はいまは三人。俺を入れて四人になる。
プレートに掘られた部屋番号が見えるように表になっていたら在宅。裏面になっていたら不在だと聞かされている。
いまは四つの内、三つが裏面になっていた。一番右端の赤いプレートが管理人室用で、つまりは俺のプレートだ。
そっとプレートを表に返すと、101という数字が現れた。この家に来て初めてなにかをした。それだけのことで、この家に来た実感がじわじわと沸き上がってくる。
数年ぶりに来た東京は、電車の中でも道でも、行き交う人はみんな電子端末の画面しか見ていなかった。
俺だってスマホは持ってるけど、まるで世界の全てがその小さな箱の中にあるかのように、自分の真横にいる人よりも、どこにいるかもわからない画面越しの相手の方が身近だという感覚が、どうにも理解できなかった。
なんだか同じ日本なのに全く知らない国に来てしまったように感じていた俺は、自分の部屋のプレートをひっくり返すという些細なことで、なんとか居場所を見つけられたような気分になった。
あくまでもそんな気がした程度。それでも嬉しい。
「何してるんだ?」
聞き覚えのある声に、びくりと肩が跳ねる。さっきインターホン越しにも聞いた声は、第一印象よりも柔らかく俺の耳に届いた。
俺が来た時から部屋番号が表になっていたプレート、201号室の住人は彼なのだろう。
「初めまして! 今日からここの管理人に……」
今度こそきちんと自己紹介をしなければと向き直った俺の言葉は、鼻腔をくすぐる匂いに気付いて喉の奥に引っ込んだ。
酒瓶が並んでいたから、何となく予想はついていた。けど、まさかこんな昼間からアルコールの匂いと遭遇するなんて思わないじゃないか。
匂いの元は、俺の目の前に立つ一人の男。
オーバーサイズの黒いTシャツ、ダメージ加工の入った細身のブラックジーンズからは骨張った膝が見えていた。
ぐしゃぐしゃに寝癖の付いた黒髪の隙間、気だるげな目が俺を映している。全身真っ黒で、一見するとだらしなく見える風貌なのに、不潔さはなく、むしろ整った印象を覚えたのが不思議だった。
「夕哉だろ。何度も名乗らなくてもわかってるよ。藍沢のばあさんから聞いてる」
低く威圧を感じた声は寝起きだったからか、くあ……と声を漏らしながら大きな欠伸を遠慮なくすると、彼は目元に滲んだ涙を着ていたシャツの袖で拭った。
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