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福岡市早良区
福岡市早良区
僕は大阪で生まれたのだが、小学校に上がる前の年に父の転勤でここ福岡市早良区に越してきた。
二歳下の妹がおり、家族四人で社宅住まいをしているどこにでもある家庭であった。
僕の母親はいわゆる「教育ママ」だった。今から思えば、とにかく僕を優秀な大学へ入れたかったのだろう。小学校に上がった直後から、「四年生になったら塾に行くのよ」と洗脳するように僕に言いつづけ、実際、四年生になる直前の春休みから、僕は週に四日の「塾漬け」となった。
「良い大学に行って、立派な会社に入れば、お父さんみたいに幸せになれるからね」
と口癖のように言っていたが、その父親は毎晩、帰宅するのは僕達が寝た後で、朝は僕が起きるよりも早くに出勤してしまう。だから、平日はほとんど顔を見ることがなかった。土日だって大抵は「仕事の用事」で出かけてしまうのだから、父さんと遊んだ思い出はほとんどないに等しかった。
そんな風だったから、「お父さんみたいに幸せになれる」と言われても僕には、ひとつもピンとくるものはなかった。
それでも僕が毎日、辛抱強く机に向かっていたのはどうしてかと言えば、今から思えば、母の期待に応えたいという健気な気持ちからだったのだろう。
僕の身体に最初の異変が現れたのは五年生の秋だった。
塾では成績順に三クラスに分けられ、一学期まではかろうじてトップのAクラスに入っていた。しかし、夏の合宿で熱を出してしまい、途中で帰宅させられることになった。そのため九月のテストで成績がかなり落ちてしまい、Bクラスに転落した。母は烈火の如く怒った。その日から、塾のない日は、学校から帰ると毎晩十時まで勉強机から離れることは許されなくなった。
そんな状態が一ヶ月も続いた時。
勉強中に窓の外から誰かに呼ばれている声が聞こえるようになった。はじめは友達が外で僕のことを呼んでいるのかと思っていた。窓を開けてみるのだが誰もいない。学校での授業中も頭の中をくすぐられるような気分になったり、しわがれた声で耳元で囁かれたりするような感覚があった。
夜中にはドリルとノートの前に座っていると、また机の下で誰かが僕の悪口を言っている。布団に入っても声はやまないし、目を瞑るとノートの文字がちらつき、朝まで眠りが訪れないこともしばしばとなった。当然、学校や塾では居眠りをすることになり、その情報はすぐに母のもとに届けられた。母は卒倒しそうになり、ついに僕のことを「ダメ人間」呼ばわりするようになった。
母のお説教を聞かされる時間ほど、僕を苦痛のどん底へ陥れるものはなかった。
そのうち僕は自然と、自分の意識を自分自身から遠ざける方法を憶えるようになった。顔では反省しきりの表情をを保ちながら、精神は頭上五十センチのところへと浮遊させてしまうのだ。
この方法は功を奏した。まるで忍術のようだと思った。僕は次第に机に向っているときにも、この「術」を使うようになった。
精神的に苦しくなった時には、意識を現実逃避させる。すると身体は机に向かっているのに、頭の中では、野原を駆け回ったり、大空を鳶のように雄大に飛び回ったりして、空想の世界に飛ぶことができる。僕はその世界の味に酔いしれるようになった。
五年生の三学期、担任の先生が僕のことで家庭訪問してきた。
白髪の混じった頭をきれいに七三に分け、眼鏡をかけたおとなしい感じの男の先生だったが、その日、玄関に現れた先生の顔は教室では見ることのない硬い表情だった。
僕は自分の部屋で待つように言われ、母と先生は客間で二時間も面談をして、帰っていった。
翌日のことは今でもはっきり覚えている。
学校から帰ると家に父がいたからだ。
もちろんそんなことは初めてのことだった。
父は居間のソファから身を乗り出し、顔だけこちらに向けて、黙ってまじまじと僕の顔を見つめた。それまで父の顔をじっくりと見たことなどなかったので、僕は父の眼鏡の奥にはこんなに悲しい目があったのか、と感じた。こんなに父の顔をじっくり見たのは生まれてはじめてだったかもしれない。
父と母は僕を電車に乗せ、隣の駅で降りると、ビルの三階の「クリニック」と書かれたドアを開けた。
そこで、僕は朝晩服用する薬と「幻聴や幻覚が現れたら飲む薬」を処方された。
でも、これらの薬は問題だらけだった。それを飲むと頭の中がふやけたようになり、考えがまとまらなくなるのだ。塾の成績は一気に落ち、かろうじてBクラスに留まる程度になってしまった。それでも、母は何も言わなくなった。
どうしてお母さんは突然、怒らなくなったのだろう、という疑問が頭の隅にへばりついていた。
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