#08 アウト オブ サイト

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#08 アウト オブ サイト

 日も暮れた頃、相良(さがら)さんが帰って来た。  夜はまだ冷えるね〜、と良いながらトレンチコートをソファにかけた相良さんが何かに気付いたように鼻をスンと鳴らす。  キッチンにやって来て俺の手元に目をやった相良さんは、不思議そうに首を傾げた。 「んー……今日、君は妖しい黒魔術の勧誘にでもあったのかな、夕哉くん」 「……言いたいことは分かります。一応言い訳をすると、これは黒魔術の錬成じゃなくて、ほうれん草のシチューです」  新宿駅でアネモネの彼女に助けられたこと。なんとか辿り着いた駅からの道すがら、商店街で八百屋に立ち寄ったらほうれん草が安く売られていたことをかいつまんで話すと、相良さんは眼鏡の奥の眼を柔らかく細め、うんと頷いた。 「そっか、大変だったね。今夜は君の歓迎もかねて俺が作るよ」  笑顔でそっとキッチンから追い出される。  自分の料理の腕が壊滅的な自覚はあったけど、今日はなんとなく上手く出来そうな気がしたのは勘違いだったらしい。 「すみません、俺の分まで作ってもらっちゃって」 「気にしないで、料理は好きだし。味は口に合う?」 「おいしいです」  相良さんと二人、ダイニングテーブルで向かい合って夕飯をとった。  デミグラスソースのかかった黄金色のオムライスは相良さんのカフェの人気メニューなんだそうだ。俺がどろどろに煮立ててしまったほうれん草も相良さんの手によって優しい味のポタージュスープに生まれ変わった。  二人で飲んでもまだ鍋に大量に残っているのを申し訳なく思う俺に、問題ないと相良さんは笑う。 「多いくらいで丁度良いんだよ。あいつらが帰って来たら勝手に食べるだろうし」 「あいつらって、凌さんと202号室の方ですか」 「そうだよ〜。食事は各自勝手に作って勝手に食べる、っていうのがこの家の基本なんだけど、カフェの新メニューを考案する時は、俺がキッチンを占領することも多くってさ。その代わり、試食ってことで置いておくんだ。だから君も遠慮しないで食べて、元々は君が買ってきた食材だしね」 「助かります。その、もう分かったと思うんですけど、料理が得意ではないので……」 「夕哉くんくらいの歳の男の子なら、そういう子は多いと思うけど。お母さんからレシピを教えてもらったりするといいんじゃない?」 「そうします」  苦笑混じりになったのは、俺に包丁すら握らせようとしなかった母親の顔が浮かんだからだ。上手く出来たら写真に撮って送ろうと思っていたけど、それはずいぶん先の話になりそうだった。 「相良さんのカフェ、今度行ってみたいです」 「大歓迎! ここからだと少し距離があるけど、歩けない程じゃないんだ。藍沢(あいざわ)さんも時折散歩がてらお茶をしに来てくれたんだよ」 「そういえば、お気に入りのカフェがあるってばあちゃんが話してた事がありました。サーフボードや海の写真なんかが飾ってあって、自分みたいな年寄りでも若い人達と交流出来る貴重な場所だって」 「そう! それが俺の店。藍沢さん、そんな風に言ってくれてたの? 嬉しいな〜」 「相良さん、サーフィンやるんですか? 地元海沿いって言ってましたもんね」 「あー……昔はね。ちょっとケガして、いまはやってないよ」 「ケガ?」 「もうなんともないんだよ。でも、残念ながら海には入れない。だからその分、陸で海を楽しんでるってわけ」 「そうなんですね……あれ、じゃあその日焼けはサーフィンじゃないんですか」 「ああ、これは自転車焼け。運動がてら自転車で店まで通ってるんだ」  太陽に好かれた健康的な肌の色が、相良さんの爽やかさをより引き立たせている。(りょう)さんに比べ、相良さんは細身だけど、包丁を待った腕はしっかりと筋肉がついていた。  自他ともに認めるもやしっこの俺には程遠い存在だ。  相良さんはいまでも海に行って、お店に飾る珊瑚や貝殻を拾って帰って来るらしい。どんなお店なのか益々気になった。ばあちゃんも歩いて行ける距離なら、土地勘のない俺でも行けそうだ。  カフェまでの道のりを教えてもらっていると、玄関の扉が開く音が響いた。帰って来たね、と空になった食器を持って相良さんが立ち上がったのと同時に、リビングに凌さんが現れる。その姿を見て、俺は二度三度と眼を瞬かせた。 「なんだよ? ぼけっとした顔して」 「……一瞬誰だか分かりませんでした」  朝とは違い、寝癖の消えた髪はワックスで綺麗に上げられていた。その所為なのか、切れ長の眼と整った輪郭が強調されている。  全てが全て整っているのに、指先だけは昨日から染まったままだ。マニキュアは爪にだけ塗る物だと思っていたけど、俺が知らないだけで、いまでは指まで染めるのだろうか。  薄くストライプの入ったカッターシャツに結んでいたネクタイを緩め、凌さんはフンと鼻を鳴らした。 「客商売だと言っただろ。どこで客に会うかも分からないのに、適当な格好で出歩けないんだ……というか、なんだこの匂い。庭の草でも煮たのか」 「腹が減ってるなら料理はあるよ。さっさと着替えてきたら」  相良さんは凌さんの疑問を軽くスルーすると、壁にかかった時計に目をやる。 「そろそろあいつも帰って来る。今度こそ逃げられないように捕まえなくちゃいけないんだろ?」  それを聞いた凌さんは、溜め息を吐いてリビングを出て行った。 「凌さん、きちんとした格好も出来たんですね」 「家にいる凌は大抵だらしないからね。あ、そうだ。凌の仕事のことは聞いた?」  まだ客商売としか聞いていないことを伝えると「隠しておくようなことでもないのに……まったく」と相良さんは困ったように眉を寄せた。 「凌は自分のことをあまり人に話したがらないんだよ。だから、夕哉くんのことを疎ましがってるわけじゃない……ごめんな」  なんで相良さんが謝るのだろう。  会ってまだ数日の相手に自分のことを話したくないと思うのは当然のことだ。あれこれ詮索されたくない気持ちは俺にもある。  気にしてません、と返せば相良さんは安心したように笑顔を浮かべた。
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