たゆたう波間を灯して

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 敬心が用意したのは普段、自身が使っているルアー釣りのタックルではなく、誘導式の電気浮子を用いた餌釣りの仕掛けだった。そして準備した釣り竿も仕掛けもすべて、父の釣り道具である。父と同じ道具を用いてより大きい太刀魚を釣り上げることができれば、正真正銘、父に勝利できると考えたのだ。  狙うは指五本分の体高がある超大型の太刀魚。この大きさになるとドラゴン級といわれ、ベテランの釣り師でもめったに仕留めることがない。  リールから糸を繰り出して釣り竿のガイドに通し、穂先を伸ばして仕掛けをセットする。次第に空は残光を失い、視界が確保できなくなってきたので電気ランタンを灯すことにした。乳白色のLEDの光が護岸のコンクリートを照らし出す。その光を頼りに電球浮子の蓋を開け、細長い銀色のリチウム電池を挿入すると、ピカッと眩しい黄緑色の光が浮子の先端に灯った。  仕掛けの末端である針の部分にあらかじめ港の魚屋で入手しておいた活きたイワシを背掛けにする。そして藍色を深めてゆく夜の海面に向かって仕掛けを勢いよく投げ込んだ。しゅるしゅると小さな摩擦音を立てながら釣り糸がリールから吐き出され、その後に、ぽしゃん、と遠くで着水する音が届いた。一点の黄緑色の光が海面に掲げられた。  数秒後、おもりが沈みきると、ひょっこりと浮子が水面に立った。ゆらゆらと波にたゆたう浮子の灯りは幻想的で、まるでさまよえる魂を誘う灯篭のようにも思える。  じっと浮子を見つめていると、ふと、自分の浮子から少しだけ距離を置いた海面にもう一つの灯りを見つけた。オレンジ色をした、電球浮子の灯りであった。護岸に目を凝らすと、宵闇の中に淡い人影が一つ、浮き出ていることに気づいた。  ――もう一人、釣り人がいたんだ。  仕掛けの準備に夢中になっていたせいだろう。周りのことに神経は行き届いていなかったから、敬心はその人影の存在に気づいていなかった。  察するところ、やはり太刀魚を狙っているように思えた。釣れているのだろうかと探りを入れてみたいところだったが、安直に話しかけるのははばかられた。昼間ならまだしも、相手の姿がよく見えない夜釣りでは、多少なりとも周りに警戒しなければいけない。釣り師には悪い人はいないといわれているが、あくまで見知らぬ人だ。  するとその人影がゆらりと動き、敬心に向かって一歩、踏み出した。敬心は身をこわばらせて動向を注視すると、影は次第に距離を縮めてくる。  少しだけ距離を残したところで、その影は敬心に話しかけてきた。 「どうだ……今日は……釣れそうか……」  その声は酷く掠れた音で、辛うじて聞き分けられるぐらいだった。 「いや、まだ始めたばかりなのでわかりません。そちらはどうですか」  敬心は相手を推し量るように慎重に尋ねる。 「……どうだろうね、もうすぐ冬が……迎えに来る。……今日が最後の釣り日和だろう。だが、大物が釣れる……チャンスでもある」 「確かにそうですね、なんとか釣りたいです、大物を」  ――そうだ、今日釣らなければ意味がないのだと、敬心は改めて思う。
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