福岡市早良区

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 とにかくお母さんに叱られなくなったことは、当時の僕には都合の良いことであり、理由なんてどうでもよかった。  薬を飲むと勉強はほとんど手につかなくなった。やがて僕は私立中学の受験に失敗し、公立の中学に通うことになった。悔しさはなかった。そのころになると僕は完全に母から期待をされなくなっていたことは分かっていたし、それに元々、私立の中学校に行きたいなんて全然思っていなかったからだ。  それでも両親の期待に応えられなかったことは申し訳ないという思いはあった。  突然、見渡す限りの野原に一人で放り出されたような孤独な気持ちと、「勉強、勉強」と言われなくなったことで大きな肩の荷から解き放たれたような安堵の気持ちとが、思春期の胸の内で絡みあっていた。  中学生になっても時々、実体のない声が聞こえるのは相変わらずだった。  耳元で囁いてきたり、遠くから叫んできたり、隣の部屋から呼んできたり、地面の下でうめいていたり、という具合に様々な形で僕に話し掛けてきた。悪いことに、僕には「実態のない」という意識がだんだんと薄れていっていた。小学生のころは、「ああ、これは幻聴なんだな」と思いながら返答をしていたのに、中学生になったころから家族や友達の声と幻聴との区別がつかなくなってきたのだ。  「声」はある事件からだんだんと僕の悪口に変わっていった。それまでは、《勉強しないの?》か《受験、失敗するぞ》といった声が多かったのだが、それはだんだんと僕自身の自尊心を傷める声になってきた。  その事件とは、僕の通う中学校の校庭の隅にある人工池に、何者かがいたずらで油を入れ、鯉やメダカやミジンコが全て死んでしまうという事件であった。  学校では緊急の全校集会が開かれ、黒縁の眼鏡に黒のスーツに身を固めている校長先生は「たった一人のいたずらがみんなを悲しい思いにさせてしまうのです」と全校生徒を前に窘めた。  生徒たちは犯人の噂をするようになった。 その日から、僕は《油を入れたのはお前だ》という幻聴に悩ませられるようになったのだ。声の主は友達の声だったり女性の声だったり、老人の声であったり、さまざまだった。《やったんだったら潔く名乗り出なさい》とか《親が悲しんでいるぞ》というような声が常に耳元にあり、次第に現実の声との区別がつかなくなっていった。
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