終わりの花火

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終わりの花火

「あら、女の勘外れちゃったみたいね」  ハクの姿で中身はリンと言う状況に陥った経緯を、帰宅後に話して聞かせたおばあちゃんの第一声はそれだった。正直苦笑が漏れる。  結局おばあちゃんが教えてくれなかったお供え物の中身を、絵に色を付けるというだけの仕事と引き換えに教えてもらうことができたのだ。  おばあちゃんはリンという……ハクの言い方では前世の白狐に対する予想は外れてしまったのだが、どこか嬉しそうに目の前で微笑んでいた。  まるでそれこそがリンだ、と分かっていて言ったようなそんな感じだった。ハクと言う白狐に代替わりしても、変わらないのか確認したようにも思えて仕方ない。  しかし私が積もりに積もった疑問を口にする前に、おばあちゃんが言った。 「そうそう、お祭り誘われたんだって?」  突然話題を変えたおばあちゃんは楽しそうにニヤニヤしながら聞いてきた。お祭りという言葉に一瞬で顔が熱くなる。  あからさまに私が赤くなっていたのだろう。おばあちゃんがさも楽しそうに口を開けて笑った。恥ずかしさを隠すように、無理矢理見栄を張る。 「そ、そうだけど?」 「何時?」 「え?」 「待ち合せよ。ま、ち、あ、わ、せ!」  重要なのか、二回も同じことを繰り返す。そう言えば……と昨日の帰り際まで記憶を遡っていく。  昨日、リンが颯爽と立ち去った後、私と明人は残されたスケッチブックやクレヨンを片してから、神社を後にしたのだが、その帰り道に明人が言った。 『六日後にあるお祭り、一緒に行かない?』  すんなりと入ってくるような丁度良い低さの声で、さらりと言った彼の言葉に、戸惑いが胸の内に広がった。しかし彼は至って真剣のようで、繋いでいた手に一瞬力が籠められた。 『……それは、デート?』  思わず聞かずにはいられなかった。彼は逡巡するように黙り込む。二人の間に気まずいようなむず痒いような沈黙が降りた。  しかしそれもすぐに取り払われる。彼は歩みを止めないまま『うん、デート』と言ったのだ。かあっと頬が燃えるように熱くなる。それでも明人は続けていった。 『話したいこともあるんだ』  ふっと暗い影が彼を覆った感じた。まるで言うことを躊躇っているのに、伝えなければならないという諦めが混じっているのだ。  自分はそこまで察しが良い方でもないとは思うが、神様とかを目の当たりにしてしまった以上、今更彼を疑うという選択肢はなかった。 『わかった』  今度は私が繋いでいる手に力を籠める。それに応えるように彼ももう一度握り合った手に力を込めた。 『……待ち合わせは何時が良いかな』  黙り込んだまま、再び沈黙が訪れようとしたので、私はそれを振り払うつもりで彼に問うた。同時に彼の頭部が一瞬揺れた。陰を見るに、首を傾けているようだ。  やがて彼の口から返事が紡がれる。 『余裕持って、午後六時とかどうかな』  確認するような答えに。私はすぐに頷いた。『六時ね、わかった』そう返すと、彼はようやくホッとしたように、ぎゅっと握っていた手を軽く緩めた。 『ありがとう』  丁度会話が終わるころに、おばあちゃんの経営する、すでに今日の営業が終了した駄菓子屋の前についていた。  そしてどちらからともわからないような別れの挨拶をすると、それぞれの住まいへ帰ったのだった。  ぼんやりと昨日のことを思い出しつつ、おばあちゃんの質問に答える。 「確か……午後六時、かな」 「ふうん、随分余裕あるのね」  なら大丈夫か、と呟いたおばあちゃんに向けて首を傾げる。大丈夫、とは何が大丈夫なのだろうか。まさかそれまで店番とか? 不安に思って私は眉を潜めた。 「やることとかあるの?」  私の質問に、おばあちゃんはというと、盛大に驚いた。「え、ちょっと何? わからないの?」と叫ぶように私に問う。しかしわからないものはわからない。 「どういうこと?」  素直に聞いてみると、今度は長く深い、深すぎるほどのため息を吐いた。本当に分からないのか、と言いたげに可哀そうなものを見る瞳をこちらに向けてくる。 「ここまで鈍感だとは思わなかったわ」 「だからどういうことよ」  私が問うと、おばあちゃんはもったいぶるように逡巡しながら、またため息を吐いてようやく言葉を紡いだ。 「浴衣、着ないの?」  ユカタ、浴衣? あっと声が漏れて、またおばあちゃんにはため息を吐かれる。私は俯きつつも答えた。 「……着る」 「でしょ? だったら支度する時間、大事でしょ?」  畳みかけるように言ったおばあちゃんに、私はもう頷くことしかできなかった。その後も結局おばあちゃんの楽しそうな計画に相槌を打つだけになってしまう。  正直考えなかったわけでない。お祭りと言えば小中学生の頃はよく行ったものだし、散々子供用の浴衣を着てはしゃいでいたのも覚えている。  しかし高校生にもなると、どうしても学校が遠くなる。友達も遠いところから通ってくる人が増え、地元のお祭りには足を運ぶ機会が減ってしまう。  気が付けばもう専門学生になっていて、最後にお祭りというお祭りに行ったのはいつだろうと、思い出すこともなくなってしまっていた。  当然知識として持っていた浴衣を着るという行動も、デートの意味も、私自身に当てはめるということが出来なくなっていたのだ。  何より最近まではそんなことに現を抜かしている時間が持てなかったというのが現状であり、仕方がないと思う。  それに、デートしようと言われただけなのだ。そんな如何にも気合入れていますよ、みたいなコーデをすることに、少しだけ抵抗がある。  とかなんとかうだうだ考えている内にも、時間は平等に過ぎ去っていくものだ。結局その夜はあまり寝ることができないままに、私は元々約束をしていた朝を迎えた。 「おはようございます、リンネさん」  いつも通り開店した駄菓子屋に、数分後に到着した明人が、いつも通りの優しい歩頬笑みをその整った顔に浮かべながら、おばあちゃんに挨拶していた。 「おはよう、明人くん。今日もイケメンねえ」  おばあちゃんもいつも通り元気な笑顔でさらりと彼の容姿を褒めつつ、駄菓子屋に迎え入れる。こんな光景は大体暗くなってからが多いが、今日は予定があるのでこの時間なのだ。  明人はいつものようにハクに渡すお供え物を買って、私が支度を終えて出てくるのを待ちつつおばあちゃんと談笑していた。  と言っても、二人が話すことは専ら料理の話だが。料理に関しては全く持って専門外の私は、二人の話をBGM程度に聞き流しながら画材を詰め込んだリュックサックを背負う。  今日は動きやすさを重視し、また画材で汚れても問題ないような服装にした。目的は絵を完成させること、それから……。 「陽! 準備できた?」  突然の大声にビクッと肩を震わせる。最後の確認作業をしている途中に声を掛けられたせいで、それまで確認していたものを一瞬にして忘れてしまった。  が、おばあちゃんは気付いていないようだし、いつまでもうだうだとここにいるわけにはいかない。  私はため息を吐いて玄関から持ってきた靴を駄菓子屋に直結している出入り口にもっていく。 「あ、陽さん、おはよう」  こちらを見ていたのだろう。すぐに気付いた明人が私に向かって微笑んだ。その表情が昨日よりもどこか吹っ切れたように見えるのは、気のせいだろうか。  なんて、自意識過剰も大概にしないと。私は同じように明人に笑いかける。 「おはよう、明人さん」  すると彼の視線はすぐに私の足元に置かれている、パンパンに詰まったリュックサックへ注がれる。「もしかして画材道具?」彼は察しが良いようだ。 「そうだよ。絵の完成させたいし」 「そっか」 「それに絵を教えるって約束、まだ果たしてないしね」  彼が一瞬キョトンとした。が、すぐに思い出したように「ああ!」と声を出した。その瞳にはさっきまでの戸惑いは一切なく、まるで星の光が散りばめられたような輝きが灯っていた。 「覚えててくれたんだ?」 「そりゃもちろん」 「ありがとう!」  子供みたいに素直に喜ぶ明人さんを見ていると、何となく諦めかけていた気持ちが再び揺れ動かされるような感覚に陥った。  しかしそれを表に出すことはなく、素早く下に置いた靴に足を突っ込んで、リュックサックを背負った。同時に、新聞を読み始めていたおばあちゃんに声を掛ける。 「それじゃ、いってきます」  するとおばあちゃんはいつものように老眼鏡を軽く持ち上げて私を一瞥すると、ニヤニヤしながら返してくれた。 「はい、いってらっしゃい」  特に弄るような言葉はなしにそう言われて、ホッとしつつ明人を連れ立って駄菓子屋を後にする。  そのまま自然な流れで明人が私の左手を取ったので、びっくりして足を止めると、彼はクスクスと笑いながら問うた。 「手、繋いじゃダメかな?」  意地悪だ。率直にそう思った。けれど彼があまりに楽しそうに、嬉しそうに笑いながら言うので、つい許してしまう。 「ダメじゃない」  そういうと、彼はさらに嬉しそうに笑うと、一度ぎゅっと力強く握ってまた歩き出す。私も引かれるがままに足を動かした。 「そういえば……今日はどんな絵を教えてくれるの?」  坂道をゆっくりと登りながら、ワクワクを隠せていない明人がそう言った。正直あまりちゃんと考えていなかったが、彼は綺麗で懐かしい状系を描きたがっているようだった。それに合わせるのなら水彩画の方が向いているだろうか。  そう思いつつ、手軽なものを思い浮かべて私は彼に説明した。 「水彩色鉛筆を使ったものかな」 「水彩色鉛筆?」  案の定彼は知らないようだ。まああまり絵に関わってこなかった人なら、普通の反応をするのだろう。  私は簡単に噛み砕きつつ、水彩色鉛筆について説明する。歩きながらなので身振り手振りでは伝えられないのが少し辛い。 「水彩絵の具って言うのは知ってる?」 「うん、小学校で使ってたあれだよね」  軽く頷いたようだ。頭が揺れるのを視界に収めつつ、私は自分が慕っている、ちょっと適当な先生の説明を思い出しつつ言った。 「そう、それをもっと手軽にしたものだと思えばわかりやすいかな」 「あ、水を使うんだ?」  納得したように、今度は何度か頷く。私は「うん」と短く返してから、細く説明をする。 「用意するのは水彩色鉛筆と筆、それから水彩紙」 「水彩紙?」  知らない単語が出るたびに、質問してくれるのはありがたいな、と思いつつも、ちょっと面倒だなと思ってしまったことに罪悪感を覚えた。  それをかき消すように私は少し早口で説明をする。 「専用の、って意味だよ」 「なるほどね」  また、うんうん、と頷く明人。そこで畳みかけるように、今回揃えた画材がどこで揃えられるか持伝えておいた。  まあ今のご時世、スマートフォンという画期的なものがあるのだから、わざわざ言う必要がなかったかもわからないが、彼が喜んでくれるならそれでもいいか、と思う。 「まあ紙とか筆なら百均で揃えられるから、お手ごろだよ」 「それはよかった」  彼は苦笑しながらもホッとしたらしく、手に籠めていた力を緩めた。私も苦笑しつつ報告をしておく。 「今回は私が用意したから、それ使って」 「ありがとう」  一瞬こちらを振り返った彼は、とても満たされたような表情を浮かべていて、私はつい照れ隠しをするつもりで言った。 「先行投資ってやつよ、気にしないで」  すると彼は苦笑した。「絵が上達する自信、ないなあ」と独り言のように呟きながらもどこか楽しそうだし、あまり深く考える必要はないだろう。  丁度話題にひと段落が付いたところで、神社の入り口に設置されている石の鳥居が目の前に聳え立つ。  やはりここで一旦止まってしまうのだが、彼は何も言わずに私に合わせて止まってくれた。ふと、昨日聞けなかった疑問を口にする。 「明人さん」 「ん?」 「昨日ハク……じゃなくてリンに、コクって呼ばれていたけど、それってあだ名か何か?」  言ってしまってから、しまった、と思った。理由は明人があからさまに表情に影を落としたからだ。これは禁句だったのだろうか。心配になる。 「あ、嫌だったら答えなくてもいいよ?」  苦し紛れに放った一言は、結局聞けるなら聞きたいと言っていることに変わりはないのだけど、それでも幾分か表情が和らいだのを見て、少しホッとした。 「話、長くなるから……」  また今度話すね、と彼は言った。その場しのぎの嘘だろうか。それでも覚悟を決めたような表情の中に迷いが見えるのは、ちゃんと伝えようとしているからなのだろうか。  彼の胸の内に秘められた想いは知る由もないが、疑っても仕方がないだろう。私はそっと微笑んで言う。 「分かった。ゆっくりでいいから」  彼が何を恐れ、何を伝えようとしているのか、わからない。正直怖い。それでも信じることは、つまり私が彼を……。 「……陽さんは、優しいなあ」  お礼の代わりだろうか。私の頬にそっと触れて、苦しそうに歪められた顔を無理矢理にも笑顔にしようとしている明人さんを見るのは、少し辛かった。  そこから階段を登り切るまでは、沈黙が二人の間を蔓延っていた。というか、主に私が自然とそうせざるを得なかっただけだ。というのも、私は一向に体力が追い付かない。 「陽さん、大丈夫?」  石でできた、決して急ではない階段を登り切った先で、何食わぬ顔をしつつ登り切った明人が、私を心配してしゃがみ込む。 「……大丈夫」  正直昨日よりはまだ余裕があった。恐らくほんの少しずつは体力がついてきているのだろうと思う。が、やはりキツイことには変わりない。 「もうちょっと待って……」  必死に呼吸を整えながら言うと、明人は私の背中からリュックサックを取り上げて自分が背負う。 「ゆっくりでいいから」  言いつつ、私の背中を大きな手で優しく撫でてくれる彼に感謝しつつどうにか落ち着こうとして深呼吸を繰り返した。  その状態が冷夏のダウンしていた姿と重なるように思えて、ちょっとだけ恥ずかしくなったが、私と冷夏では体質も体格も年齢も違う。  出来れば冷夏には元気に生きてほしいところだが、と思い始めたところでようやく普通に呼吸しても苦しくなくなってきた。 「……もうそろそろ大丈夫みたい」  言いながら背中をさすり続けている明人を見上げると、彼はホッとしたように私の背中から手を離した。それまで感じていた温もりが消える感覚に寂しさを覚えたが、仕方ない。  私はようやく登り切った場所から移動する。その都度顔を上に向けてしまうのは、やはり癖なのだが、やはり何度見ても美しい景色が広がるばかりだった。 「陽さんは、この景色が好きなんだね」  明人が隣からそういって笑った。私はなんだ嬉しくなって、得意げに「綺麗でしょ」と返した。  後から考えてみれが、彼は何度もここに通っているのだから、私よりこの景色を見ているはずだ。そんな人に綺麗でしょうなんて言葉は失礼だっただろう。  しかし明人は微塵も気分を害した様子を見せずに、目を細めて視線を上へ移した。 「本当、綺麗だよね……」  小さく、懐かしそうにそう言った彼の瞳が、一瞬揺らいだように見えた。反射的に確認しようとしたところで、彼が振り返っったので、思った以上に顔が近くなってしまう。 「あ、ご、ごめんなさい」 「こちらこそ」  一瞬で縮まった距離は、あっという間に元に戻って、二人の間に気まずい沈黙が訪れてしまう。しかし彼はすぐに我に返ったように私へ微笑む。 「とりあえず行こうか」  そう言って差し出した手を、少し緊張しながらも取ると、彼は一層美しい微笑みを浮かべて、今まで通り腕を優しく引いてくれた。  そうして社の前に着くと、どちらからともなく手を放して、二人で賽銭箱に小銭を投げ入れる。  手を叩く音が二回。小さな境内に響いて、また静けさが包み込むように降りてくる。その頃にはすでに一礼も終えて、未だに手を合わせている明人をじっと見つめていた。  ふと、彼の手にある痣が目に留まる。その痣がどこか見たことあるようなものに見えて不思議な気持ちになった。色白の肌には似つかわしくないその痣が、ないと困るようなそんな。  彼は一体何をそんなに熱心に願っているのだろう。それは私が知りえないような、込み入った願いなのかもしれないと思ったら、何故だか涙が込み上げてきて、ちょっとだけ鼻を啜った。  ハッと目を開けた明人がようやく最後の一礼を済ませる。そして私へ視線を移すと苦笑した。 「ごめん、待たせて」 「全然! 何をお願いしていたの?」  何気なく聞いてみると、彼はなんて答えようか悩むように、顎に手を当てて唸る。次第に険しかった表情がゆっくりと笑顔になると言った。 「お祭りの三日間が晴れますように、かな」 「えー絶対違うでしょ」  散々悩んだ末に言ったのだ。願ったのは絶対に違うことだろう。それでも彼はそれ以上言おうとせずに笑って誤魔化した。  結局私は諦めて画材道具を返してもらうと、昨日の池のところに向かった。と言っても、お参りした社のすぐ後ろなのですぐだが。  昨日と同じ場所に着くと、そこにはすでに先客がいた。言わずもがな、ここに祭られているお狐様で、白狐のハクだ。  足音で気付いたのか、それ以前に気付いていたかどうかはわからないが、私たちが姿を現すと、満面の笑みを浮かべて近づいてきた。 「陽! 明人!」 「こんにちは、ハク」 「昨日振りね」  元気に名前を呼んでくれたハクに、明人と私が挨拶すると、ハクはニコニコしながら頷いた。キラキラと輝く黄金色の瞳が細められて宝石が包み込まれているようで美しい。  ハクはそんな自分の姿には興味がないのか、はたまた遊びたくて仕方がないのか、明人の方へチョコチョコと寄ってくると両手を差し出した。 「明人! クレヨン!」 「はいはい、今日もちゃんと持ってきましたよ」  呆れつつも明人は優しくハクに微笑みかけて、スーツに合わせて持っていた小さな黒いバッグから、昨日回収しておいたスケッチブックとクレヨンを取り出した。  クレヨン独特の油っぽい匂いが、懐かしい。昨日は気にならなかったが、さすがにここまで近くで取り出したりしたら、ここまで匂ってくるもんだな、と少し笑った。 「今日は悪戯しないでくださいね」  彼は注意しながらその二つをハクに渡すが、ハクはそんな明人の困ったような表情には目もくれず、目の前のオモチャに視線を注いでいた。  早速一人で適当な場所に座り込むと、さっさと新しいページを開いて、クレヨンを神の上に走らせ始める。  その様子をじっと見ていた明人は、途方に暮れたような顔でこちらを見た。仕方ないという意味を込めて、私は苦笑する。どうやらそれだけで彼に伝わったらしく、がっくりと項垂れた。  さて、そろそろ私も作業を始めようとスケッチブックを二つ取り出す。そしてその場に座り込むと、後から画材道具を取り出した。  諦めたのか、項垂れていた明人は私の隣に腰を下ろして、私の手に乗せられた安物の画材道具に魅入っていた。  きっとこれくらいの画材道具なら説明しなくともわかるだろう。そう思って私は三つの道具を彼に渡した。戸惑いつつも受け取った彼に、名前を伝えた。  水彩色鉛筆、専用のスケッチブック、筆の順に教えると、彼は物珍しいものを見るようにまじまじと手元の画材を眺めていた。  私は自分のスケッチブックの中にある未完成の線画を開くと、彼が問うてきた。 「これの使い方は?」  難しい質問だった。教えようかも迷った問題でもある。正直、水彩色鉛筆はいくつも使い方があって、面倒なことに描きたいものによって微妙に変わってくるのだ。  それも基本的な使い方だけでも六種類だ。しばらく考えた結果、一番失敗しない方法を教えることにした。 「まず、パレット代わりに紙を取り出して、その上に使う色鉛筆で直接描く。そこに水で湿った筆を当てて好きなように混色させる。それを絵の具のように使えばできるよ」  絵を描いている人間なら簡単だと思っていたものだった。だから失敗だったかな、とちょっとだけ思った。  しかし戸惑いつつ言われたとおりに手を動かした明人は、真剣そのものだったから、水を差すのも悪い。私は彼の様子を伺いつつ、自分の持ってきた油彩絵の具を取り出した。  水彩と油彩とでは根本的に違う。私は普段使いやすく落としやすい水彩を主に使っていたから、どちらかと言えば水彩画の方が得意だ。  しかし今回はちゃんと色を付けたいと思った。あまりちゃんと準備してきていなかったから心許ないが。 「とりあえず試しに線画描こ」  まだ眺めている明人に声を掛けると、題材を探すように辺りに視線を泳がした。結局練習がてらハクを描くことにしたらしく、私が貸したシャーペンを手にスケッチブックに向かい始めた。  集中し始めたところを横目に確認したところで、私も画材を丁寧に広げて無くさないように纏めつつ悩みながら手に取ってスケッチブックに少しずつ色を加えていった。  一体どれくらい時間が経っただろう。唐突に鳴り響いた大きなお腹の虫の音に、びっくりして筆を落としたのが、我に返った瞬間だった。  ハッと顔を上げた時には、ハクが目の前で酷く泣き出しそうな表情をしていたものだから、余計に驚いてスケッチブックを脇に置いて彼女に聞いた。 「どうしたの?」 「…………いた」 「え?」 「お腹、空いた」  消え入りそうな声で二回。あまりに切実そうな声で言うものだから、何かと思ったらお腹が空いたのか。ということはさっきの大きなお腹の音は、ハクが。  私はホッとしつつも悩んだ。そういえばお昼をどうするかは考えていなかったのだ。いつもならお昼を抜いてしまうのが生活だから、今日もいらないと思っていた。  しかし明人もハクもちゃんとお昼を食べるのだから、考えておくべきだったと、今更ながらに反省する。 「明人さんどうする……って、あれ?」  そこで水彩色鉛筆を使っているはずの明人の姿がどこにもない。一瞬で不安な気持ちが広がって苦しくなる。彼は一体どこに行ったのだろう。  ところがそんな心配は一瞬で消え去った。数秒後に明人が社の隣からひょっこり頭を出してこちらに笑いかけたからだ。 「お待たせ、持ってきたよ」  そう言って持ってきたのは、まだ出来立てのふわふわした可愛らしいパンの入ったかごだった。ハクの顔がみるみるうちに明るさを取り戻していく。 「美味しそう!」 「リンネさんの手作りだからね」  すぐに食いついたハクに、得意げに微笑んだ彼は私に苦笑する。 「お昼のことすっかり忘れててさ、ハクに飛び疲れちゃったんだ」 「……ごめん、すっかり忘れてた」  素直に謝ると、彼はアハハ、と笑って私にパンを差し出す。意図が分からず戸惑いならまだホカホカしているパンを受け取った。 「そういう日もあるよ、大丈夫」  だから気にしないで、と彼は私に微笑んだ。その笑顔にさっきまで感じていた罪悪感が溶かされていくような気分になった。少し間を開けて頷いた。  それを見ていた彼は満足そうに眼を細めると、自分もパンにかぶりつく。ふんわりとした甘い香りが辺りに広まっていった。  シンプルだけどどこか懐かしく、こんなものを作り出してしまうおばあちゃんはすごいと改めて感じた。  そのパンを大事に口に運んでいると、半分くらい食べたところで明人が「あ」と何かを思い出したように声を漏らす。  自然と彼に向けた視線と、彼の視線とがばっちりと合って、何となく顔が熱くなった気がしたが、彼は表情を変えないままにポケットからスマホを取り出した。彼らしい、真っ黒なスマートフォンだ。 「この間取った写真、まだ送ってなかった」 「あ、そういえば」  出会ってまだ間もない頃だったろうか。確かに夕日の写真を頼んで取ってもらった気がする。すっかり忘れていたが、よく思い出せたな、と思いつつ彼がスマホをいじるのを見つめた。  しばらくしてホッとしたように息を吐いた彼は、私にスマホの画面を見せる。そこにはメールアドレスが表示されている。  彼の意図が分かって、私も慌ててスマホを取り出すと、慣れた手つきで新しい登録先の登録画面を開いた。そこに素早く彼のメアドを打ち込んでいく。 「……終わった?」  私が彼のスマホを見ないで最後の設定を終え、空メールを送信したところで、彼が聞いてきた。私は頷く。 「じゃあ送るね」  彼はそう言ってスマホを操作する。すぐさま私のスマホに届いて、私はすぐに添付された写真を保存し、確認した。……問題ない。鮮やかな茜色に輝く夕日がそこにあった。 「保存完了! ありがとう、明人さん」  私が報告と一緒にお礼を言うと、彼は「いいえ」と言って微笑んだ。そしてすっかり冷めてしまった、残り半分くらいのパンを口に運んだ。私も同じように運ぶ。  結局、持ってきてくれたおばあちゃんのパンは、ハクがほとんどをその小さな体に収めてしまった。明人は苦笑し、私は腹を抱えて笑ったが、ハクは何食わぬ顔をしてまだスケッチブックにむかっていたのが、ハクらしいなと思ったのも確かだ。 「それじゃあそろそろ帰ろうか」  お昼を食べ終えて、再び絵に向かっていた私たちだったが、しっかり時間管理をしていたらしい明人の声掛けによって、眠そうに目をこすったハクが立ち上がる。 「アレ、ちょうだい」  どんなに眠くてもやはり忘れてはいなかったらしい。明人はすぐにバッグからお供え物を取り出してハクの小さな手に握らせる。  それだけでもハクは大満足らしく、満面の笑みを浮かべた。「ありがとう!」と明人に向けて言う。それから眠たげな視線を私に向けた。 「絵、待ってるね」  それはどっちの言葉だろう。咄嗟に判断できなかった私は、とりあえずにっこり笑ってしっかりと頷いた。それから思い出したようにハクは言う。 「お狐祭り、三日間は、人前に出てもいいの?」 「ええ、子供に交じって遊ぶのがハクの役目ですから」  明人はそう言ってハクの真っ白い頭に優しく触れる。それを気持ちよさそうに受けたハクは、眠そうだが笑って言った。 「楽しみ!」  そしてハクはその場でゆっくりと白狐の姿に切り替えると、昨日より些かゆったりとした歩調で茂みの中に消えていった。  見送るように見つめていた私と明人だったが、姿が見えなくなったところで片づけを始める。そこで一つ聞いてみた。 「お祭りって三日間あるんだ?」 「そうだよ。僕たちは最終日の花火が打ち上げられる時に行く」  それだけは譲れない、と強い意志を瞳に宿した彼は言った。いつもと違うその表情に鼓動が早くなるのを感じながら、私はリュックサックに画材道具をしまい込んだ。  今日だけでだいぶ進んだから、これならお祭り前には見せることができるだろう。出来れば早く完成させたいと焦る気持ちを落ち着けるように、スケッチブックを丁寧に閉じて脇に抱えた。  丁度彼も片付けが終わったらしく、私が声を掛けようとしたところで振り返った彼が微笑んだ。 「さ、帰ろうか」 「うん」  自然な流れて彼と手を繋ぐと、帰路に着いた。いつもより明るい時間だからだろう。足元も一歩前を歩く彼の背中がはっきりと見えるのが、何故だか嬉しかった。  きっとお祭りの日も、楽しい一日になるだろう。そう信じて疑わないまま、私たちは刻一刻と過ぎ去っていく時間に身を委ねていたのだった。  あれから三日が経って、ようやく絵は完成間近となった。明人も水彩色鉛筆を使った絵が段々ん上達していくのを感じて嬉しそうであったし、ハクもハクで自分の新しいオモチャが手に入ったことで夢中になっていたようだった。  六日目の朝。私はいつも通り七時にセットしておいたアラームの音に起こされて、眠気が抜けないぼんやりとした重い頭を持ち上げる。  今日は確かお狐祭り最終日だったか。と言うことは、明人とデートする日。そう自覚し始めてようやく目が覚めてくる。  そこに突然の通知音が響いて、ビクッと肩を震わせた。瞬間的に目が覚めて、そのままの勢いでスマホを確認すると、寝起きだというのに顔が熱くなっていくのが分かった。  急いで内容を確認すると、どうやら待ち合わせ場所についてのようだった。午後六時に駄菓子屋に迎えに来るという。  わかった、と返してから、思い切り息を吐く。すっかり緊張しているようで、ドク、ドク、と鼓動が煩い。 「……陽~朝ごはんできたわよ~」  一階からおばあちゃんの声が響く。「は~い」と返事しつつ、着替えやすそうな格好にすぐ着替えて部屋を後にした。 「きつくない? 苦しかったらちょっと緩めるけど」 「大丈夫、かな」  おばあちゃんが帯の締め付けを調整しつつ聞く。しかし手馴れているようで、最初からそこまで苦しくはなかった。  私の表情を見つつおばあちゃんは最後に形を整えて手を放す。「できたわよ」そう言いながら一歩後退し、私から距離を取った。 「少し動いてみて」 「こう?」  茜色の袖がふんわりと揺れて、金色に染められた糸が細かな花々を散らせる刺繍が光に充てられて、輝く。お団子に結った黒に近い髪が、夕焼け色の美しいグラデーションを作る浴衣をさらに際立たせる。ナチュラルメイクをしているとはいえ、やはり着せられている感じは否めない。  言われるがままに腕を優美に動かしてみる。おばあちゃんはニコニコしながら満足そうに、はああ、と息を吐いた。 「これならデートもバッチリね」 「そんなこと……でもありがとう」 「どういたしまして」  からかうような言い方につい反論しそうになったが、どうにか留まって感謝した。おばあちゃんはいつになく嬉しそうに頷く。  ひと段落着いたところで、私は手元に用意していたシンプルな籠のバッグからスマホを取り出して時間を確認する。丁度六時になる二分前だった。 「それじゃあ行ってきます」  ゆっくりとした足取りで、用意してもらった下駄に慎重に足を下ろしつつ、スマホと財布と小さなポーチが入った籠を片手にそう言っておばあちゃんに笑いかける。  おばあちゃんはまだ満足そうに、しかし念入りに全身をチェックしつつ、私に向かって頷いた。 「いってらっしゃい、気を付けてね」 「はーい」  私はあまり動かせない腕を持ち上げて、軽く手を振って母屋の方の玄関を使ってお店の前に出た。  そこでもう一度スマホを開くと、六時丁度を機械的な光と共に知らせてくれた。 「……こんばんは、陽さん」  ハッと顔を上げる。まるで足音が聞こえなかったが、そこにはすでに、明人が優しい笑みを顔に浮かべて立っていた。その姿を目にして、息を呑む。 「随分、綺麗な……かっこいいですね」  言葉が上手く出てこなかった。それくらい、似合っていた。似合い過ぎていたとも思うほど、よく馴染んでいるようにも思えたほど。  黒字に散りばめられた白や金の糸が織りなす天の川のように細かい刺繍。よく見れば黒いと思っていた生地は、グラデーションになっていて、舌の方は紫とも紺とも言えるような淡い色を作っていた。 「ありがとう。陽さんは凄く綺麗だ。茜色がよく似合ってるよ」  ニッコリと微笑みながら彼は微笑んだ。あまりの紳士っぷりに、恥ずかしさというよりは感心してしまう。 「……ありがとう」  絞り出すように言って、少し俯いた。かっこよすぎると目を合わせるのすら恥ずかしくなってしまう。乙女か! と自分で自分に叱咤したいところだが、どうにか抑えて、すっと明人に向けて手を右手を差し出した。 「そろそろ……行こ」  私らしくない。そう思っても声が出ない。顔が自然と熱くなるのに対し、口角は上がっていく。彼は気付いているのだろうか。 確認する余裕もないままに、差し出した手は、明人の大きくて優しい手に包まれていた。 「そうだね、行こう」  声だけでも彼がニッコリと嬉しそうに微笑んでいるのが想像できる。それがわかってしまうから、私はさらに俯きがちになったのだった。  駄菓子屋に続く緩やかな坂道を降りて、途中にある十字路を右。そこから街の中心に行けば、もう喧騒に包まれた世界が広がっていた。 「焼きそば売ってるよ~! 具だくさん!」 「おまけ付きのチョコバナナはどうだい?」 「タピオカジュースはいかがですか~」 「ほら、おまけやるから綿あめ買っていきな!」  それぞれ個性的な客引きをしている。同時に漂ってくる色んな匂いに、普段人が多いところに行かない私は、すぐ人酔いしてしまいそうになる。 「皆楽しそうだ」  それでも言い出さないのは、隣を歩く彼が、とても楽しそうに顔を輝かせながら屋台を見ているからだった。楽しそうなのに、水を差すのは忍びないのだ。 「陽さん、アジの塩焼き売ってるよ!」  たくさん並んだ屋台の一つを指さして、彼がこちらを振り返る。アジの塩焼きなんて久々に聞いたな、と苦笑しながら、頷いた。 「食べよっか」  私がそう返すと、彼は「うん」と子供のように笑って頷いた。  それが私たちのお祭りモードに切り替えるきっかけとなった。アジの塩焼きを買って、その近くで立ってかぶりつく。焼きたてはまだ油が乗っていて、塩加減も丁度良く、とてもおいしかった。  食べきった後はすぐ近くにあった射的に自然と足が向いた。彼はやったことがなかったようで、射的銃を戸惑いつつ握っていたのが面白かった。  逆に私は射的が得意で、一度に三つ、お菓子と時計のストラップを後ろに落とすことができた。 「上手いね」  感嘆を漏らす明人に得意げな笑みを見せつつ、手に入れた景品の一つを渡した。それは小さな時計の付いたストラップ。電池で動いてるらしいので、問題なく使えるらしい。 「これ、あげる」 「ありがとう……なんか、立場逆じゃない?」 「そうかな? まあそういうこともあるよ」  受け取りつつ苦笑した彼に私はあっけらかんとした態度で返し、手を引いた。「次、金魚すくい行こ!」急に腕を引いたせいか、一瞬よろけた彼。しかし楽しそうに私に腕を惹かれるままについてくる。  正直金魚すくいはあまり得意ではなかった。あんな破れやすい紙で金魚なんて取れるはずがない。そう思っていたのだが、現実はそうではないらしい。 「……ずる、じゃないよね」  思わず聞くが、彼は動じずに笑顔で「金魚すくいは得意なんだ」と言う。彼の持つお椀の中には、すでに出目金や赤い金魚が三匹ほど優雅に泳いでいる。  対して私のお椀の中には、何とか一匹が限界だった。使えなくなったすくうための網をお姉さんに渡した。ついでにお椀の金魚も要らない、と伝える。金魚には悪いが、さすがに連れて帰れない。 「ねえ、陽さんはこの『すくうやつ』の名前知ってる?」  明人が、やっと破れかけてきたそれを片手に、視線は金魚を追いながら私に問う。 「ん~知らないなあ」  首を傾げつつお手上げだと、答えを求める。彼はひょいっとまた金魚をお椀にすくい入れながら、くすっと笑った。 「正解はね、『ポイ』っていうんだよ」  ポイ? と私が止まっているうちに明人は、笑いながら金魚をすくおうとして、網が破ける。「ああ、破けちゃった」と残念そうな素振りも見せずに、彼は金魚すくいのお姉さんに借りていたものを渡す。 「金魚は要りません」  と言いながら、まだ理解が追い付いてない私の手を取って笑う。 「理由は後で調べてみて」  うーん、と唸りつつ首を傾げるが、彼はそれ以上教えようとしてくれず、そのまま歩き出す。仕方ない、後で調べよう。諦めて後をついていった、  そんなこんなで、お祭りのほとんどの屋台を見て回り尽くしたころには、街がすっかり夜の闇に包まれていた。  時刻はすでに八時を過ぎ、三日続いたお祭りも、そろそろ終わりに近づいてきた、だというのに、喧騒は薄れるどころか、次第に大きくなっていくように感じる。 「皆、フィナーレを迎えてるみたい」  私がそう言って、目を細めると、彼はふいに私の前を歩き始める。手を繋いだままだから彼の半歩後ろを歩く形になった。 「どうしたの」  歩くスピードは決して速くはないけれど、どこか目的を持った歩き方だ。どこかに向かおうとしているのだろうか。 「花火の時間まであと少しだから」  とっておきの場所に案内する。と続けた彼は、こちらを振り返らない。その様子がどこか切羽詰まっているように見えたのは、何故だろう。  しかし有無を言わさぬその大きな背中に、私はぎゅっと口を結んだままついていくだけだった。祭りの喧騒が、明るい電灯が、食欲を刺激する食べ物の匂いが、早送りのように視界に映っては通り過ぎていく。  それを名残惜しそうに彼が視線を泳がせているのは、見て見ぬふりをした。あまりに切なそうな視線だったから、私には何も言うことができなかったのだ。  やがでそんな喧騒が薄れていき、夜の闇が降り立つ、いつもより静かな街に足を踏み込んでいく。それでも彼は足を止めることなく進んだ。 「どこに向かっってるの?」  しばらく歩いてから、周りがあまり知らない道に入っていることに気付いて、質問してみる。不安、というのもあるけれど、彼が焦っているように見えたから、心配になったのも確かだ。  彼は一瞬肩を震わせて、振り向かずに、感情を抑えてそっと囁くように、言葉を放つ。 「……今は、忘れられてしまった場所だよ」  その言葉に、ぎゅっと心臓を掴まれるような苦しさが襲ってきた。何故だろう。知らないはずの感情が、私を支配しているかのようだった。  それに気付いてか否か、彼は少しだけ歩くスピードを速めた。どんどん祭りの喧騒から離れていく。  唐突に、彼は住宅街から脇道に入った。しばらく歩かないうちに、目の前には見覚えのあるようでない、石の鳥居が現れる。突然スピードを落とした彼。 「……ここ?」  私は繋いだに少し力を籠めつつ聞いた。彼は声に出すことなく頷いて、すっとその鳥居の下を潜り抜ける。手を引かれて、私も鳥居を潜った。  秘密基地。まさにその名が似合うような場所だった。神社とは言わないだろうがここは確かに何かが祀られていたらしく、随分風化が進んでいる社が、ポツンと存在していたのだ。 「ここは?」  しばしの間をおいて、私が問う。彼はゆっくりと社を見つめると、苦しそうに目を瞑りながら、言葉を選ぶように吐き出す。 「……黒狐(こくこ)って、知ってる?」 「聞いたことないけど」 「ここは、その黒狐が祀られていた、社しかないけど小さな神社なんだ」  随分小さな声だった。けれど、ここが何なのかわかったことで、幾分か理由もなく感じていた恐怖は和らいだ。  ふと、時刻を確認すると、ブルーライトが遠慮なしに私の顔を照らす。軽く目を細めつつ時計を確認すると、まだ八時二十分を指したばかりだった。 「この神社の名前、昔はあったんだよ」  唐突に彼がそう言って乾いた笑い声をあげた。「けど、気付いたらもう誰も、知らなかったんだ」悲しそうに、辛そうにそう言った彼。視線はまっすぐ社に向けられていた。 「でも、祀る人が減って、名前を忘れられ、存在していても、人々の記憶から消え去ってしまった。……それが辛くてここに祀られていた黒狐というお狐様は、逃げ出した」  流暢に話して聞かせるような言い方。気付けばその様子を想像している自分がいる。そしてそれは、何故か懐かしいと感じていた。 「他の神様に見つからないよう、高天ヶ原から姿を晦まし、人間界にやってきた黒狐はとある街に降り立った。  自分の祀られている街から、かなり離れたところで、人が多くてとても賑やかな場所だった。都会というものだったんだろう。彼の目には全てが新しくて、輝いて映ったんだ」  まるで自分の事のように語る彼は、一切こちらに視線を寄越さない。私はそれを罪の告白のように思う。それは邪魔できない何かが、私の口を塞いでいた。  彼の話はまだ続く。 「さすがに元の狐の姿じゃあ目立つから、そこに住まう人たちの服装を真似て人に化けて紛れてみた。ただ歩くだけでも、彼は楽しかったんだ。 だけど一つだけ、どうしても欲しいものが出来た。本、というものだった。  けど彼は通貨を持っていない。手に入れる術がなかったんだ。だからただ見ていることしか出来なかった。だけど食い入るように見ていたからだろうか。  かなり長い時間を見入っていた彼は、泣く泣くその場を離れるのだけど、そこに慌てて声をかけてきた女性がいた。黒髪が綺麗で、元気な、まるでオオグマ座のα星のようだった。  そこで彼女は言ったんだ。『これ、随分魅入っていたでしょう』と。そして取り出したのは、さっきまで眺めていた中でも、特に気になった、天体についての本だった。  『どうして』と問うと、彼女は可愛らしく頬を赤らめて言うんだ。『とても、綺麗だと思ったから……どうしても話がしたかったんだ』と。  その瞬間響いたドクン、と鼓動が鳴り響いたのが分かった。運命という言葉は僕らが使ってはいけないのに、そうだとしか思えなかったほどだ。  そこから彼の世界は色とりどりの感情に彩られていった。時間を忘れて彼女と過ごし、彼女の話を聞いて、笑いあった。これ以上ないくらい幸福な時間だったんだ。特にこれと言って目立つ顔立ちではないが、逆にそれが安心できた。僕だけが彼女の良さを知っているのだと、嬉しくも思った。  それを彼女に素直に言った時の反応は、本当に愛らしい。彼女と離れるなんて微塵も考えていなかった。それが、、彼にとってはミスだった。  彼女と出会って半年が過ぎた頃の事だ。彼はいつものように木の下で座り込んで、居眠りをしていた。普段なら夢を見ることはないのに、その時は初めて夢というものを見た。  恐ろしいほど美しい姿の神々が何やら集まって話している。声は聞こえない。最初は記憶か? と思うほど鮮明に映っていたが、それ等が次第に険しい顔をして、チラチラとこちらを見ていることに気付いた。  そしてついに神々は口を揃えて言ったんだ。 『お前は追放だ、罰を受け、その身を捨てろ』  その瞬間、まるで濁流に呑まれ、彼らの領域から押し出されるような感覚がビリビリと全身を麻痺させた。身動きが取れない、苦しくて喉が潰れてしまいそうだった。  その瞬間目が覚めたんだ。気が付けばすでに辺りは明るくなっていて、太陽が真上に位置していた。そこで彼女との約束を思い出す。  慌てて待ち合わせ場所に向かったんだ。彼女は怒るだろうか。嫌われたらどうしよう。そんな焦った気持ちで、ただ一心不乱に走った。直前に見た夢のせいか、やたらと呼吸が荒くなって仕方がない中、辿り着いたその場所には……彼女の代わりに一通の手紙があったんだ。  その手紙を見た瞬間に、先程まで感じていた不安の波が、一気に嫌な予感に切り替わって歩むことをやめさせる。しかし手紙は、読まなければ、と手が伸びた。  簡単に広げられた手紙には、短く優しい文字が連なっている。その手紙の内容を要約すれば、彼女は親の決めた人と結婚することになったらしい。もう会うことはないだろう、というものだった。  好きだった。その一言が、抑えていた涙腺を簡単に崩壊させた。そしてようやく自分が取り返しのつかないことをしてしまったことに気付いたんだ。  彼はすでにお狐様ではなくなっていた。高天ヶ原から追放されてしまったことから、彼は力を失い始めたのだ。  手紙を持ったままふらふらと歩いているうちに、視線が突然低くなって、今まで見向きもしなかった人間が、恐ろしいものを見たように怯えた遠慮のない視線を自分に向けている。  誰かが叫ぶ。『呪いの狐』『化け物』『殺せ殺せ』。心無い言葉が、グサグサと彼の弱った心に刺さる。  あっという間に物理的にも精神的にも打ちのめされた彼は……薄れていく意識の中で、ただひたすら謝罪していた。幸か不幸か、それを見ていた神がいたことにも気付かずに彼は、意識を失った」  そこで一旦話をやめる彼。いつの間にか彼の瞳から音もなく、星のような雫がいくつも流れていた。自分も、泣いていることに今更気付く。  それでも彼は語ることをやめることなく、静かな闇に吐き出していく。 「気が付くと何もない空間を、形のない彼は漂っていた。どれくらいそうしていたかもわからない。何も考えることなく彼はそのまま漂っていた。  ところが突然、頭に直接響くような声が聞こえた。『反省しているか』と、一言だけ。彼は……僕は頷く。ただそれだけ。それだけだったのに、まるでチャンスとばかりに光が僕を包み込んだ。最後にもう一度聞こえた声は『情けを、上手く使いなさい』という声だった。」  彼はふいに目をぎゅっと瞑った。それでも流れ続ける涙をふき取ることなく、彼はようやく社から目をそらし、こちらを向いた。 「気が付いたら僕は、人としてこの街に生きていた。自覚したのは数年前だ。よくわからないけれど、この街は随分発展していたようで、最初は戸惑ったよ。  そして僕がやらなければならないことも、思い出した。だからかつて神としてここに祀られていた時の姉と妹の元に向かうようになったんだ。」  と言ってもゼンの元に行ったら追い返されたけれど、と苦笑する。それでも涙は変わらず流している彼に、私は何を言えばいいのだろう。 「リン……白狐は、代替わりしていて、ハクになっていた。嵐の日にある女の子を守ろうとして濁った川で溺れたらしくてね。すでにハクがそこにいたから、正体を明かすことなく今までお供え物を届けていたんだ」 「……それであんな感覚が……」  その話を聞いて、この数日前にハクと入ったお風呂の時の事を思い出した。元気なハクからは想像できないことだったが、先代の最後の記憶だというのなら納得する。 「でもまさか、君に出会うとは思っていなかった」  突然、繋いでいない方の手を私の頬に伸ばした彼は、ガラスに触れるような手付きで私の頬をすうっと撫でた。その手がとても冷たくなっていることに、ビックリして目を見開く。 「明人さん、手が……」 「ねえ陽さん、君は生まれ変わりってあると思う?」  私の言葉を遮った彼は、酷く悲しそうに微笑んで、私の頬に触れたままそう問うた。私は逡巡した結果、曖昧ながらも頷く。  ある、という答えにしたのは、はたして私自身なのだろうか。そんな疑問が脳裏を過ぎった。先程から感じている、彼に対する罪悪感や懐かしさは、おそらく私自身の感情ではない。  まさか、とは思ったんだ。 「僕がかつて想いを寄せていた女性の名は、陽葵(ひなた)と言ってね。陽さんと同じように、絵を描く女性だったんだ。と言っても当時は趣味程度だったけど。とても綺麗な絵を描いては僕に見せてくれたんだよ。どれも……陽さんとそっくりだった。」 「……つまり?」 「君は彼女の、生まれ変わりだということだね」  彼は諦めたように笑って、私から手を放した。言い表せない程苦しい感情が、身体中を駆け巡っているような気がして、気持ち悪い。  しかし同時に、やはりそうか、という納得する気持ちがあった。最初から彼が向ける視線が、私ではない誰かを見ているように感じていたのだ。出来過ぎている、とも思っていた。  明人はゆっくりと視線を落とす。俯くように首を傾けてから、また目を瞑った。そうしている間にも、繋いだ手からは、彼の体温が下がり続けていることに気付く。 「けどもう、僕には時間がないんだ」  ふいに繋いでいる手から彼の温度が消える。それが手を放したのだ、と理解すると同時にどうしようもない寂しさが襲う。  しかし自分から手放した彼も、傷付いているような表情を浮かべている。そんな顔をされては何も言えないじゃないか。そう文句を言ってやりたくなった。  それでも私の中に残る、私のものではない感情がそれを押しとどめる。そんな責める資格はないのだと言わんばかりに邪魔をしてくる。 「……ああ、陽さん。もう花火の時間だよ」  彼がそう言って顔を上げる。そこにはまだ星の見えない闇が広がっているだけ。だが彼にはそこに大きな花が咲くことを知っているのだろう。  私も一緒になって花火が上がるのを待っていた。彼が言うのだから、時間を確認せずとも見れる気がしたんだ。  だけど直前で、まるで夕立のように突然雨が降り出した。ぽつぽつと頬に当たる雨が、次第に強さを増していく。 「……花火、無理かもしれないね」  私が言うと、彼は首を緩く横に振った。「大丈夫だよ」とだけ言って、視線は雨脚が強くなった空に向けられる。  これじゃあテコでも動かないか。と悟った私は、諦めて上を見上げる。目を細めないと目に雨粒が入ってきそうで、怖かったが、不思議と不快感はなかった。 「……ごめん、最後に一つ、許してほしい」  しばらくの沈黙の後に、彼の声が耳に届いて、え? と私が彼の方を向く。と同時に視界一杯に彼の顔が映って、硬直した。  思っていたよりも柔らかいその感触に、身動きが取れなくなる。思考が停止して目を見開いたままその状態を、一体何秒維持したのだろうか。  彼がゆっくりと唇を離す。そこでようやく彼が私の顔に触れていたことに気付いた。 「ごめんね、急に。でも、許して」  彼はそう言って笑った。涙か雨なのか判断が付かないその雫が、いくつも彼の白い頬を伝っていくのすら、黙ってみていることしか出来なかった。  そして段々雨が上がってきていることにも、まるで気が付かなかった。唐突に全身に響くような大きな音が、街全体に響き渡る。  しかしそんな花火に視線を移す前に、一つ、彼に聞かなければなならないことがあった。 「明人さん」 「……何?」 「コク、というのが貴方の、本当の名前なの?」  彼は、しばらくじっと私の目を見つめたままだった。けれど、彼はゆっくりとその頭を縦に振った。「そうだよ」そして眉を八の字にして困ったように笑う。釣られて笑おうとしたけれど、私の頬は引き攣って、ぎこちない笑みになってしまった。 「……花火、見よう」  まるで束の間の幸せに浸ろうとするかのように彼は上を向く。もどかしい。そう感じても何故か花火の方を見上げてしまった。それが、私のミスだった。  とっぷりと夜の闇に浸かった星が見えない夜空に、束の間の光の花が咲く。その美しさに自然と細められる瞳。この夏は、まるでこの花火のように一瞬で過ぎ去った。特別な輝きを持っていたとも言えよう。  感傷に浸りながら、全身に響く花火の音を全身に受ける。すると、視界の端で少しだけ動いたのを感じた。 「ありがとう、陽さん……また出会えてよかった」  そんな呟きと共に、ふっと花火が一度途絶えた。何気ない仕草で彼へ視線を移す……がそこには、誰もなかった。 「……え?」  ドンッ。祭りを締めくくる最後の大花火が舞い上がって散る。同時に真新しい水たまりの上に、彼が最後まで持っていた、あのお供え物がコロコロと音もなく散らばった。色とりどりに作られた、金平糖だった。  その瞬間、急にフラッシュバックしたのは……お供え物の中身が何なのか、リンに問うた時。 『へえ、お供え物ってそれだったんだ』  感心したように興味津々で聞いていた彼は、ふいに笑ったんだ。 『なあんだ、僕の大好物でもあるじゃないか』  アハハ、と笑いながらも懐かしそうに見つめる彼の瞳。その表情を何故今思い出すのだろう。 「……ずるいよ」  もう何が何だか分からないまま、私はその場に膝をついた。 花火の音は、もう聞こえない。彼の声も……もう聞こえない。いくら泣いても、膝をついていても、私の腕を引いてくれる人は、もう……いなかった。  最後に打ち上げられた大きな花火を最後に、祭りは急速に終わりへと向かい、一般市民は、あっという間に帰路へ着いた。  ようやく涙が止まって、汚れた浴衣を軽く見下ろしてため息を吐いた時には、もうすっかり夜も更けていた。祭りのやっていた方に足取り重く帰ってみたが、もう喧騒は聞こえてくることもなく、いつも通りの静かな夜が訪れたことを知った。  ただひたすら帰宅することだけを考えて、私はおばあちゃんの待っているあの駄菓子屋に帰った。  どうにか玄関まで来たが、そこに駆け付けたおばあちゃんが酷く悲しそうな表情をしていたのが、ズタズタになった心に遠慮なく突き刺さって辛かった。  結局あれから、私は明人を見ることもないままに、家に帰る前日を迎えた。明人が消えても私はただひたすら絵を描いて、描いて描いて、描きまくった。  この感情が、たった一時でも紛れるのであれば、と思ってただただ集中しながらずっと部屋に籠りっきりだった。  おばあちゃんが時折呼びに来るから、その時少し散歩したり、冷夏や大地、菜月たちと話したりするけれど、あまり記憶に残っていないから、きっと笑えていなかったかもしれない。  それでも最後くらいは、一日外にいてもいいかな、と久しぶりに外に出た。  あの祭りの日以降は、どんどん気温が下がってきて、今ではすっかり熱気が元気をなくしてしまったようだ。秋の訪れを知らせる香りが、鼻孔を擽って自然とお腹が空いてくる。  おばあちゃんに頼んでお弁当を作ってもらっていてよかった、と内心思いながら緩やかな坂を登っていく。次第に見えてくるのは、もう見慣れたあの石の鳥居だ。  見慣れた、とは言え、ここ数日見ていなかったから、やはり鳥居の前で一度足を止めてしまった。今日が最後だから、見納め、というのもありか。  そこから続く石の階段を、今度は息切れしないように途中で休憩を挟みながら一段一段登っていった。  登り切ったとき、今までで一番息切れすることなくたどり着けたことに気が付いて、一瞬笑みがこぼれた。が、すぐにそれは消え去った。  目の前に広がる光景は、まだ夏の残り香を漂わせていた。生い茂る瑞々しい木々も、葉と葉の間から零れ落ちる小さな光も、その光が照らす風化しつつある小さな社も。  これは最初から変わることなかったな、とホッとする。  しばらくそんな光景を目に焼き付けるように眺めていたが、やがて足が社の方へと動き出す。いつものように賽銭箱に小銭を投げ入れて、少しだげ願を込めつつ手順を済ませる。 「……陽!」  後ろから声をかけられて、振り返ろうとした瞬間声の主が飛びついた。その大きさからすぐに誰だか分かって私は苦笑する。 「ハク、おはよう」 「おはよう! もう明日だねえ」  軽く挨拶して、すぐさま話題を変えたハクは、名残惜しそうに私にくっついて離れようとしない。しかしそのままでいるのも体勢的に辛いので、私は言った。 「お昼、持ってきたから一緒に食べよう?」  するとハクは分かりやすく顔を輝かせて食いついた。 「美味しい~!」  ハクは私が持ってきたお弁当を半分食べながら、破顔一笑した。真っ白のミディアムに近いボブが揺れて可愛らしい。  私もお弁当に入っている白い米を口に運ぶ。美味しいが、何だかすぐに食欲が失せて端を置いた。ちょっと休憩のつもりで蓋をする。  それには気付いていないハクは、夢中でお弁当の中身を口に詰め込む。ところが急に気が付いたように「あ」と声を出した。 「そうだ、陽に見てほしい子がいるの」  そう言って立ち上がったハクは、落とさないようにまだ具が残っているお弁当を足元に置くと、いきなり茂みに飛び込んだ。「ほら、おいで~」という声と共に、ガサガサと揺れ動く雑草が、次第に静かになっていく。  そこから出てきたハクは腕に小さな何かを抱えていた。「いい子いい子」と何かを撫でる彼女は、ちょっとだけお姉さんになったように見える。 「ほら、陽! 見てみて!」  ハクが言いながら私に、腕に抱えられているそれを見せてきた。反射的にその腕の中の物に視線を向ける。 「うわあ、小さい狐」  そこにいたのは、まだ生まれたばかりだろう小さな小さな狐がいた。ダークブラウンのふわふわした毛皮に包まれたその子は、気持ちよさそうにハクの腕に収まっている。  ところが私がその狐を覗き込むように見ると、その子はハッと目を見開いて私をじっと見つめてきた。その瞳が……よく知るあの人にそっくりで、正直息が詰まりそうになった。  ハクはその子について軽く話す。 「この子お祭りの後に生まれたんだけど、ずっと陽に会いたがってたの」  なんでかなあ、と不思議そうに笑いながらその子の頭をそっと撫でる。話を聞いて尚の事信じたくなかった。まさか、と思ったから。  けど私はその話を出すことなく、ハクに微笑みながら古風な包みを彼女に渡した。 「これ、お供え物」  私が取り出した途端彼女の興味が、一瞬で狐から私の手にあるお供え物に視線が行く。差し出せば、奪い取る勢いで取り上げられた。 「ありがとう! 久々だから凄く嬉しい!」  叫んだハク。その喜ぶ様子を見ながら、ふと私は考えを巡らす。  もしもこの子が真実を知ったら。明人がかつて黒狐だったのだと知ったら。彼女は一体どんな顔をして、どんな言葉を吐くのだろう。そしてどんな表情を見せるのだろう。  そう思っても、実行には移さない。ただ微笑んで、ハクが喜ぶ姿を目に焼き付ける。次はいつ来るかわからないから、これが最後になるかもしれないから。  そんな私の思いにそっと寄り添うようなそよ風が、私の頬を撫でていく。すっかり秋の空気を混じらせたそよ風に、自然と瞼が下がった。  きっと私は、この不思議に満ちた夏の事を、恋の事を、忘れることなく生きていくことだろう。いつかまたここに来れた時は、ハクに真実を伝えられるといい。  そんなことを考えながら見上げた生い茂る緑は、何故かぼやけて霞んで見えたんだ。
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