たゆたう波間を灯して

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たゆたう波間を灯して

 波のしぶきで色あせた釣り竿ケースに父の遺した投げ竿をしまい込み、リュックサックに必要な釣り道具を詰め込んだ。スピニングリール、泳がせ釣りの仕掛け一式、そして電気浮子(でんきうき)。それから敬心は一人、キッチンで俯く母にそっと語りかけた。 「行ってきます、今日中には帰ってくるから」  顔を上げた母はとうに憔悴しきっていたが、それでもなお、不安が上塗りされていた。 「絶対、水の事故に遭わないようにね」 「大丈夫だって。父さんみたいな、あんな馬鹿な真似はしないよ」  敬心は父の遺骨箱が置かれている仏壇をちらと一瞥したが、線香を立てることも手を合わせることもない。傍らを素通りして玄関に向かう。 「一度くらい手を合わせてあげなさい、敬心」 「別にいいよ、父さんになんか……」  反抗的にそう言い返した敬心ではあったが、内心、今はまだ父に向き合うことができないと思っていたからだ。  心配そうに見送る母に振り向きもせず、敬心は自転車にまたがって足に力を込めた。  ――今日が父さんを見返すことのできる、最後の機会だ。逃すわけにはいかない。  そう思い自転車を加速させてゆく。ちょうど太陽が地平線の下に隠れた時分で、かわりに満ちた月が東の空に浮き上がっていた。  時を同じくして、空がさまざまな色彩に彩られるこの時間に、海中で劇的な変化が訪れる。魚を食する大型の魚、フィッシュ・イーター達が身を隠す小魚を襲うため、活動を開始するのだ。  ――今日は大潮だ、最高に期待できる。いや、絶対に今日、仕留めなければ。  向かう先は坂を下ってゆくと着く、小さな港の護岸だ。ほどなくして到着した敬心は水平線に視線を送る。  遠くには長々と沖に向かって突き出た防波堤が見えた。おぼろな足下の水面にはテトラポットが積み上げられていて、打ちつける波音が夕間暮れの海岸に響いていていた。  明日、敬心の父が命を落としてから四十九日を数える。敬心は父が手にしえなかった目的を達成するために、いや、父を乗り越えるために、この海を訪れたのだ。  秋が訪れるとこの急深になった港の護岸には太刀魚(タチウオ)が回遊してくる。ルアー(魚などの生き物を模した疑似餌)や生き餌で釣ることのできる大型の魚だ。鋭い歯を持ち銀色の身をうねらせて小魚を襲う姿は海に棲む龍のごとし、である。釣り上げた時にはうかつに手を出すと噛まれる可能性があり、気をつけなければならないという、知識だけは一人前だ。  陸から太刀魚を釣るのは簡単ではないが、父はこの秋、指三本サイズの太刀魚を生き餌で釣り上げてきた。他界する前週のことだった。  ちなみに太刀魚のサイズは、体長だけでなく、体高を指の本数分で数えて表すのが一般的だ。「指三本」とはいえば食するにも十分で、釣り上げて満足できるサイズである。  父の血を受け継いだせいか敬心も元来釣り好きで、友人とルアーで太刀魚釣りに度々挑戦していた。しかしいまだに太刀魚を釣り上げたことはない。  このままでは父に勝ち逃げされてしまう。四十九日になれば父は遠くに旅立ってしまうと考えたから、その前に父の指三本を超える大型の太刀魚を釣り上げようと躍起になっていたのだ。
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