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狐と黒スーツの男
ピピ、ピピ、ピピ、とスマートフォンのアラームが鳴り響く。寝過ごして怠い頭に響く高い音。顔を顰めつつスマートフォンを止める。時刻はすでに午前十時を過ぎていた。
今日もどうやら晴天が続いているらしい。最初はいいが、こうもずっと暑い日々が続くと部屋から出るのが億劫になるのは、やはり都会の楽な生活に慣れてしまったからだろうか。
私は汗でベッタリと張り付いたパジャマを脱ぎながら大きくため息を吐いた。洗って気回しているワンピースを適当に手に取って着替える。それだけで少し和らいだ気分にホッとして、ゆっくりと部屋を抜け出した。
よく見たら部屋の冷房が止まっていた。どうりで暑いわけだ。げんなりと肩を落とす。自業自得だから、最早怒りも湧いてこない。とにかく水分を取りたかった。
地元に帰省してから数日。わかってはいたことだが、特に何も起きることなく平和な時間が過ぎ去った。というのも数日間一通り美しい情景を描けるであろう場所を訪れては描いてを繰り返し、ついにそのストックも底をついてしまったのだ。
さらに尽く六時を過ぎたり、彼と外出先で出会うこともないままに数日が過ぎてしまった。正直半分諦めモードだ。しかしまあ今日くらいは店の手伝いをしつつ六時まで待ってみてもいいかもしれない。そう思いつつ、台所へ顔を出した。
「あ、陽! おはよう」
ここ数日ですっかり慣れたおばあちゃんの元気な挨拶に、薄く笑って「おはよ」と返事した。ここ数日で私が朝に弱いことを知ったおばあちゃんはケラケラと笑う。
「さ、早く顔洗っておいで」
その言葉も聞きなれた。私は一度大きく欠伸をしてから、台所を抜けて、母屋の出入り口付近にある洗面所へと向かった。
家にいるときも眠気覚ましに顔を洗っていたから、特に抵抗もなくやっていたが、おばあちゃんにはそれが珍しかったようで「陽って偉いのねえ」とかなんとか言っていたっけか。
最近の子供はあまり顔を洗ったりしないらしいから、時代は代わるもんだな、と何度か思った。だからと言ってそんな子供たちが嫌なわけではない。
「陽~まだ~?」
おばあちゃんの大きくて元気な声は、朝起きるのが苦手な私にはちょっぴり苦手だが、それを隠してどうにか元気に返事すると、ばっしゃばっしゃと豪快に顔を洗った。
「あ、やっとお店開いた~」
冷夏、菜月、大地の三人がそろって駄菓子屋の前に走ってくる。冷夏が太陽を浴びてすっかり黒くなった肌を隠すことなく晒したまま、店の前の青いベンチにドカッと座った。続けるように大地が隣に座り、ため息を吐きながら菜月が、店に設置された冷蔵庫から三人分のラムネを手に取っておばあちゃんの方へ向かう。
「はい、三人分のお金」
「はいよ、いつもありがとね
「こちらこそ」
おばあちゃんとやり取りする菜月を横目に、私は二人に声を掛けた。「おはよ」と。二人は、こちらを振り向くとニッコリと笑う。
「「陽ちゃんおはよー」」
そう、最近ここに来る子供たちの間で話題にされたらしく、「陽ちゃん」と呼ばれるようになったのだ。距離が縮まったように感じて、くすぐったく感じた。
「ラムネ、買ってきたよ」
すっと後ろから、まるでそよ風のように優しく菜月が腕を伸ばした。「あ、ありがとなっちゃん」と冷夏が受け取る。大地も笑顔で言った。
「サンキュー菜月」
「菜月くんおはよ」
大地がさっそくラムネを開けて飲み始めたので、二人から視線を逸らし、菜月に挨拶した。湧き水のように澄んだ瞳をこちらに向けた菜月。
「陽さん、おはようございます」
ふっと目を細めて微笑む。さっきまで陶器の人形のように表情のなかった顔に薄っすら赤みがさした。どこか子供らしいとも言える、しかし不思議なオーラを放つその姿に、言葉が出てこなかった。
ふと、こちらを見ていた冷夏が驚いたように声を上げる。
「なっちゃんがそんな顔するとこ、久々に見た」
それにつられて大地がこちらに視線を移したので、菜月は一瞬でいつもの無機質な表情に戻る。大地が見る頃には何の変化もない菜月に不貞腐れ、冷夏はクスクスと笑った。
「あ、陽ちゃん、今日はどこ行くの?」
冷夏が三分の一にまで減ったラムネの瓶を下ろす。大地はまだ美味しそうにラムネをラッパ飲みしていて、菜月もラムネ飲みつつスマートフォンをいじっていた。
冷夏の質問には悩む必要もなかった。「今日は特に出かける予定ないかな」すると冷夏は目を輝かせて食いついてくる。
「暇なんだね!」
決めつけるように断言しているが、確かに何かやろうとは考えていなかったから、頷く。冷夏はふふっと微笑んだ。
「じゃあ今日は私たちとすぐ傍の神社いこっ」
唐突な誘いに、一瞬理解するのに時間がかかった。その間にも彼女は話を続ける。
「今日は丁度お祭り二週間前だから、お供え物も持って行くつもりだったの。あとね、神社の裏の敷地にも今日は入っていいってお父さんが言ってくれたからね、行きたいの。でも大人がいないとお父さん少し心配するから……。陽ちゃんならいっかなって思ったの」
捲し立てるように言い切った冷夏。神社の裏か、と呟く。適当に散歩して、神社自体は巡っていたが、神社の裏などはしっかり見て回ることはなかった。ちょっとした冒険をする気分になって、ワクワクする。
「一緒に行くだけで、帰りはバラバラでもいいから!」
お願い、と両手を合わせてぎゅっと目を瞑った彼女の姿に、苦笑する。対する菜月は眼鏡を軽く上げて視線を落とし、大地はどうにかこうにかラムネの中にあるビー玉を取ろうと奮闘していた。
何気なく振り返った先にいるおばあちゃんは「行っておいで」と笑って返してくれた。
「三人は何度も遊びに行ってるから大丈夫よ。それより陽の方が心配だわ」
おどけるおばあちゃんに子供たちが大きな笑い声をあげた。何だか悔しくて恥ずかしくて、ぷうっと頬を膨らませると、おばあちゃんが私におにぎりを渡す。
「たまには冒険気分もいいんじゃない?」
にやりと微笑む彼女を私は思わず凝視した。心の声が漏れていたのだろうか。それともただの偶然か。しかしニヤニヤしているあたり、私の表情から読み取ったのだろうと推測する。「わかった、一緒に行くよ」
降参、と両手を上げて笑った。冷夏の表情はぱあっと明るいものに変わっていく。あまりに眩しすぎて目を細めると、菜月も大地も嬉しそうに笑っていた。なんだかおかしくなってきて、また笑う。しばらく駄菓子屋リンネでは、よくわからない笑いが続いた。
「じゃあ二時にまた来るね」
そう言い残して冷夏は一度家に帰った。同時に菜月と大地も一度家に帰る。どうやらお昼を食べるためらしい。子供たちの規則正しい生活をみて、思わずため息をついてしまう。
「いいなあ」
「どうしたの?」
私のつぶやきに素早く反応したおばあちゃんが、お昼の冷たい素麺を用意しながら聞いてきた。なんとなく口をとがらせて、愚痴るように言う。
「ご飯作ってもらえることが羨ましくて」
するとおばあちゃんが意地悪に微笑んで言う。
「今私が用意してるけど?」
「夏休みの間だけじゃない」
「確かに……夏休み中だけだものね、こっちにいるの」
痛いところを突かれた。私はテーブルに頭をゆっくり落とす。それでもゴンっという音と振動がテーブルを揺らした。「こら、行儀悪いよ」とおばあちゃんが言うのも適当に流して深いため息を吐いた。
「帰ってきてからホームシックになるなんて」
最早愚痴ではなく独り言となっていた。しかし本当に帰ってくるまでは全く何も思わなかったのだ。考えていなかったという方が正しいかもしれない。それくらい都内は忙しないということだろう。
おばあちゃんが苦笑した。どこか安心したような笑い方に、なんとなく彼女の方へ視線を移した。目が合うと口を開くおばあちゃん。
「よかった。陽もまだちゃんと子供だったのね」
その言い方はまさに母親のそれだった。ビックリして身体起こす。おばあちゃんは母よりずっと年を取っているというのに、何故か母を前にしている気分になる。
「朝陽とは上手くいかなかったから、朝陽を見ている気分になっちゃった」
おばあちゃんもおばあちゃんで、おかしそうに笑う。不思議なこともあるものだ、と感じてから、それは違うかと思った。きっと血縁関係にあるから、見た目に出なくともやはり似ているのだ。だから重なって見えたんだ。
母もよく言っていた。たまに私が家事を手伝うと母が困ったように「陽はお母さんに似てるのね」と。
最初それは私から見た母に似ているのだと思っていた。けれど今分かった。あの時母は、自分から見た母の存在を私に重ねていたのだ。だから困ったように、しかしどこか嬉しそうに微笑んでいたのだ。
思考を巡らせて一人納得していると、おばあちゃんは立ち上がって台所に一度引っ込んだ。熱いお茶を入れ直して、また戻ってきた。そこでようやくお昼ご飯の存在に気付く。
「あ、素麺」
ハッと顔を上げれば、おばあちゃんの前にあった素麺が跡形もなく消え去っていた。いつの間にそんなに時間が経ったのだろう、と思っていると、熱いお茶に息を吹きかけながらおばあちゃんが口角を上げた。
「やっと食べる気になったか」
「すっかり忘れてた」
素直にごめんなさい、と言えば苦笑する彼女。一口、少し皺の多い唇を潤すように飲むと優しい声を紡いだ。
「まあそんな考えてる陽見るのは久々だったから、別にいいんだけどね。食べないと冷夏ちゃんたちと遊びに行けないよ?」
あっと声を漏らし、慌てて時計を見た。確かに、すでに一時半を過ぎている。彼らは二時に戻ってくると言っていたのだ。早く食べなければ間に合わない。
「考えるのはまた今度にしな」
おばあちゃんの助言に何度も頷きながら素早く自分の前にある箸を手に取って素麺へと伸ばした。つるつるした素麺をめんつゆに浸しながら、私は言った。
「いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
めんつゆにつけた素麺を落とさないように掴んで啜った。つるっとした感触が口いっぱいに広がって、思わず「ん~うま」と声を出す。それを何も言わず見守るおばあちゃん。
結局私が素麺を食べきるまで、麺をすする音しか部屋には響くことがなかった。
現時刻、午後二時半。冷夏が少し膨れてベンチの前に仁王立ちしていた。最初とは逆で菜月がベンチに座ってスマートフォンをいじっている。私は少し悩んでから、菜月の方に声を掛けた。
「大地くん待ってるんだよね?」
菜月がスマートフォンから視線を私に移して、簡素な返事を寄越した。
「はい」
「遅れてる原因は?」
「大地が言うには、迷子見つけたから、らしいです」
「なるほど」
「冷夏はちょっと拗ねてるだけですから、気にしないでください」
「拗ねてないもん!」
突然飛んできた大きな高い声に、ビクッと肩を震わせる私。菜月は軽く息を吐きながらも何も言わずに彼女を見つめた。
よく見たら彼女の目元は微かに赤くなっている。「頭ではわかってるの」と語り始めた彼女を取り巻く空気の質が変化する。
「わかってるんだけど、早く来てほしくて、そんな自分が嫌で……」
「自己嫌悪?」
菜月が補足するように口を開いた。冷夏は「そう、それ」と肯定する。それから、自分の言ったことを恥ずかしがるように顔を覆ってしゃがみ込んだ。
「だいちゃんはいいことしてるってわかってるのになあ」
その様子を見てなんとなく気付いた。だからこそ余計な人事を言う前に菜月に確認する。
「もしかして冷夏ちゃん」
「……はい、大地の事が好きらしいです」
言葉を選ぶようにして菜月が断言した。冷夏曰く、最初は幼馴染として好きだったはずなのに、気付いたら好きになってたらしい。
その相談をされていた菜月は正直よくわからなかったが、少し誘導してやれば簡単に自分の答えを導き出せるものだから、なんとなく彼女の人と成りに興味を持ったのだという。
リアルな子供の恋愛事情を知った気がしてカルチャーショックを受けた。菜月というものが私にはわからない。
「冷夏」
私が思考停止しているうちに、菜月が座ったまま彼女に声を掛けた。顔を覆ったままの彼女は、手の隙間からチラッと菜月を見て「何?」と返す。どこか悲しそうな声だった。そんな彼女に菜月は報告。
「大地、もうすぐこっち来るって」
彼女はハッと顔を上げる。菜月は頷いた。「笑顔で接していたいんだろ?」後押しするように彼が言えば、しばらく眉間に皺を寄せていた冷夏が、覚悟を決めたように立ち上がった。
次の瞬間には、いつもの冷夏らしい無邪気な顔がそこにあった。さっきまでの悶えるような姿からまるで一皮むけたような変わりように、凝視する。菜月は「切り替えるまでが長い」と注意した。冷夏がコロコロと笑う。
「前よりは上達したでしょ」
ニヤっと笑った彼女を見て、私は深く、長くため息を吐くしかなかった。今どきの子供ってやっぱり怖い。そんな私たちの様子を、おばあちゃんは微笑みながら終始眺めていた。
「わりっ遅くなって」
大地が息を切らしながら走ってくるなり、冷夏と菜月を見つつ言った。冷夏がニコニコとしながら返す。
「全然、その迷子の子、大丈夫だったの?」
「ああ、少し時間かかったけど、交番着く前に鉢合わせしてさ」
再会できてよかった、と大地が心底嬉しそうに笑う。それを見た冷夏も、慈愛に満ちた表情で微笑んだ。
「お疲れ様」
「おう、ありがと」
冷夏が労いの言葉を述べて、大地の顔には一層嬉しそうな感情が広がる。それを眺める私は、同じように隣で眺める小さな肩に向けて言う。
「仲いいね」
その言葉に、ふっと菜月が微笑んだ。あまりに不思議なオーラを放つその優しい顔が本当に綺麗だな、と思った。
「凄く綺麗だ」
見ている物は違ったはずなのに、シンクロする言葉。ドク、ドク、ドクと鳴り響く心音が聴こえるほどに驚いた。そしてどうしようもない創作意欲にかられる。
気が付けば私は立ち上がっておばあちゃんの隣に置いておいたスケッチブックを片手にサラサラと情景を描き込んでいた。時間を切り取る写真のように、私の瞳が捉えた世界を写し取る要領で、ひたすら描くことに集中した。
「……陽ちゃん」
私の名を呼ぶ声に、ハッと目を見開く。視界の上の方に、冷夏がこちらを心配そうに見上げる姿が映った。何度か瞬きして彼女へ視線を移すと、そこに大地と菜月もいることに気付いた。三人とも私を心配しているのか、表情が暗い。
ところがおばあちゃんだけはニコニコと頬杖をついてこちらを見ていた。冷夏が言う。
「リンネさん大丈夫だからって言ったけど、あまりに集中してるから怖くなっちゃって」
邪魔してごめんなさい、と小さくいった。慌てて彼女に言った。
「邪魔になんてなってないよ」
「ほんとに?」
「ほんとほんと」
確認するように聞いてきて、慰めるように反復すると、彼女はホッとして胸を撫でおろす仕草をした。可愛らしい子供な一面に、ふっと微笑むと、大地が前のめりになって言う。
「何描いてたの?」
ああ、と私は三人に、あとおばあちゃんに見えるように即興で描いた私の世界の一部を公開する。三人は食い入るように私のイラストを見ると、かなり興奮した様子で顔を上げた。
「凄い! これ私たち? ロマンチック~」
「そうだよ」
「なんかキラキラしてんな!」
「ありがと」
「希望にあふれてるってこういう時に使うべきですかね」
「そこまで言う?」
冷夏、大地の感想はまあわかる。そこまで褒められた絵ではないけれど、素直に率直に褒めてくれた二人には感謝したくなった。が、菜月は随分凄い言葉を使ってきた。こんな白黒の絵で言われてしまっては、他の作品が出来たとき見せるのが怖くなってしまう。
「本当にそう思ったんですよ」
どこ吹く風で、しかし素直な返答に、胸のあたりにジワリと温かいものが広がった。絵にこんなにも優しい言葉をかけてくれた三人。何故だか笑いがこみあげてきて、少しだけ涙が落ちていった。
「陽の世界は、見るたびに成長していくね」
おばあちゃんが笑ったまま静かにそう言った。「やっぱりあの時背中を押したのは間違ってなかった」と。
その言葉に、緩みかけていた涙腺が軽く崩壊した。しばらくは、駄菓子屋に私の鳴き声と子供たちの心配する声が飛び交っていた。
時刻 午後三時一歩手前辺り。ようやく止まった涙。赤くなった目の周りを冷やすように濡らしたタオルを当てていると、菜月がおばあちゃんに話しかけていた。
「いつもの、お供え物ください」
「はいよ」
すると、いつもならその場で会計を済ませるおばあちゃんが、母屋に一度引っ込んだ。なんでだろう、と不思議に思いながら戻ってくるのを待つ。しばらくして、再び戻ってきたおばあちゃんの手には、紙に丁寧に包まれた小さなものが乗せられていた。
「はい、百円ね」
おばあちゃんがその所謂お供え物というものを他の商品よりも丁寧に扱いながら、菜月に言った。菜月は言われるがままに、黒くてシンプルな財布から、銀色に光る百円玉を取っておばあちゃんに渡した。
物々交換のように同時に入れ替わるものが、とても神聖なものを見ている気持ちになって不思議に思う。
「おばあちゃん、お供え物って?」
さりげなく菜月の後ろに立って聞いてみた。あわよくば見れないかな、とか考えていたら菜月が冷たさの混じった低い声を放つ。
「見ないでください」
「え、あ、ごめん」
するとおばあちゃんが言った。「それは中身を見ちゃいけないよ」と私に説明する。
「お供え物はあくまでそのままお供えするんだ」
「中身、知らないの?」
「用意する人は例外」
なんて都合の良い言い訳だ。おばあちゃんの変わらない笑顔に、全身から力が抜けていくようだった。
「てことは菜月くんも知らないの?」
「はい、知りません」
さも当然と言った風に言ってのけた彼に、「そっかあ」と返した。私はそのままふらふらとおばあちゃんの隣に座る。冷夏がニコニコしながら近づいてきた。
「お話終わった? お供え物も大丈夫?」
可愛らしい声なのに、どこかお姉さんのような口調。妹や弟がいるのだろうか、と何気なく思った。
「終わったよ。お供え物も買った」
「はあい、陽ちゃんも出れそう?」
突然話を振られて一瞬戸惑ったが、何度か頷いた。「いつでも出れるよ」と。冷夏はふっと微笑み、店先に向かう。
「じゃあ行こう!」
「おう! 神社の裏の林、楽しみだな!」
先導するように腕を振りながら歩く冷夏の隣に、さりげなく立った大地。その後ろをゆっくりと荷物をしまいながら菜月が付いた。
私も立ち上がっておばあちゃんを振り返る。「それじゃ、行ってくるね」おばあちゃんはニッと歯を見せて笑った。
「はい、いってらっしゃい」
大きな声が店に響いて、苦笑する。さて、振り返って先に行った三人を追いかけなければならない。
適当に放置していた開きっぱなしのスケッチブックが、駄菓子の箱の積み上げられた一番上で、太陽光を浴びている。シャー芯に含まれている黒鉛が光を反射させて、輝いているように見えた。
それを見た瞬間、先程の称賛がリピート再生されるように耳元に響いてくるようで、こみ上げてくるものがあった。
また溢れ出しそうな涙をグッと堪えるように、いつも以上に丁寧にスケッチブックを閉じると、シャーペンを服の胸元にセットして、スマートフォンがワンピースのポケットに入っていることを服の上から確認する。
「そうだ、六時前には帰ってきなね」
おばあちゃんが、意地悪な笑みを浮かべて言う。ようやく治まっていた頬の熱が、違う意味でぶわっと戻ってきた。「ちょ、おばあちゃん!」と私が怒って振り返ると、彼女は大きく口を開けて笑った。
「からかわないでよ」
ぶっすーっと不貞腐れつつ私は店を後にした。店を出る直前にもう一度だけおばあちゃんを振り返り、手を振って今度こそと意気込む。一歩、また一歩と踏み出すスピードが段々早くなっていき、私はあっという間に三人に追いついた。
「あ、陽ちゃんやっと来た~」
「遅いぞ陽ちゃん」
冷夏が腰に手を当ててちょっとだけ目を吊り上げながらも、笑顔で言った。まるでヒマワリのようだ。元気さに当てられて歳の差を初めて恨んだ。
大地がニカッと笑って後頭部で組んだ両手をそのままにくるっと振り返ってこちらに背を向ける。男の子だなあ、と眺めつつ近づいていくと、菜月が私の方へ歩いてきて、突然何か水のようなものを全身にかけた。
「ひっつ、つめたっ! 何これ?」
一瞬、被ったところだけ零度になった感覚がして、身震いする。同時に肌を何度か擦っていると、彼は言った。
「日焼け止めです」
「あ、日焼け止めか。あれ、私だけ?」
「冷夏は肌自体弱くて日焼け止め塗っても焼けちゃうんです」
「体質か、なるほどね」
納得した。元気いっぱいなのはいいけれど、紫外線は乙女の天敵だ。きっと本人は焼けたくなんてなかっただろう。私は顔やら腕やら露出した肌を守るように日焼け止めスプレーを塗った。
冷夏がヒマワリなら、宛ら大地は名前の通り大地であり、菜月はそれを支える水のような存在だろう。そう思ったのには理由がある。
「え、冷夏って身体弱いの?」
真っ黒、とは言わないが、日に焼けた健康的な肌。有り余っている元気に明るい姉のような口調。どこからどうみても普通の、寧ろ普通の子よりも元気な子供だ。
しかしそれはだいぶ無理をしている時もあるらしい。水分を細目にとらなければ脱水症状を起こし、そのまま熱中症で倒れる。逆に冷房に当たり続ければ風を引いて、一か月は直らない。
「それは……夏大変だね」
「夏生まれなのにね~」
なんてことない、というふうに菜月が持っていた水を飲みつつ軽く答える。その間にも彼女の額から落ちていく水滴の量は、かなり多い。
今は神社の鳥居をくぐったすぐ目の前の階段に座り込んで休憩していた。大地や菜月は全く、でもないが疲れていなかったし、私も平気だったのだが、問題の冷夏が過呼吸気味になってしまったのだ。
「調子いい日とそうでない日の差が激しいんだよな」
大地がそう言って冷夏を膝枕している。これが普通の状態だったらおそらく小さな感情が芽生える瞬間なのだろう。そういう日が来ればいいのに、とも思ってしまった。
「そろそろ大丈夫そう」
冷夏がそう言って少し顔を動かした。まるで撫でるように優しいそよ風が神社の方から吹いてきて、サラサラと彼女の髪が揺れる。木漏れ日が彼女の顔を軽く照らして、また消えた。
「うん、呼吸も落ち着いてきたね。もう少し休んだら行こうか」
菜月が冷夏の様子を冷静に観察して、ホッとしたように表情を緩める。大地も優しく微笑んだ。
私は先に立ち上がって軽く腰の辺りを押した。硬いところに座っていると、さすがに痛くなってきて、立ち上がるのが辛くなる。やはり、十代の頃とは違うようだ。
そんな悲しい現実に寂しく口角を上げていると、視界の端で冷夏が身体を起こすのが見えた。肩を支える大地の表情は今までで一番真剣だったから、きっといつも彼女を開放する時は緊張するのだろう、と勝手に解釈する。
その間に菜月が水分やらタオルやらを小さな斜め掛けのバッグにしまい込む。その小さなバッグの中にどう入れているのだろう、と不思議に思いつつ眺めているうちに、片づけは終了した。
「あと少しだ、行こう」
菜月がそう言って冷夏に手を差し伸べる。それを冷夏がまだ青白い顔に笑みを浮かべて取り、彼女の肩を大地が支えたまま立ち上がった。
ふいに、大地と目が合った。咄嗟に微笑むと、彼は少し目を泳がせて曖昧に笑う。その笑顔に隠された想いは、追究しないで置いた。
大きな御神木が作り上げた日陰の、まるで気のトンネルのような、神社に続く階段を、ゆっくりとした足取りで登っていく。次第に冷夏の表情も明るいものになっていき、その手を取る大地の顔も明るさを取り戻していった。
「せーのっ」
すっかり元気になった冷夏の声掛けで、最後の一段を皆で飛び越えるように登り切る。そこに広がる景色は、今年二回目だが、登り切った、という達成感のせいだろうか。どこかキラキラしているように見えた。
実際に高く育った木々の隙間から零れる光が、風で揺れるのでキラキラと輝いているように見える。昼間天然イルミネーションのようで、思わず目を細めて眺めてしまう。と、三人がすでに奥へ奥へと進んでいくのに気づいた。
「そんな奥に行くの?」
こんなにも綺麗な景色に目もくれず、好奇心のままに進んでいく姿は子供らしさも感じられるが、不安も募った。子どもだけで行くのは怖い、と言った冷夏の父親の気持ちが今更ながら共感してしまう。
「今日の目的は神社裏の林だから!」
「目一杯遊ぶんだ!」
冷夏と大地が、興奮しつつ歩きながら叫ぶ。菜月だけが振り返って、私の不安を消し去るように言った。母が子を宥めるような言い方だったともいえるが。
「僕がちゃんと見てます。だから心配しなくて大丈夫ですよ」
日本人らしい黒目だというのに、透き通っていて酷く綺麗な瞳を持つ彼が、一層真っすぐこちらを見つめる。何故だろう。それ以上言葉が出てこなかった。
「……わかった。気を付けてね」
せめてもの声掛けに、ふっと微笑んだ彼は「はい、いってきます」と口角を少し上げてから、私に背を向けて二人を追いかけて行ってしまった。
神社のすぐ目の前で気付けば一人ぼっちになっていたことに、置いていかれた子供の気持ちを想像しながら、手元に残ったスケッチブックとシャーペンを見下ろす。
「……まあ、いっか」
不安は残るが、神社の裏だ。きっと神様が見ていてくれるだろうし、私は私で課題の絵の下書きを終わらせなければならない。
一度片手で頬をパチン、と叩いて気合を入れ直した。そこでふと、視線を感じて社の方を見る。その瞬間、身体に電気が走ったような感覚を覚え、固まった。
そこにいたのは美しい毛並みを持った白銀の狐。真っ白ではなく、光り輝くその毛並みはよく整っていて、瞳は赤に近いオレンジ色。しかし黄金を思わせる輝き。透き通っていて本当に美しかった。
その狐が私を、観察するようにじっと見つめていた。見極めているようにも見えた。が、一瞬の瞬きの間に、白銀の狐は踵を返した。
「あ、ま、待って!」
反射的に狐を追いかける。私からすれば社の右側から、跳ねるように、からかうような程軽快な足取りで、逃げていく。慌ててその後を追った。見失うには惜しいものだった。
ところが社の隣から裏に入った途端、私は思わず歩みを止める。逃げたと思った狐はまだ同じ距離を保ってそこにいた。問題はその場所だ。
まだ昼間だというのにそこは、生い茂った葉のせいで薄暗くなっていた。目の前には放置されている神社にしては随分透き通った水面。池があり、その中央に浮かぶように狐が佇んでいたのだ。
あまりに神秘的な光景に、恐怖さえ覚えた。現実だと認識しているはずの目が、耳が、脳が、拒否するように私の意識を狭くしていく。
「……あ」
狐が笑った。そして空を仰ぐように上を向いたかと思えば、突如響くキューイという鳴き声。瞬間、まるで風が呼応するように優しく私の隣を通り過ぎ、狐を取り巻くように渦を作る。
もう一度私を見た狐。その瞳はどこか嬉しそうな、楽しそうな感情が揺らいで見えた。
『またね』
狐の口が動いた。小さな女の子の可愛らしい高い声。隣から直接聞こえたような気がしたが、それを確かめる術はなかった。
本当に一瞬の事だったのだ。
「あ、陽ちゃんいた~」
「陽ちゃあん」
名前を呼ばれて、ハッと我に返る。気づけば目の前には社があった。すでに辺りは薄暗くなっていて、社の裏から、丁度三人が戻ってきたところだったのだ。
「陽さん? どうかしたんですか?」
いち早く私の異変に気付いた菜月が心配そうに顔を覗き込んでくる。ようやく動かせるようになってきた頬の筋肉を無理矢理動かして、私は笑った。自分でもぎこちないことは承知の上だった。
「陽ちゃん、なんかあった?」
冷夏が興味津々な顔で聞いてくる。実は、と言いかけてから一瞬迷いが生じた。白銀の狐に出会った、なんて話をこの子たちにしてもいいのだろうか。あまりに不自然過ぎるし証明することもできない。
かと言って話さないというのも罪悪感を覚える。そもそも信じてくれるのだろうか。などと思考を巡らせた結果。
「白銀の狐に出会った」
話して聞かせていた。途中で言葉に詰まったから、情景を軽くスケッチブックに書いて説明し、とにかく不思議で神秘的で凄かった、と語る。
そんな大人げない私の話を、この三人は真剣に、途中で口を挟むことなく最初から最後まで聞いてくれた。
実に数分辺り。ずっと話続けていて、私の心拍数は興奮からか、上がっていた。三人とも笑うことなく、聞いたことを噛み砕くように顎に手を当てて止まっている。ふいに、菜月が考えを巡らすように視線を動かした。
「もしかしてハク様かな」
唐突に『ハク』という名を出してきて、私は首を傾げる。どこかで聞いた気がする名前だと思ったからだ
「この神社に祀られてるって噂のお狐様だよね?」
冷夏が補足するように言った。そういえばおばあちゃんが似たようなことを言っていた気がする。確か……御守りのガラス細工を渡してくれた時だったか。
「俺の母ちゃんはここで白い狐見た人は幸せになれるって話、してた。小さい頃だけど」
大地が懐かしそうに笑いながらそう言った。冷夏が、それ私も知ってる! と手を叩いて嬉しそうに微笑んだ。菜月はまだ悩んでいるように少し下を向いている。
「お狐様の話ってよくリンネばあちゃんがしてくれてたよな」
「あ、そういえば! 最近は聞いてないけど、小さい時はよく聞いた~」
「リンネさんなら知ってるかもしれませんね」
まとめるように菜月がそう言って私を見た。ふむ、確かに聞いてみた方が早いだろう。私は同意して頷いた。
「それじゃあそろそろ帰ろう」
冷夏がそう言って神社の出入り口へと向かう。「俺腹減った~」と言いながら後ろを小走りでついていく大地。菜月もその後ろをついていこうとして、一度こちらを振り返った。
「もう大分暗いので、陽さんも早く帰った方がいいですよ」
「あ、うん。ありがと」
小さな子供に心配されて、ちょっと戸惑いながらそう返すと、菜月は少し笑って「また会いましょう」と言い残して去っていった。
しかし、菜月に忠告されたものの、何故だかすぐ帰る気にはなれなかった。時刻は刻一刻と夜の帳を下ろしていく。視界が一秒過ぎるたびに悪くなっていくのに対し、私の体はまるで言うことを聞かず、動けなかった。
「……そこで、何しているのです?」
気力が湧かず、視界が悪くなる中でただじっと社を眺めていると、後ろからコツコツ、と石畳をテンポよく踏みつける革靴の音が響いた。何気なく振り返る。
「あ……」
そこにいたのは、深山……明人だった。彼は不思議そうな表情を浮かべつつこちらへ近づいてきて、目を見開いた。その驚きに満ちた顔が、すぐに微笑みへと変わっていく。「陽さん」と優し気に私の名を呼ぶ声が、鼓膜を震わせ、くすぐったい気持ちになる。
「また、会いましたね」
はにかみながらそう言うと、彼は「そうですね」と微笑んだまま返してくる。何故だか直視できない。
「そういえば、陽さんってあのリンネさんのお孫さんだったんですね」
突然彼がそう言った。驚いて彼の顔を覗き込む。嘘をついているようには見えない。ということは誰かから聞いたのだろうか。
「さっきリンネさんに聞いたんです」
聞かれるとわかっていたのか、私が問う前に彼が言った。次に返すべき言葉が見つからず口をパクパクと動かして、少し俯いた。
「まだ帰ってこないから、見かけたら早く帰ってこいと伝えてほしい、と言われたんです」
え、と思わず声が漏れる。おばあちゃんが帰りが遅いことを心配することなんてここ数日なかったから、驚いた。いや、まさかとは思うが、彼と会話するきっかけを作ったのではないだろうな。
そう言えば今日も彼はいつも通り黒いスーツを着こなしていた。見慣れたものだが、夏に毎日スーツを、それも黒を着るのは辛くないのだろうか。
そんなことを考えつつぼーっとしていると、彼が小首を傾げて困った様に微笑んだのが分かった。慌ててお礼を口にする。
「あ、えっと、ありがとうございます」
「いえ、あまり帰りが遅くならないようにしてくださいね」
彼は満足そうに言うと、「では僕はそろそろ……」と私の横を通り過ぎようとして、止まった。「どうかしました?」と私も振り返ってから、ハッと動きを止めた。
そこには昼間からかうように現れたと思えば消えた、白銀の狐が佇んでいた。昼間と違うのは、お賽銭箱の上に立っていること。そしてまるで射抜くように強い視線を、明人ではなく私に向けていることだ。
しかし今度は近づこうとも、逃げようともしない。ただ私をじっと見て、動くことを許さなかった。さすがにそのままでいるのはよくないかと思ったのか、明人がすっと動く。その瞬間視線は彼へと移った。
狐の圧力がかかった視線が外れた途端、支えがなくなったようにその場にへたり込んだ。それを横目に冷や汗を掻いている明人が、素早くお供え物らしき包みを狐の前に置いた。
狐の視線が、今度はその包みへと集中する。ふっと軽く息を吐いた明人が数歩後退って私の前に来る。
その間にも狐はゆっくりと、軽快なステップを踏むようにお賽銭箱の上から降りると、包みをその口に加えて、一度だけこちらを見た。
ゴクリ、と喉が鳴ったが、特に気に留めた様子もなく狐は身をひるがえして社の裏へと姿を消した。姿が見えなくなった瞬間、彼が深く深くため息を吐く。私も同じように息を吐いてから、困ったことに気が付いた。
「大丈夫ですか?」
明人が呼吸を整えつつ私に声を掛ける。大丈夫、と言いたいところだったが、残念なことに大丈夫ではなかった私は、困ったように笑った。
「ごめんなさい。腰抜けちゃったみたいです」
「……すみません、巻き込んでしまって」
決して彼のせいではない。というのに彼はまるで自分事のように悲しそうにそう言って私の肩を支える。「立てそうですか?」と耳元に響く声。私自身立ち上がりたかったが、どうやらそんな簡単には動けなさそうで、膝がガクガクと震えていた。
「無理そうです」
そういうと、彼は顎に手を当ててしばし悩んでから、私の前にしゃがみこんだ。どういうことだろう、と思いつつ向けられた背中を見ていると、彼がその状態のまま言った。
「家まで送ります」
「へ?」
素っ頓狂な声が口から飛び出す。聞き間違いだろうか。いやでもこの状況はもしかしなくともそういうことだろう。
「えっと、私を背負う気で?」
「はい。……あ、いやでしたら運び方変えますけど」
そう言う彼の声は真剣そのものだ。しかし体重が……だが自分ひとりじゃ帰れないし、とグルグル考えていると、彼が言った。
「僕が嫌でしたら誰か呼んできましょうか?」
「そんなことないです! 大丈夫です」
思わず勢いよく口走ってから、ハッと口を抑える。彼はクスクスと笑った。顔が見えなくともきっと優しく目を細めて笑っているのだろう。何となくしかめっ面しつつ、彼の背に手を当てる。
「あの、それじゃあ、失礼します」
「はい、どうぞ」
恐る恐る彼の背中に自分の体重を預ける。自分で動ける範囲で乗っかったところで、彼が勢いよく私を持ち上げた。
「ひっ。た、たか」
「大丈夫ですよ、絶対に落としませんから」
彼が安心させるように言う。確かに思っていたより彼の背中はがっちりとしていて、頼り甲斐があった。ほっとしつつ何か忘れているような、と思って下を見た時、その下に落ちているものに目がいった。
「あ、スケッチブック」
私はバカだと思う。すっかり存在を忘れていた。せめて脇に挟んでから彼の背中に乗っかれがよかったものを、下に置きっぱなしにしていたのだから。
「ああ、スケッチブック持っていなかったんですね」
彼が苦笑しながらもう一度しゃがみこんでくれたので、慌ててスケッチブックと放り出されていたシャーペンを手に取る。「ちゃんと持ちましたか?」と彼に問われて、私は返事する。
「はい、大丈夫です」
「じゃあしっかりつかまっていてくださいね」
そういって彼はもう一度立ち上がった。すぐ体勢を直すように体を揺らしてから、彼はゆっくりと歩き出す。あまり揺らさないようにしているのだろう。安定した動きになんだか申し訳なくなる。
しかし彼の背中から見える景色が散歩した時に見た景色よりいくらか高い位置にあるせいか、世界が違って見えた。小さい頃なら背負ってもらうことも多くて、不思議に思わなかったが、久しぶりにその状況に陥ると、人間不思議な気分になるのだな、と思った。
すでにあたりは夕闇に染まっていた。あまり日の光が届かない境内は、もう真っ暗闇と言っても過言ではない。昼間の熱気を孕んだ残り香に、寂しさを覚えながら、彼の服を軽く引っ張った。
ところがそれを彼は酔ったと勘違いしたらしく、一度歩みを止めて背中に背負われている私に声をかけてきた。
「大丈夫ですか? 気持ち悪くなっていませんか?」
「だ、大丈夫です」
慌てて返すと、疑っているのだろうか。しばらく無言が続いた後「気持ち悪くなったら言ってくださいね」と言った。心配が心に染み込んでくるように暖かかった。
そこからしばらくは無言が続いた。沈黙は苦手な方だったから、何度か話題をあげようとしたのだが、これといって面白いものが浮かばなかったので、仕方なしに無言でいた。しかしそれも夕日が照らす坂に差し掛かった頃には、どうでもよくなった。
「綺麗……」
つい声に出てしまったが、彼も同じようにその色素の薄い瞳を夕日に向けて、細めているようだった。声に出していないが、じんわりと温かい彼の背中から伝わる鼓動が少し早くなっている。
「今日もまた晴れて、よかった」
独り言のように明人の口から零れ落ちる言葉が、ゆっくりと私の耳から入り込んでくるようで心地良い。しかしどこか違和感を覚えた。彼から発された言葉は、私が思う意味とどこかずれている。そんな感覚。
なんとなく寂しさを感じて彼の背中で拳を握った。ふと、今日も写真を撮っておこうと思って、ポケットを探る。
「あれ? スマホ……」
いくら探してもないものはない。そういえば今朝、スマホはベッド横にあるサイドテーブルの上で充電したままだったか。
私の異変に気付いた明人がふと、こちらを向こうと首を回す。「大丈夫ですか?」と再び聞いてくる。私は曖昧に微笑んだ。
「スマホ、家に置いて来ちゃったみたいで……」
「ああ、この景色を写真に収めたいんですね」
「あ、はい」
「じゃあ僕が撮っておきますよ。一度下ろしても良いですか?」
あっさりした口調で提案した彼に、ワンテンポ遅れてから「あ、大丈夫です」と言えばすぐに彼は私をゆっくりと、まだ温かいアスファルトの上に下ろす。
すぐにスーツの内ポケットから同じく黒いスマートフォンを取り出した明人。慣れた手つきで風景を3回ほど写真に収めた。
「これでいいですか?」
言いつつ見せてくれた画像は、どれも思っていた通り美しいグラデーションを描いた夕焼けが写っていた。この人は写真に収めるのが上手いな、と思いながら微笑む。
「ありがとうございます」
「いえ、こんなの朝飯前ですよ」
悪戯っぽく微笑み返した彼は再び私の前に背中を向けてしゃがみこむ。そういえばまだ私は自力で立てないのだろうか。
「もう大丈夫かもしれませんが、後少しですし送るついでです。安心させるためだと思って僕に背負われてください」
彼が苦笑まじりにそういうのが聞こえた。確かにもう治りかけだが、まだ心許ないから申し出はありがたい。遠慮しつつも甘えることにした。
「……今更なんですけど」
彼の広すぎず狭すぎない背中に身を預けつつ、私が口を開く。彼が私を背負いながら「どうかしましたか?」と聞いて来て、一瞬ためらったが、思い切って聞いてみることにした。
「私、重くないですか?」
あまりに突拍子も無い質問だったようで、彼は動揺してガタガタになっていたアスファルトに躓いた。急に不安定になって、私まで焦って思わず目を瞑る。暗闇になったらなったでさらに恐怖が煽られて、すぐに目を開く。
彼が慌てて体勢を立て直すと、できるだけ前かがみになった。
「すみません、ちょっと動揺してしまって。全然重く無いですよ。軽いくらいです」
しかし反応から、やはり少し……いやかなり、重いんだろう。普段どれだけ炭水化物を撮っているか自分でよくわかっているから、余計に辛い。つい俯きがちになり、決めた。
「痩せよ……」
もう日が半分以上落ちて、あたりはすっかり闇に飲み込まれていた。しかし小さな輝きが空に浮かぶのと同じように、街灯も少しづつその小さな光で道を照らしてたから、そこまで暗く感じることはなかった。
あるいは明人の背中に乗っているから、安心していたのかもしれない。だとしたら彼に感謝しようと思いながら、閉店作業中の駄菓子屋、リンネへと共に向かったのであった。
「あらら、明人くんと陽が一緒に帰ってくるなんてね」
背負われてる姿を見た祖母の第一声は、ニヤリと不敵な笑みと共に紡がれた。恥ずかしさから彼の背中に埋めるように顔を隠す。それを見た祖母のさらに深まった笑みに、恐らく明人は苦笑していたことだろう。
「陽さん、境内で腰抜かしちゃったみたいで、放っておくわけにもいかず……」
「それで背負って運んで来てくれたのね」
「はい」
「紳士ねえ」
おばあちゃんがうっとりといつもは元気はつらつな顔をとろけさせた。いつもは見ない表情に驚いて目を点にしたまま凝視していると、それに気付いたおばあちゃんがニヤリ、と笑う。
「重かったでしょう」
なんてデリカシーのない言葉だろうか。しかし明人はこの質問を聞くのが2回目だからか、比較的動揺も少なく返答した。
「いえ、そんなことありませんでしたよ」
「まあ、優しいのねえ」
またまたおばあちゃんがとろん、と表情を崩した。まあ所謂イケメンというやつだからそうなるのもわかる。というか、惚れっぽお体質はおばあちゃん譲りだったのか、と初めて知った。
「そうだ、夕飯食べていきなさいな。深山さんのお宅には私から連絡しとくから」
「ちょ、おばあちゃん!?」
「ついでにこのおてんば娘も見ていてくれると助かるわあ」
嘘も方便とはまさにこのことだろう。おばあちゃんはおばあちゃんなりに私のことを思ってやってくれているのだとわかる。しかしこんなあからさまなやり方、通用するわけが。
「いいんですか? なら是非」
またもや裏切られた気分になった。ご近所付き合いがなければこんなすんなり了承しようと思わないだろうに、ある意味凄い。
ふと、私を振り返った明人はちょっとだけ困ったように微笑んだ。
「すみません、リンネさんの手料理は好きでして……」
「いや、別に構わないです。おばあちゃん料理上手だし」
「……じゃあ今日だけお言葉に甘えますね」
「どうぞ」
私は微笑んだ。彼も一緒になって微笑み、私はもっと笑って、彼ももっと笑った。その様子を台所からおばあちゃんが、ニヤニヤしながら見ていたことには気づかなかった。
台所からお揚げ物を揚げる音や、食材を刻む音が響いている間、私と明人はずっと絵について語っていた。
「陽さんって絵がお上手ですね」
「まだまだですよ」
「そんなことないです。専門学校にでも通っているのですか?」
「一応……まだ2年ですが」
「ということは、二十歳ですか。若いですね」
苦笑気味に彼がいうので、なんとなく気になって聞いてみた。「おいくつなんですか?」と。彼は何度か頰を描いてから言った。
「二六です」
「あ、六つも年上……」
「あ、敬語じゃなくていいですからね」
「そういう明人さんもタメでいいですから」
一度きょとん、とした彼は、時間差でふっと笑った。「わかりました、じゃあタメにするよ」と言い直す。私も笑った。
「そろそろできるわよ〜」
おばあちゃんの声が居間に響いて来た。時計を見れば、もう十五分も経過していて急いで立ち上がって台所へ飛び込んだ。
入ってすぐのテーブルに並んでいるのは、私の好物である豚キムチ、竹輪の磯辺揚げ、麻婆茄子の三種類。それにワカメがたっぷり煮込まれた味噌汁と、真っ白くてほかほか湯気を上げている炊きたてのご飯だった。
空腹を訴えるお腹にはとても良い刺激となって、ぐううと虫が鳴いた。おばあちゃんはクスクスと笑って言う。
「これ全部運んでおいてちょうだい」
「はーい」
間延びした返事をしつつ、おばあちゃん愛用の大きなトレーに、無理のない程度に茶碗やらお菜の乗った皿やらを乗せて、慎重に居間へ向かった。
「あ、手伝うよ」
入って来てすぐに気付いてくれた明人が、慌てて駆け寄って私の手からトレーを奪い取った。「え」と声を出したが、有無も言わさぬ速さで、彼はトレーに乗っていた皿をテキパキと、これまた大きなテーブルに並べていく。
あっという間にトレーの上はからになり、彼はニコニコしながら私にそのトレーを返して来た。
「こう言うのは分担した方が早いから」
そう言って、次も彼は同じように私からトレーを奪い取っては並べていく。なんとなく仕事を取られたような気分になったが、彼があまりに生き生きとした姿で、途中なんか鼻歌まで歌いながら準備しているもんだから、何も言えなかった。
「ごめん」
最後のお茶碗を並べ終えた後。彼はトレーを返しながら私に謝る。何故謝るのだろう。
「じっとみているのは落ち着かなくて」
「謝ることじゃないよ。寧ろありがとう。助かっちゃった」
そう言って笑った。ちょっとだけ恥ずかしくも思ったが、助かったのも事実だし、彼がおもっていた以上に仕事が早い人だと知れて、嬉しくもあった。おばあちゃんの手料理がまだ全然冷めていないのも、半分は彼のおかげとも言えよう。
「ならよかった」
彼が笑ったところで、おばあちゃんが最後に冷やした麦茶とプラスチックで出来たカラフルなコップを持って居間に入ってきた。
「さ、席に着きなさーい」
「はーい」
「失礼します」
それぞれ返事して、明人が並べてくれた料理の前に座った。おばあちゃんがそれぞれのお茶を用意している間、どのお皿からも香ばしい香りが漂ってきて、待ちきれなかった。
「さて、そろそろいただきましょうか」
おばあちゃんの声掛けが合図となって、私と明人は同時に箸を手に取った。
「「いただきます」」
挨拶も同時にすると、すぐ目の前の竹輪の磯部上げに手を伸ばした。最初は一本だけ挟んで器用に口に運ぶ。
「んん~うま」
口に含んだ瞬間、ジュワっと広がる油と醤油の味がマッチして、何とも言えない旨さを醸し出していた。美味しすぎる、と思えば、隣でも同じようにゆっくりと味わっている人がいた。
「……これ、美味しいですね」
感動したらしく、おばあちゃんに向かって絶賛する明人。その瞳は子供のようにキラキラと輝いていて、自慢げに微笑んだ。どうだ、私の祖母はすごいだろう。
「作り方は簡単なのよ」
おばあちゃんは口癖のように言った。いつもそうだ。料理をほめるたびに謙虚になる。それがまたおばあちゃんのいいところではあるのだが、もっと自慢してもいいとお物は私だけだろうか。
そんなことを思いながら何口かご飯を口に放り込む。よく噛んで米の甘さが感じられたころに飲み込むと、次は麻婆茄子へ箸を動かした。適当に纏めて箸に絡めとると、それをまだ真っ白な米の上に置く。陣割と赤茶色な旨味の詰まった汁が、ご飯に吸い込まれいていくのが本当に楽しい。
しかしそのままにしては置かない。私は少しだけしみ込んで色の変わったご飯と共に乗っけた麻婆茄子を大きく口に放り込んだ。
突然ピリッとしたスパイスの辛さが襲ってきて、一瞬だけぎゅっと目を瞑る。しかし茄子のみずみずしい味がゆっくりと後からやってくる。時折コロコロとしたお肉や野菜がいいアクセントになっていて、口に運ぶ手を止められなくなってしまう。
「こらこら、ちゃんと分け合ってね」
おばあちゃんに注意されて、口に残っていた茄子を飲み込んでから「はーい」と返事して麻婆茄子から離れた。
メインのおかずは次で最後。大好きな豚キムチ炒めだ。赤に近い色で、おばあちゃんが作る豚キムチ炒めは辛さが増し増しになっている。ご飯があっという間になくなるから心してかからねば。
「あ、この豚キムチ炒め、凄く辛いんですね」
もう既に明人は手をつけていたらしく、辛そうにお茶を煽りながらご飯をどんどん口放り込んだ。それを見ただけでゴクリ、と喉が鳴ってしまった。それを見ていたおばあちゃんがにやりと笑ったのが視界の端に見えて、覚悟を決める。
勢いに任せて私は豚キムチ炒めを箸で一口分絡めとった。それをそのまま口に放り込んで、間を開けずにまだ温かい米を三口分放り込んだ。そして一噛み。
「かっら!」
叫んでから、ハッとおばあちゃんの顔を見ると、してやったり、と言わんばかりに満足そうな笑顔を浮かべていた。
「くう、辛くしすぎだよう」
せり上がってくるような辛さに、自然と涙が出てきてしまう。こんなに辛くする理由あるか? といつも食って掛かっては食べきるのだが、久々すぎるし、すっかり辛い物食べていなかったせいで、物凄い衝撃だった。
「まあ、今回は少しやりすぎたかな?」
てへぺろ、と舌を出した祖母。何故だろう。普通ならあざといと思ってしまうところだろうに、私はこの人可愛いな、と思う程度で済んでしまった。仕方ないので苦笑しておく。
「味はいいのになあ。この辛さがなかったら……」
明人が涙目になりつつそう言って、箸を動かして豚キムチ炒めを食んでいる。中毒性があるようで、私もついつい豚キムチ炒めへと箸を動かしてしまう。
「……もうご飯がない」
すっかり空っぽになってしまったお茶碗を見つめていると、おばあちゃんが「おかわりする?」と聞いてきた。が、私は首を横に振った。
「少しは抑えないと太るから」
渋々お茶碗をテーブルに置いて、グイっと前に押し出した。その様子を見ていた明人が不思議そうに首を傾げながら言う。
「陽さん太っていないと思うよ」
いやお世辞いらないから、という言葉を飲み込んで困ったように微笑んだ。彼はよくわからないが微笑み返してきて、何となく脱力した。彼は良くも悪くも素直なんじゃないかと思ったのだ。
「まあ、食べたいときに食べなさいね」
おばあちゃんが上げかけた腰を下ろした。しかし結局その日は米をおかわりすることなく夕ご飯を終えたのである。
「それじゃあ僕はそろそろ」
「はいはい、もう八時半だもんね」
食後のお茶を飲みながら、明人と私はテレビを見ていたが、ふと思い出したように彼が腕時計を確認して立ち上がる。台所にいって洗い物をしていたおばあちゃんがエプロンで手をふきつつ、戻ってくると、声をかけてそのまま玄関の方へと向かう。私もその後を追った。
「今日はありがとう」
靴を履くためにしゃがみ込んだ明人の背中に、お礼を言った。彼が軽く振り返ると私に微笑む。
「こちらこそ、とても楽しかったよ。ありがとう」
そのあとエプロンを外してきたおばあちゃんが来ると立ち上がる。
「リンネさん、夕ご飯とても美味しかったです。ありがとうございました」
ニコニコしたまま深々と頭を下げた彼に対し、おばあちゃんはさも嬉しそうに満面の笑みで「いいえ、こちらこそ食べてくれてありがとう」と言った。
ゆっくりと顔をあげた足元に置いていた荷物を渡すと、彼はふっと笑って「ありがとう」と言って受け取った。その彼の右手の甲に、黒い痣がちらっと見えた。
「あ」
「それじゃあ今日は失礼します」
「はい、またお夕飯食べにきてね」
「近いうちに是非」
私の声を遮るように言った明人の言葉に、微笑んだまま祖母が答える。二人のやり取りに完全に行き場を失った言葉が私の中で暴れるように疼いたが、仕方ない。私は二人に合わせるように笑った。「またお喋りしよう」と。
「うん、なんならまた明日にでも」
「楽しみにしてる」
「それじゃあまたね」
彼は扉に手を掛けると、優しい笑みを浮かべたまま片手をあげて振った。それに返すように私も手を振ると、一層笑顔を深めて、扉の先の闇へ姿を眩ませてしまった。
「随分仲良くなったもんだわねえ」
おばあちゃんが嬉しそうにニコニコしつつ扉を閉めてカギをかける。私は素直になれず少しだけ頬を膨らませてすねた。
「わざとでしょ」
「何が?」
「明人さんお夕飯誘ったこと」
「ん~どうかしら~」
歌うようにそう言って台所に向かうおばあちゃんの後を追う。台所に入っても私が頬を膨らせたままなので、おばあちゃんが苦笑した。
「いつまでフグみたいに膨れてるのよ」
「だって~」
「結果オーライだったでしょ」
「うう」
「おばあちゃんに言うことは?」
「……ありがとう」
不本意ながらもそういうと、おばあちゃんはニヤニヤしながら、いいえ~と言った。悔しいが事実だ。何となく脱力してリビングに引っ込む。
居間ではつけっぱなしにしていたテレビ番組でお笑い芸人さんがめちゃくちゃ文句を言っているところだった。ヤラセだとわかるから、皆が大笑いしていて大盛況だ。しかしそれを見ていたい気分でもなかったので、その番組を横目に見つつ電源を落とした。
そこに体育座りして、膝に顔をうずめる。一瞬で目の前が闇に染まり、少しだけ怖くなるが、自分の体温を頼りに闇でも光を探すようにじっと見つめてみた。
次第に光の粒が瞬くように光っては消え、また光る。ふと、その闇の中に明人の姿を思い浮かべた。
「あの人の手の痣、気になるなあ」
思えば不思議な形をしていた。まるで夜空に輝く北斗七星のような痣。
「今度会ったら聞いてみようかな」
独り言は、静寂に満ちていた居間に静かに溶け込んでいく。薄々自分で気づいてはいるこの明人に対する感情は、しっかり蓋をしておこう、と決めて、私は居候している部屋へと戻る。
明日は、もっと絵につてい語れるように、今のうちに練習しておこうと、夜に輝く一人ぼっちのお月さまに誓ったのだった。
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