#04 春の朝とコーヒーと

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#04 春の朝とコーヒーと

うまくやっていけるか早くも不安に(さいな)まれだした俺をよそに、凌さんは辿り着いた部屋の扉を開けた。 「荷物は適当に詰んである。家具はばあさんが徹底的に綺麗にしてたし、埃よけまで被せていってるから、すぐに使えるだろ」  促されて足を踏み入れた部屋は、カーテンが引かれ、昼間だと言うのに薄暗かった。  掃き出し窓の僅かな隙間から差し込む光に吸い寄せられるように歩み寄り、一気にカーテンを開く。すると、庭から差し込む光が室内を照らした。 「ま、なにかあったら声かけろよ。俺はリビングにいるからさ」 「……はい」  遠退いていく凌さんの足音を頭の端っこで聴きながら、俺は部屋を見渡した。光沢のあるハードケースに入れられた相棒が、まるで昔からそこにあったかのように壁際に立てかけられている。 「お待たせ。久しぶりにこの家に来た気分はどう?」  答えない相棒の気持ちを勝手に妄想する。うん、嬉しそうだ。俺もいま、結構嬉しい。  この部屋は、元々はじいちゃんとばあちゃんの寝室で、俺達が訪れた時に遊び場にしていた部屋だった。  ばあちゃんの化粧品を勝手に使って怒られたこと。かくれんぼしている間に肩を寄せ合って眠ってしまったこと。今でも色褪せない、なんでもないはずのある日の光景。 「なんで、こんなことばっかり覚えてるんだろうな」  思わず触れた相棒のケースの冷たい感覚すら、遠い記憶を引っ張り出して来て、なんだか堪らなく寂しかった。 「早速だけど、一曲付き合ってよ」  差し込んで来た陽射しに瞼を刺激され、ゆっくりと目を覚ます。  夕べ明けっ放しにしたままだった窓からの風でカーテンが揺れていた。誘われるように定まらない思考のまま室内を見回すと、床に積み重ねられた段ボールが目に留まった。 「……うわ!」  徐々に覚醒してきた頭で、自分が床に寝転がっていたことに気がついて飛び起きた。  あの後、凌さんに共用スペースであるキッチンや水回りのルールを教えてもらい、自室で荷解きをしている間にうとうとしていたところまでは覚えているが、どうやらそのまま睡魔に負けてしまったようだ。  太陽が既に昇っている。いまは何時だろう。まだ覚醒し切れていない頭を振っていると、机の上に置いたスマホのアラームが軽快な音楽で鳴り始めた。慌てて音を止める。  画面に表示された時刻は七時ちょうど。そういえば、片付けに没頭して夕飯を食べ損ねた。  意識した途端に空腹感が押し寄せる。ひとまずはバックパックに入っていた携帯ゼリー飲料でしのいで、汗を吸い込んだシャツを脱いだ。  着替えて廊下に出ると、室内はシンと静まり返っている。  この家の住人はあまり朝に強い人がいないというのは聞いていたけど、一応今日は平日のはずだ。俺以外、全員社会人なのに出勤時間は問題ないのだろうか。  シューズボックスの扉を開こうとして、ギッと木の擦れる音に思わず肩を竦めた。古いからか、やたらと音が大きい。鳴らないように気を付けて自分のスニーカーを取り出す。  ふと横に目をやれば、木製のフックにかけられたモーテルキーリング型のプレートが三つ、表を向いていた。  俺の101号室、隣の102号室、凌さんの201号室。  202号室は裏のままだ。  昨日は凌さん以外の二人には会えなかったけど、今日こそは顔を合わせられるだろうか。 「よし! 始めるぞー!」  管理人としての記念すべき初仕事。庭の角の物置から(ほうき)とちり取りを出して来て、玄関先を掃く。管理人の仕事その一、毎朝の玄関掃除だ。  すでに昇った太陽の陽射しが温かい。今日も小春日和になりそうだ。  気付けば、どこからか飛んで来た小さな花びらがあちこちに散っていて、俺は首を傾げた。この家には桜の木はないはずだ。  でもそういえば、新宿から小田急線に乗っている間にも淡いピンク色の桜を何度も見た。この近くでも咲いているのかもしれない。  俺がずっと暮らしていた山の中は、この時期はまだ肌寒いけれど、東京は上着なんて必要ないくらい温かい。この季節は、俺にも綺麗だと感じられるものが多くて好きだった。  掃き掃除を終えると、喉の渇きを覚えてキッチンに向かった。  綺麗好きな前管理人の行き届いた掃除のおかげで、この家はどこもかしこも整頓されている。とても男所帯とは思えない。  特にキッチンはこの春最新式のシステムキッチンに改築されたこともあって、この家のどこよりも近代的なスペースになっている。ガスコンロは無くなり、代わりにIHクッキングヒーターが設置された。  わざわざそんな多額の費用がかかる改装を入れた理由は、他の誰でもない、俺の為だった。申し訳ないと思いつつも、火を使わずに生活出来る環境はありがたい。  キッチンに通じる扉を開くと、コーヒーの豆の香りが鼻腔をくすぐった。  俺が庭に出ている間に誰か起きて来たのだろうか。足を踏み入れれば香りはもっと濃くなる。そこには、口の細いケトルを手に、お湯を注いでいる後ろ姿があった。
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