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#07 都会の迷路と赤い花
「……迷った」
都会の駅の片隅で、俺は途方に暮れていた。
山梨の片田舎から出て来て二日目。大学への道順を無事確認した帰り道、日本の首都・東京の主要ターミナル駅の一つである新宿に降り立った俺は、尋常じゃないほどの人波に流されるうちに自分がどこにいるのかも分からなくなってしまった。
昨日はスムーズに乗り換え出来たし、今日も行きは問題なかった。
三回目だからとタカをくくったのがいけなかったのか。まったく見覚えのない場所に出てしまって、かれこれもう二十分ほど同じような場所を行ったり来たりしている。
目指していたはずの小田急線の改札は案内表示すら見つからない。
目の前には水族館の巨大水槽に入れられた魚のごとく人が流れていたけれど、声をかけようにも、そのほとんどが手元の端末の液晶画面を見ているか、連れ立っている人との会話に夢中で周りを見ていなかった。なんでぶつからないのか不思議でならない。
すんでの所で人を避けながら、やっとの思いで改札のそばにあった花屋の近くに空間を見つけて息を吐く。
駅員さんはどこにいるんだろう。この人波はどこに向かって流れているんだ。
行き交う人の話し声やどこからか聞こえて来る車のクラクション。電車の発着を告げるアナウンス。
それになにより視界から入って来る情報が多過ぎる。
これからパーティーでもあるのかと思うような華美な服装の女の子達にも、眩しいほどの広告やショーウィンドウにも、チカチカ瞬く電光掲示板にも目眩がしそうだった。
「……よくこんなところで暮らせたな、じいちゃんもばあちゃんも」
長年、改札もホームも一つしかないところで暮らしていた上に、ほぼ車社会で過ごしていた俺にはここは巨大なダンジョンのようだ。迷い込んで、早くも挫けそうでへこんでいる。
周りにはこんなにも人が溢れているのに、俺はひとりぼっちのように思えてやるせなさばかりが募った。もう息が詰まりそうだ。そう思った途端、本当に息苦しくなって思わず俺はしゃがみ込んだ。
しばらく視界を遮断すれば落ち着くかもしれない。ああ、そうだ、水を飲めば気分が変わるかも。
背負っていたバックパックを下ろしたとき、視界の端に揺れる赤が見えた。花屋の軒先に売られているアネモネの花だ。
その赤に見入っていると、花の前で立ち止まった女の人がいた。俺と同い年くらいだろうか。春らしい薄手のワンピースは、アネモネの花と似た色の品の良い淡い赤だった。
彼女は店員さんと会話をすると、しばらくして二本のアネモネが透明なフィルムに包まれて彼女の手に渡る。手元の花を見て微笑む顔が、小さな花のつぼみが綻んだ瞬間のように繊細で美しく、俺は眼が離せなかった。
あまりに見過ぎていたのか、視線に気付いた彼女が俺を見る。すると、戸惑った表情を見せた後、あろうことか彼女は俺に向かって駆け寄って来たのだ。
「あの、顔色悪いみたいですけど大丈夫ですか。駅員さんを呼びましょうか?」
鈴が鳴るような綺麗な声に、心配そうに問いかけられる。遠慮がちに覗き込まれた顔の近さに心臓が早鐘を打った。
「あっ、いや、大丈夫……です。ちょっと迷って、人混みに酔っただけで……」
慌てて顔の前で両手を振ると、彼女は安心したように笑い、折っていた腰を上げた。
「新宿、出口がたくさんあって分かりにくいですよね。私も時々ぼーっと歩いてると迷っちゃいます。あ、でも案内は出来ますよ。どこに行きたかったんですか?」
丸くてつぶらな瞳が可愛い人だ。でも、話し方がサバサバしていて媚びた印象を与えない。都会人の冷たさを肌で感じて居た俺は、不意打ちの優しさに手を合わせたい気持ちになった。
「小田急線のホームがわからなくて」
「小田急線かあ、確かに分かりにくいですね。だけどここからだとすぐそこですよ」
ほら、と彼女の指差した先に視線をやると、たくさんの案内表示の中に確かに探していた小田急線の文字があった。知らない間に近くまで来ていたらしい。
「よかった、ありがとうございます」
「いえいえ。ところで準急と各駅のホーム、どっちに行きたいんですか?」
同じ線なのにホームが二つあったのか! 驚きながらも目的の駅名を告げると、どうやらどちらも停車するようで、ほっと胸を撫で下ろした。
「本当にありがとうございました。なんとか帰れそうです」
親切に改札前まで送ってくれた彼女にお礼を言うと、俺よりも頭一つ分背の低い彼女は「あ!」と思い出したようにショルダーバッグを開き、何かを掴むと俺に手を差し出した。
反射で出した手のひらの上に、コロンと二つ、白い包み紙に赤いイチゴがプリントされた飴玉が転がる。小さい頃、何度か食べた覚えがある飴だった。
「よかったら食べてください。さっきよりはマシになりましたけど、やっぱりまだ顔色が優れないので。舐めていれば少しは酔いが紛れるかも」
つくづく親切な人もいたものだ。もう一度彼女にお礼を言って、小田急線の改札を通る。
振り返ると、彼女はまだ同じ場所で見送ってくれていた。会釈をするれば、同じように返してくれる。アネモネの花が、同じ色のワンピースを着た彼女の胸元で揺れていた。
名前くらい聞いておけば良かったと気付いたのは、電車の中で彼女からもらった飴を頬張ったときのことだった。
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