囚われの美女

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囚われの美女

 僕の手に、そっと先生の手が添えられた。絵筆を持つ僕の手は微かに震え、それを包むように制する先生の優しさを感じる。ゴクリと唾を飲み込み、緊張を抑える。徐々に大きく弾む感情。汗ばんだ手。心の乱れが絵に影響しないよう、慎重に空のグラデーションを重ねる。厚みを増せば増すほどに、どんどんと透き通る空。先生に(いざな)われるまま、気づけば自分の意思とは無関係に、僕の筆は色を重ねていった。 「ユキト君はどうして美術部に転部してきたの? もともとサッカー部だったでしょ?」  ある日の部活終わり、床に散らばった画材を片づけていると、先生が僕に尋ねてきた。  先生のことが好きで、なんて本音を言えるわけがない。美術部の顧問でもあり、美術の授業も受け持つ先生。初めて先生の授業を受けたときから、僕の胸のドキドキは止まらなかった。あの日からずっと。もちろん今日だって。 「マグリットの絵が好きで──あんな絵を描いてみたいなぁと、思ったからです」 「特にどの作品が好き?」 「囚われの美女って作品です」  緊張から目も合わすことすらできずに答える。そんな僕をからかうように、先生は微笑みながら僕の顔を覗き込んできた。思わず手にした絵の具を床に落としてしまった。 「あの作品はとっても素敵よね。ユキト君らしい」  ココナッツミルクを思わせる香水の匂い。高校生の男子をここではないどこか妄想の世界へと追いやるには充分に膨らんだ白いブラウスの胸元。血液が身体中を乱暴に駆け巡るのを感じた。 「ルネ・マグリット展、いつか一緒に観に行けたらいいわね」  先生はそう言いながら、床に落ちた絵の具を拾い上げ、僕の手に乗せてくれた。  マグリットの作品は、空の青と雲の白のコントラストが鮮明で美しい。そんな空を僕も描いてみたくて、いつしか油彩に夢中になっていた。その情熱の先にはもちろん、先生の存在があり、そこに向かって僕の絵筆は進む。  油彩に打ち込む僕を応援するように、先生のサポートも増えていった。部活が終わり、みんなが帰ったあとも美術室に残り絵を描いていると、先生がそばにやってきてアドバイスをくれたりした。僕の勉強のためだからと、先生が選んだ画集をプレゼントしてくれることも。先生に対する憧れの気持ちから美術部に入部した僕は、既にひとりの女性として先生のことを見ていたし、僕のことをひとりの男性と思って接してもらいたかった。
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