夢と白狐と少女のハクと

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夢と白狐と少女のハクと

 美しい情景だった。吸い込まれそうなほど透き通った黄金色の瞳。しかしまるで重圧がかかったかのように息が出来なくなって、動けなくなって……。 「あ……」  そこで目が覚めた。夢か、と声にならない呟きを口の中で転がしつつ、窓に視線を動かした。太陽もまだ寝起きのようで、弱弱しい温かな光を放ちつつ登ってくるところだった。  目を細めて軽く口角を上げてから、身体を起こした。ダルい、と思いつつ今見た情景を傍に置いていたスケッチブックにサラサラと描き込んだ。その方が上手く頭が回るからだ。  確か夢の続きは、突如現れた明人へ狐の視線がズレて、私は腰を抜かしてしゃがみ込んでしまう。その後はお供え物を持って狐は姿を消し、明人に背負われて帰ったのだったか。  おばあちゃんの気遣いで彼と夕食を共にすることができ、大満足、とも言えないが楽しい時間を過ごすことが出来た。それは本当に良い出来事だったと思う。のだが。  もう二日も前の出来事だ。あれ以来都合が合わず、明人とも出会っていなかった。彼から連絡もない。この二日間はちゃんと午後六時までに帰宅しては、店先のベンチに座って、おばあちゃんに夕ご飯だと呼ばれるまで絵を描いていたのだ。  なのに、彼は一向に姿を現さなかった。おばあちゃんもいつもの時間に来ない彼を心配するような表情を浮かべていた。  けれどさすがに深山さんの家に連絡するほどには長い付き合いではない。やきもきした気持ちで日がな一日絵を描いていた。  しかも描く絵は全部どこかかけている。冷夏や大地が凄く違和感を抱えた表情を作る中で菜月が言ってのけたのだ。「これ、気持ちが入ってません」と。 まさにその通り。心配しつつ描いているとどうしても思ったようにかけず、しかし描き切らないのはもったいないように思えて描き切る。すると何故だか空虚な絵だけがそこにあるのだ。  そんな絵ばかり描いているせいで、子どもたちには心配された。また遊びに行こうと誘ってくれたりもした。嬉しく思ったし、それもいいな、と思ったけれど、どうしても外に行こうとは思えなかった。 「だめだな、私」  つい口をついて出た自虐的な言葉。言葉にしてしまうとさらに自分を追い詰めてしまいそうだが、今は逆に乾いた笑いが漏れる。悔しい、とも思った。  このままじゃだめだ。  私はまだダルいと訴える身体に鞭を打つように、軽く叩いて目を覚まし、立ち上がって伸びをした。その行動だけで些か血行が良くなったようで、次第に下がっていた体温が戻ってくる気がする。 「よし」  少しふらつく足を無理やり動かして、傍に置いておいたシンプルな黒地のスキニーと、よくわからない文字が書かれた白い半そでのシャツを手に取って素早く着替えた。ようやく目が覚めてきた身体は、私の意志に遅れないように動き始める。  着替えが終わり、スマートフォンで今日の天気を確認する頃にはだいぶいつも通り動けるようになっていた。そこまで来るとやはり空腹を感じざるを得ない。 「おばあちゃんはもう起きてるかな」  口ずさむように独り言を言ってから、部屋出ようとドアノブに手を掛ける。その瞬間視界の端に移った鏡が、何か光を反射した。 「え?」  思わず振り返った。急に自分の周りを取り巻く空気が不安定なものに変わったように感じて、鳥肌が立った。鏡が反射したはすの光はそこには見当たらない。  ドアノブにかけられた鏡が反射する、ということは、すぐ後ろにある窓の方、ということになるのだが、窓は開け放っているものの、すでに太陽はそれ以上に高くなっていて反射できない。  スマートフォンはポケットに入れてあるので光を放つことはないし、それ以外には電子機器を持ってきていないのだから、おかしい。  おかしいとは、思うのだ。確かに鳥肌も立ったし、一瞬でも不安な気持ちになったのだから、怖いと称してもいいとは思う。が、何故だか怖いとは思わなかった。 「……まあ、いっか」  気になったが、何が反射したか分からないし、もしかするとただの見間違いかもしれないのだ。いつまでも突っ立っていたって分かりっこない。 「あ、お守り」  そう言えばこの間からお守りを持ち歩くのを忘れていた気がする。持ち歩くように持参してきたポーチにしまい込んだまま放置していた。  なんとなくそれを拾って斜めに背負うと、私は再び扉に手を掛けた。……よし、今度は何も起こらなかった。きっとさっきも気のせいだったのだ。そう考えた瞬間なんだか自分の行動が恥ずかしくなって、笑いがこみあげてきた。バカだなあ私。  ガチャッと扉が開いて、外側に押し出すとキイイと軋む音が響いた。それすらも面白くなって笑いながら、廊下に出る。そして後ろ手で扉を閉めると、勢いをつけて階段を下りて行った。  まさかそこに、小さくて白い影が潜んでいたなど、全く気付かずに。 「……あれ? おばあちゃん、珍しく寝てる?」  一階に降りてすぐ耳を澄ませたが、シン、と静まり返っていて、台所で作業している様子はなかった。確認のために居間を覗き込んでから、すぐクスっと笑う。 「おばあちゃん、最近張り切ってたからなあ」  テーブルを脇に退かして、真ん中に用意した布団の上に随分姿勢よく仰向けになったおばあちゃんがそこにいた。その表情は少し疲れているように見えたが、満足げだった。  おそらく少し無理して数日間朝早起きしたりしていたのだろう。昔はおばあちゃんなのに随分遅く起きるんだなって思っていたことを思い出して、さらに口角を上げた。 「おばあちゃんも子どもみたいなところあるんだなあ」  大人でも子どもに戻るときはある、って知ってはいたけれど、おばあちゃんもなるんだとわかった瞬間、親近感が沸いた。なんとなく嬉しくなって、だんだん力がみなぎってくる。 「ようし、今日は苦手な料理がんばろ」  小さく宣言して、私は居間を出る。向かい設置された広い台所の暖簾をくぐって、まずは冷蔵庫へ直行した。 「……よく考えたら、私、そんな料理知らなかったじゃん」  冷蔵庫を開いて中を覗き込んだ瞬間、ヒヤリとした空気に当てられて一瞬にしてやる気をなくした。まるでようやくついたマッチの火が一瞬で消えてしまったような寂しさが残る。 「っていやいや、調べればいいじゃん」  慌ててポケットに突っこんだままのスマートフォンを取り出して、レシピを検索していく。簡単で美味しいもの。時間がかからない、失敗しないような。 「……スイートクロックマダム?」  時計? なんて率直な発想はすぐにかき消された。 クロックマダムとはパンにハムやチーズをのせて焼き、その上に目玉焼きを盛りつけた、フランスで定番のトーストらしい。アニメとかでよく見るものにそっくりだった。  スイートが付いているのは、そのレシピにジャムを使用しているからだとかなんとか。作り方を見ると、材料さえあれば私でも作れそうな代物だった。 「これでいいか」  時間的にまだ起きていないだけで、もう起きてくるかもしれないおばあちゃんを思うと猶予はそこまでない。だったら材料だけ確認してもう作ってしまおうと思った。実際材料は揃っていたので、後は作るだけ。 「おはよう、珍しいわね。こんな時間に陽が台所にいるなんて……」  そう言いながら入ってきたおばあちゃんの目が見開かれる。それもそのはずだ。私は逆に困ったように微笑んだ。 「陽ってホント料理できないのね」  呆れよりも感心が先に出たような祖母の感想に恥ずかしくなって、あはは、と笑ってごまかした。  そう、数十分前、私は確かにスイートクロックマダムというものを作ろうとした。そして実際にできたのは。  二枚ほど焼き過ぎて真っ黒になったトースト。もう少し、もう少し、と言いながら完全に忘れてしまった硬くなった茶色く焦げ目の付いた目玉焼き。ぶちまけてしまったジャムをふき取った汚い跡。  何故こうなってしまうのかわからない。けれど、途中から確かにやる気よりも不安が勝って、失敗がさらに増えてしまったのは確かだ。  おばあちゃんがクスクスと笑いながら言った。 「仕方ない子だわねえ」 「むう」 「でも私のために頑張ろうとした気持ちは評価してあげる」 「バレてる……」 「そりゃわかるわよ」  ばちん、と綺麗にウィンクする。それを見て、降参、と思った。やっぱりまだまだ私の方が子どもだった。最早悔しさも湧いてこない。 「んで、ちゃんと作れはしたの?」 「……一応」  そう言ってさっきラップをしたばかりのそこそこ上手くいった一つを見せた。少し黒っぽくともまあまあちゃんと焼けたトーストに、焼かずに温めただけのハムを乗せて、茶色い羽が付いていたのを取ったそこそこ上手く焼けた目玉焼きが乗っている。  おばあちゃんがそれを真剣な表情でしばらく観察する。と、突然私の頭をぐしゃぐしゃわしゃわしゃと撫でまわした。 「うわわ」 「やればできるじゃない」  ぐしゃぐしゃにされた髪をグイッと持ち上げておばあちゃんを見ると、彼女は数日前に見たさも満足気な表情を浮かべていた。  あまりに嬉しそうな顔に、思わず笑ってしまうとおばあちゃんはさらに笑って、目の皺を増やしていた。 「じゃあせっかく作ってもらったものだし、いただこうかしら」  ニコニコしながら一応設置された簡素なダイニングテーブルの席に着いた。タイミングよく作ったスイートクロックマダムを彼女の前に静かに置いて、ラップを取り払う。「なに飲む?」とラップをくるんでゴミ箱に捨てつつ聞いた。 「あら、優しい。じゃあミルクお願いできるかしら?」 「おっけー」 「マグカップはそこにあるからね」 「はいはい」 「ありがとね」 「いーえ」  私は相槌を打つように返して、マグカップを取り出して、冷蔵庫から取り出したばかりの冷えたミルクを注ぎ込んだ。 「それじゃあいただきます」  私が飲み物を用意している間にも、彼女は待ちきれない様子で、スイートクロックマダムと呼ばれるそれを丁寧に持ち上げるとかじりついた。サクゥ、と心地よい音が響いて、おばあちゃんの動きがゆっくりとしたものに変わる。  マグカップ一杯に注ぎ込んだミルクをおばあちゃんの前に差し出しつつ彼女の様子を窺う。おばあちゃんは目を閉じでまたもや真剣な表情で味わうように咀嚼する。その様子を見ているだけで鼓動が早くなった。 「……どう?」  耐えきれずに声を掛けると、おばあちゃんがゆっくりと目を開いて、ゴクリ、と飲み込んだ。その視線が私へと向けられて。 「とおっても美味しいわよ」  そう言って片手でグッドマークを作った。ふっと身体の力が抜けていく。同時に頬の筋肉も緩んで、自然と微笑んでいた。 「よかった」 「やっぱりやればできる子ね」  もごもごと口を動かしながら嬉しそうにそう言うおばあちゃん。その言葉には苦笑で返してから、テーブルの上に散乱した失敗作たちをまとめて生ごみのところに捨てようとする。 「あ、待って待って」 「え?」 「もったいないからまだ捨てないで置いといて」  きょとん、と首を傾げる。これは全部失敗したものなのだが、もったいないからと言って使える物だろうか。 「それはそれで使い道があるのよ」  おばあちゃんの知恵袋ってやつよ、とまたウィンクした。上手くできる事が自慢なのだろうか。しかしおばあちゃんが言うなら取っとくか。  そのまま両手に抱えた、一緒くたにした失敗作たちを邪魔にならないところに退ける。その間にもおばあちゃんはあっという間に朝食を平らげてしまった。 「そうだ、さっき電話があったのだけど」  おばあちゃんが手に着いた油などをウェットティッシュで拭き取りつつ、思い出したように話題を変える。 「明人くんからだったのよ」  はた、と動きが止まる。片付けようと布巾を手に、汚したテーブルを拭いている最中だった。おばあちゃんはそれを横目に話を続ける。 「二日間も連絡できなくてごめんなさい、お詫びに今日お昼頃約束を果たしに伺いますって言ってたわよ」 「お昼? 今日?」  いきなりすぎる話に頭が付いていかない。テーブルを拭く手が止まったままの私。おばあちゃんはニヤリ、と笑っていった。 「オシャレ、しといたほうがいいんじゃない?」  意地悪だ、と率直にそう思ったのはおそらく今回が初めてではないだろう。私は反射的に台所を飛び出して洗面所へ駆け込んだのであった。  すっかり高くなった日が容赦なく照り付ける、駄菓子屋リンネには、今日もたくさんの子どものお客様で賑わっていた。いや、もしかするといつも以上かもしれない。何故なら今日は、とある事情でいつもより早く開店したのだ。 「たまにはいいかと思ってね」  いたずらっぽく笑ったおばあちゃんは、とある段ボールを振り返りつつ笑い、シャッターを上げた。笑みが指す意味は、その時には分からなかったが、一番乗りで冷夏たち三人が来た時にわかった。  数量限定で超ひもQグミが発売されるのだ。それは七月に販売終了してしまった駄菓子の一つで、そこそこに売れていたとされる駄菓子。  意外なことに、子どもの間では人気だったらしく、八月に入ってから全く出回らなくなったそれに対して、ちょっとだけ寂しそうにしている子がいたらしい。  そこで残っている在庫を売り切ることも目的に、今日限りで販売するとかなんとか言って、子どものお客様を呼び込んだのだ。さすが、長年経営しているだけはある。  そして私はと言うと、おばあちゃんの手伝いをせずに店先のベンチに腰を下ろし、スケッチブックに絵を描いていた。  もちろん最初は店の手伝いをしていたのだが、ずっと座っているおばあちゃんに対し、私はずっと立っているだけだったので、足が疲れてしまったのだ。 休むつもりでベンチに座ったら、今度は絵を描いてほしいと、お下げ髪の女の子にせがまれてしまい、そのまま書き始めた結果、依頼が殺到した。何故かずっと書く羽目になってしまった。 「あ、前の絵に戻ってる!」  最初にそう言って指差した冷夏。釣られて大地と菜月も振り返り、口々によかった、ホッとしたと言って微笑んでくれた。  何だか嬉しくなって思うがままに描いていたらいつの間にか時間が過ぎていた。 「――楽しそうですね」  突然聞こえてきたどこか幼さを残した高すぎず、低すぎない声が鼓膜を震わせた。ハッと顔を上げると、そこには何度も思い出していたあの、明人がいたのだ。 「あ、こ、こんにちは」 「こんにちは、二日振りですね」  少し疲れた顔をしてそう言った彼は、困ったような表情になって私に頭を下げた。 「先日は約束を破ってしまい、申し訳ありません」 「え! いや、大丈夫ですよ。頭を上げてください」 「ガッカリさせてしまったと思い」 「そりゃ寂しかったですけれど」  つい本音がポロっと出てしまう。ハッと顔を上げた彼は、またもや深々と頭を下げた。「本当にごめんなさい」と続けてこもりがちな声が聞こえる。ああもう。 「本当に怒ってませんから! 顔、上げてください」 「……本当に怒っていませんか?」 「怒っていません」  彼はゆっくり、恐る恐ると言った風に顔を上げた。その瞳は不安で揺れていて、母性本能がくすぐられた。可愛い人だな、と思った。 「こうしてまた来てくれたんです。それだけで十分」  私が微笑んで、心の底からそう口にすると、彼は驚いたように何度か瞬きをした。それから前と同じように、優しくその目を細めて笑う。 「……お取込み中悪いけど」  突然聞こえた第三者の声、というかおばあちゃんの声にハッと目を見開いて、視線を移した。彼女は何度か咳払いをして、笑いを堪えながらぼそぼそと言った。 「眩しいやり取りは、別でやってくれない? 見ていて恥ずかしいよ」  かああっと顔が熱くなるのが分かって、反射的に立ち上がった。そのままスケッチブックを手にし、もう片方の手で明人の右手を掴む。 「え?」  突然掴まれたことに驚く明人。しかし説明なんて出来るわけがない。 「い、いってきまあああす!」  私は叫ぶようにおばあちゃんに告げると、そのまま明人を引っ張って走り出した。「え、ええ?」と困惑気味だが無理やり振りほどこうとしないのを利用して、ずんずん前へと進んでいく。すぐに背中を押すようにおばあちゃんの声が飛んできた。 「はあい、いってらっしゃあああい」  それは私の声よりも随分力がある声だったことが、混乱した頭には不思議と心地よく響いたのだった。  結局私たちは神社の鳥居のすぐ下まで突っ走ってしまった。大の大人が二人で、近くとはいえ、五十メートル以上を走ったら、当たり前だが息切れを起こす。 「はあ、はあ、はあ」 「あの、大丈夫ですか?」 「はあ、あ、いえ、はい」  どうやら当たり前だと思っていたのは私だけだったようだ。明人は私と違って全く息を切らしていなかった。  何もなかったかのように、いつも通り黒スーツを着こなして、心配そうに茶色い瞳をこちらに向けていた。 「随分……余裕、なんですね」  驚きつつも笑いかけながらそう言うと彼は「あ……ええ、まあ」と曖昧に返した。聞いたのはまずかっただろうか。私は少し慎重に言葉を選びつつ、話題を変えた。 「先ほどは、何の説明もなく連れ出してしまい、申し訳ありませんでした」 「あ、いえ。お気になさらず。……あの状況なら逃げ出したくもなりますよ」 「でも困惑されていたようでしたし」  彼は一瞬きょとん、として困ったように微笑んだ。 「それは、女性に触れられるのが滅多にないことだったので」 「え?」 「僕女性と付き合ったこと自体ないんです」  それは、さすがに驚いた。見た目は世間一般から見たら、イケメンの類だろうし、性格も紳士的で好印象だ。さぞモテモテな過去を生きてきただろうと勝手に想像していたが、そうではなかったのか。 「……そもそも自覚したのもここ数年のことなですけどね」  ふいに内側の闇をさらけ出したような瞳を視線を落としてよくわからないことをつぶやいた。自覚したとはどういうことだろう。 「そういえば陽さんは、絵の専門学校に通っているのですよね?」 「え、あ、はい、通ってます」  唐突に明るい、いつもと変わらない声音で話題を変えた。戸惑いつつも、その前の呟きについて考えるのは億劫だったから、有難いと思いながら返事した。  彼は瞳を輝かせつつさらに話して聞かせる。 「それは見たものを写真以上に綺麗に写せる能力と言うことですよね」 「人によっては、そうかもしれないですね」 「すごいなあ」 「そんな、誰でもやろうと思えばできますよ」 「僕には画才がないので」  残念ながら、と困ったように微笑む彼。その悲し気な、諦めたような表情は、この一年半で何度も見てきた。それも、慣れたつもりだったのに。 「……あの」 「どうかしましたか?」 「明人さんが描きたい景色って、どんなものなんですか」  差し出がましいかもしれない。けれど、もし彼の見た景色を私が描くことができたら。もし彼の澄んだ瞳が見た世界を描けたなら。  そんなことを思いながら私は彼の瞳をじっと見つめた。彼は、私の質問に真面目な返答をしてくれる。 「僕が描きたい景色は、とても、普通なものです。  例えば親子。親子並んで、手を繋いで夕方に家に帰っていく姿が普通で、美しい。または友人と楽し気に走り回る子供。汗すら宝石のように光を反射しているのが描けたら、きっと楽しいでしょう。あとは……白い狐」 「白い、狐……ですか?」  脳裏に浮かんだのは、あの白銀に光る毛並みを持った神社の狐の姿だった。彼が『白い狐』と称したものは、もしや私が思い描いているものと一緒なのだろうか。 「はい、陽さんもみたあの白い狐です。僕はあの狐にいつも、お供え物を届けています。それは特に決められたことでもないですし、毎日することでもない。  けれど何故かとても懐かしいのです。涙が出るほど……。だから僕はあの狐と出会う度に感じるその気持ちを込めた絵を描きたいのです」  熱弁する彼を眺めているうちに、私までその狐に出会ったその瞬間のことを思い出していた。  確かに神秘的だった。それは見紛う事なきあの白銀の毛並みがそうさせているのだろう。彼が例えとして上げた二つの情景も確かに普通で、描きたい気持ちはわかる。  だが……決定的に違うと思ってしまった。  彼がみたあの狐との出会いを、私が描くことは絶対にできないと、わかってしまったのだ。それも、込められる思いの違い故。私は神秘的で、彼は懐かしい。こればかりは、彼の求める絵にはならないだろう。 「……そう、ですか」 「はい……ああ、そうだ。陽さん、一つお願いがあります」 「なんでしょうか」  またもや唐突に彼は話を切り出した。ゴクリ、と生唾を飲み込む。とても彼の瞳から溢れる希望に満ちた色が、少し、苦しく感じた。そのお願いは、聞きたくない。 「僕に、絵を描くための基礎を教えていただけませんか?」  思っていた通りの言葉が彼の口から飛び出した。正直私は、教えたくない。私はお金を出してまで学んだことを無償で教えるようなものなのだから。  そんな私の憂いに気付いてか否か、彼は少しはにかんだように、控えめに言った。 「もちろん、タダでとは言いません。相応のお礼は致します」 「……」 「ダメ、ですか?」  すがるような声音。恐らく彼は無意識なのだろうけれど、私の心を揺らすのには十分だった。深く、長くため息を吐く。 「……仕方ないですね」 「陽さん!」 「じゃあまず連絡先教えてください」  一瞬できょとん、と首を傾げる明人。私はちょっと怒りながら補足説明をした。 「連絡取れないと不便でしょう?」  すると彼は焦った様子で「今スマートフォンは修理に出してまして……」と言った。まるで口実のようだったが、それなら仕方ないか、とすんなり諦める。代わりに、と言わんばかりに彼は続ける。 「毎日駄菓子屋リンネに通います。だから許してください」 「わかりました」 「……随分あっさりと」 「そこまで期待していませんでしたから」 「…………すみません」 「いいんですよ」  私は微笑んだ。そうだ。別に攻めているわけではない。そんな小さなことに執着するほど私の世界は狭くない。そんな意味を込めて、私は彼に顔を近づけた。もう、息切れはとっくに治っていた。 「私、そんな優しくないですからね?」  少しいたずらっ子みたいに笑ってみたつもりだったが、彼はいつも以上に優しい笑みを浮かべて、言ったのだ。 「覚悟は出来てますよ」  ふわり、と神社の方から吹いてくる風には、夏らしい熱気がこもっているものの、どこか爽やかで元気な緑の香りが混じっていて、なんとなく二人で笑ってしまったのだった。 「さて、そろそろ戻りましょうか?」  彼はそう言ってきた道を戻ろうとする。が、私は首を緩く横に振った。「私はこのまま神社に行きます」と言って。彼は驚いた様子もなく微笑んだ。 「絵を、描きに行くのですか?」 「ええ、まあ。それもついでです」 「では何しに?」 「なんとなく、行けばわかる気がするってだけですよ」  私があはは、と笑えば、彼はほんの少し理解できないように首を傾げたが、すぐに優しい笑みをその顔に浮かべて言った。 「それじゃあ僕も、お供え物をいただいたらまた来ます」  言い終えるなり、左手を軽く顔の辺りまであげるとゆっくりと来た道を戻っていく。私はだんだん小さくなっていく姿を眺めつつ、持っていたスケッチブックを持ち直して、スマートフォンを入れたポケットを軽く撫でる。 「よし、登るか」  一言、意気込むように言い放って一段目に足をかけた。その瞬間、まるで私の足音に反応したように、風がブワっと舞い上がってきた。 「……この神社に来るたびに、不思議なことが起きるなあ」  こんな小さなことですら絵に描けたらきっと楽しいだろう。なんて考えながらも息を弾ませながら階段を登っていく。  有名な場所だとかなりゆっくり登っていても息を切らすほど長い石の階段があるものだけど、ここはお年寄りや体の小さな子供に優しい高さの段差で、しかもそこまで急ではない階段となっている。  おかげで全力疾走した時よりは疲れを感じることなく、また息も切らすことなく階段を登り切った。  そこに広がる景色。木々が伸び伸び育っていて、高く立派に立っている御神木によって作られている日陰は、秘密基地のようにひっそりと、しかし楽し気にそこにできていた。社が前ほど掃除されていないことも良い方に作用して、まさに子供の遊び場になっていたのだ。  こちらに帰ってきてから、もう何度も見た景色だが、未だ絵には思うようにできていないし、何より木漏れ日の表現が一番難しい。あまり得意ではないが、水彩画に挑戦してみるべきだろうか。  そんなことを考えつつ、いつも通り社の下に設置されているお賽銭箱に小銭を投げ入れて、二礼二拍手一礼を済ませる。すっかり慣れたパターンだ。  ふう、と軽くため息を吐いて、そのまま社を仰ぎ見た。すっかり廃れているように見えるが、まだ社自体は元気にそこにあるように感じる。少しは手入れされているということだろうか。  そのまましばらく心地良いそよ風に当たりつつ、社を通り越してぼんやりと虚空を見つめていた。次はどんな景色を描こう。水彩に手を出したら、私の描きたい世界はもっと広がるのだろうか。 「何してるの?」  りぃん、と一度だけ、長く鈴が鳴ったような音が響いた気がした。 ハッと、我に返るように社の隣へ視線を移した。途端、ぶわっと見た方向から風が吹き荒れた。しかし風はすぐに途切れた。  音もない静寂が、境内に満ちる。ここだけ外界から切り離されたような感覚にめまいがした。私の視線の先。 「何してるの?」  もう一度問いかけてくるのは、小さな少女。でもこの辺の子ではない。気配が、人の放つ温もりを感じさせないほど、透き通っているような感覚になる。この感覚は、二度目だ。 「キミ、まさか」 「ねえ、何してるの? 遊ぼうよ」  私の声をかき消すように、無邪気な表情の子供。一言で言えば白い、その子。髪も肌も真っ白で、服は子供用みたく小さい、赤と白の巫女服。だというのに、赤が霞んで白が強く前に出ていた。唯一瞳が金色に輝いていて、その口元は可愛らしく微笑んでいるその子が、私に一歩、また一歩と近づいてくる。 「遊ぼ」  怖い、と感じるべきなのに。何故だろうか。その無邪気に歩み寄ってくる様子に、裏はないように思えたのだ。ただ遊びたいという気持ちでいっぱいの、普通の子供と同じような……。 「ハク!」  突然響いた、空間を切り裂くほど低く、お腹の底に響くような怒鳴り声に、ひゅっと風を切る音が聞こえた。  瞬間視界が一気にクリアになって驚いた。つい指先でメイクを崩さない程度に擦ったが、おかしくなった様子はなかった。 「陽さん!」  さっきの怒号よりは些か落ち着いた、琴の音を思わせる優しい低音が私の名を呼ぶ。まさかさっきの怒号は彼なのか? 楽器に弾かれたときの痛みすら感じるような声だったというのに。……とはいっても楽器に触れていたのは小学生の頃の話だが。 「……明人さん」 「大丈夫ですか? お怪我は?」  すぐに駆け寄ってくるなり、私の頬や肩、腕に触れて異常がないか調べる。黒スーツはピシッと着こなしている癖に、髪は走ってきたのか僅かにクシャクシャと覇気がなかった。 「お前」  再度、りぃんと鈴が鳴る音。彼女が何かを話すたびに鈴の音が響くように感じる。その音には何故か逆らえないのだ。  しかし今度は私一人ではない。隣には少し頼りなくも感じるが、優しい人が傍に立っていた。彼は、眉間に皺を寄せて、せっかくの優し気な顔を、怖く見せていた。少女は気にした様子もなく続ける。 「お前、いつもお供え物くれる人間」  突然そう言って指差す。その瞳は澄み切った黄金の泉のようだった。それを向けられて話題を変えられた明人は、戸惑いがちに「……え、あ、はい」と応えると、少女は聞いた。 「今日も持ってきてくれた?」 「ええ、ここに」  間髪入れずに答えた明人。途端に少女の無表情になっていた顔に大輪のヒマワリが咲いたような輝きが満ちる。まさに花が咲くその瞬間を垣間見た気になった。真っ白で生気の感じられない肌や髪が僅かに輝いて、全身で喜びを表現しているのだ。  少女はゆっくりと口角をあげて、目を細め、両手を広げる。 「ちょうだい」  本当に子供のように愛らしい仕草で少女が言った。一々動くたびに少女から吹いてくる風が、夏だというのに、まるで冬の太陽の香りがした。温かく優しい、少し冷たさを含んだ日差しの匂いだ。  明人が一つ頷いて、持っていたビジネスバッグから、ついこの間も見た、包みをゆっくりと取り出す。私は彼の様子を隣でじっと見守っていた。と、彼のこめかみから一筋、雫が落ちていくのが視界に映る。手の震えにも気が付いた。  それでもただ見守って彼が少女へお供え物を渡すのを見守っていた。ふと、ニコニコと嬉しそうに少女がこちらへ歩いてくる。揺れる赤い裾が、風に棚引き、一層神秘的な状況を作り出していた。 「……」  明人は途中で口を開きかけて、やめた。声が出なかったらしい。冷や汗をその額一杯にかいていて、とても辛そうだった。  明人はそれでも恭しい動作で少女の前にお供え物を差し出す。少女は嬉しそうに駆け寄ってきて、それを両手で拾い上げると微笑んだ。  あまりに嬉しそうな表情に、こちらまで暖かい気持ちになる。お供え物を差し出した明人も、額に汗が滲んでいるものの、まるで妹でも見るような優しい眼差しを、少女に向けていた。 「ありがとう人間」  少女はお供え物を懐に丁寧にしまい込みながら、視線だけを明人に向けて無邪気な笑みを浮かべながら言った。明人の表情も些か緩んだ。  しかしまだ問題は解決していなかったらしい。少女のキラキラと輝く不思議な気配を含んだ瞳が私を捉えた。途端にグッと首を掴まれるような息苦しさが襲ってきた。反射的に喉を抑えて膝をつく。  途端に明人の表情も険しいものになり。すぐさま私に駆け寄って少女に縋るような視線を送るが、少女は気付いた様子もなく私に言った。 「ねえ、遊ぼうよ人間」  さっきから同じことばかり。余程気に入られたのだろうか。それとも本当にただ遊び代だけ? どう答えればいいのかわからない。  ふと視界の端で心配そうに表情を歪める明人の顔が見えた。答えを求めるように彼に視線を返すと「……いいよって言ってください」と、小声で言われた。途方に暮れたような声音だったから、ことを荒げたくないと意味もあるだろう。  この手の問題、私にはどうしようもない。深く考えることをやめて、彼に向かって一つ頷いた。すぐに、目を輝かせてニコニコしつつ首を傾げている真っ白な狐の少女に視線を戻して、微笑んだ。 「いいよ、遊ぼうか」  言った瞬間、花が咲いた。……比喩でも何でもない。本当に目の前で、少女を囲うように足元に、見事な赤い花が咲いた。色の名称で表すとしたら、アポロかウルサン、キャロット・オレンジ辺りに近い。  現実逃避しかけた体に、じんわりと湿った土の感触が伝わってきた。夏だというのに土が湿っているのは、日陰だからだろうか。ちょっと気持ち悪くなりながら、私は少女に片手を伸ばした。 「何して遊ぼうか」  彼女が嬉しそうに私の手を握った。が、私の意識はそこで、ブレーカーが落ちたようにブツッと、闇へ落ちた。 「……もう少し頑張れませんか?」 「むずかしいよお」 「でも頑張らないと……」  くどくどと根気よく駄々っ子に言い聞かせる、呆れ混じりな低音ボイス。そこに今にも泣きだしそうなほどグズる、可愛らしい女の子の声。  目の前がぼんやりと形のない、薄暗い空間が広がっている。それが目を瞑った時の景色だと気付くのに数秒かかった。  意識がだんだんとはっきりしてきたところでふと、知った声の人たちの会話が気になった。何かしているのだろう。 「うええええん、起きてよおおお」  ビリっと空気が避けるような叫び声が聞こえて、驚いてハッと目を見開く。とは言えさっきまで薄暗い景色を眺めていたのだ。木々の隙間から差し込んできた太陽の光に目を細める。 「あれ……」 「あ! 起きた! アキ、起きたよ!」  何故私は上を向いているのだろう、と言葉を出しかけて、遮られた。声にならなかった言葉が口の中でもどかしそうに転がり、やがて小さな苦味を残して溶けてなくなる。 「ああ、目が覚めましたか」  そよそよと柔い風に揺れる木々をぼんやりと見ていた数秒後。視界は二つの顔によって遮られた。  見上げる形になっているせいか、陰っていてよく見えない。グッと目に力を込めて、ようやく二人の顔が、先程まで見ていた優しい明人と、子供らしく眩いほどの笑顔を向ける少女だと認識した。 「……ええと?」 「倒れたんです、さっき」  この状況は、と質問する前に明人が目を細めて私の頭に触れつつ言った。同じ方向にゆっくり動いては戻る。撫でられているのだろうか。  ふと、倒れたという言葉を思い出す。サアッと音が聞こえそうなほど勢いよく血が引き、ガバッと体を起こす。  突然起き上がったせいで視界が揺れるのも無視して、目の前できょとん、と首を傾げている明人を見る。困惑しつつも頭が最初に発した信号に促されて、徐に口を開く。 「……どれくらい気絶していましたか?」  それを聞いた明人はふっと笑みを浮かべて、私の前髪に落ちてきた葉へ手を伸ばしてきながら言った。 「数十分程度、一時間は経っていませんよ」  動かないで、と小さく吐きつつそう言って葉を取り除いた、真面目を感じさせる黒に近い前髪を指先でサラリ、と撫でる。かああっと頬が一瞬で火照った。  一瞬驚いたような表情で彼がこちらを見たが、すぐにまた目を細めて、咳き込む時みたくあはは、と笑った。  そこにグイっと飛び出すようにニコニコ顔を近づけてきた少女。どこか褒めて褒めてとしっぽを振る、幼い子犬の仕草に思える。 「えっと?」 「もう元気? 動ける? 遊べる?」  三連続でそう言った。言葉に詰まり、返答に困っていると、私に覆い被さるようにくっついていた少女をべりっとテープみたいに明人が剥がしと取った。 「事情を説明するから待ちなさい」  さながら、はしゃぐ子猫と宥める母猫のようだ、と思った。考えているうちに、注意されて見る見るうちにぷっくりと膨らませる頬。本当によく変わる表情だ。 「……わかった」  てっきり怒って喚くかと思ったが、どうやら私が気絶していた間に少しは成長していたらしい。大人しく私から一歩離れた。着ている巫女福の丁度境目辺りに両手でグッと抑え込むように拳を作って、睨むようにこちらを見ているのは、とても可愛らしい。 「さて、まずはこの子の紹介をしますね」 「あ、はい」  明人は少女を手招きして自分の方へ来るように言う。それを見て、渋々そちらに行くと不機嫌顔のまま私を見る。  明人は少女の背中を押すように触れて、私に説明した。 「彼女はハク。この神社に祀られている白狐のハクです。彼女はまだ幼いですが、神としての力は本殿に祀られているお狐様と並ぶほどです」  さあ、と隣に立つ少女に優しく微笑んだ。きゅっと口を一文字に結んだまま、ちらっと明人へ視線を移し、彼が軽く頷くと、再び私へ視線を移す。  その瞬間身体が身構えるように固くなったが、何も起きなかった。あれ? と首を傾げていると、ようやく口を少し開けた少女……ハクが言葉を紡ぐ。 「……あの、さっきは、ごめんなさい」  言ってから頭を下げる。一応はお狐様じゃ、と焦った私は半ば反射的に少女の肩へ腕を伸ばしていた。 「そんな、どうして」  謝られるような迷惑はかかっていない。と私が言いかけたところで、明人は悲し気に目を伏せて私に言った。 「神の力がコントロール出来ず、駄々洩れ状態だったんです。それを真っ向からただの人間が受けるのは、身体に負担が大きいもので」  倒れた原因でもあります、と彼の口が動いて、成程と理解した。遊びたいが故の不可抗力と言えばそうだろう。と私は思った。  だけど相手はまだ子供。言い聞かせて教え込んだのだろう。神も人の子と変わらないのだな、となんだかホッとした。 「……」  ふと、視線を感じて目の前で頭を下げる少女へ視線を移した。頭を下げていた少女はいつの間にか私を、その澄んだ黄金色の瞳に映している。何か言いたげで、でも私の言葉を健気に待っているようにも見えた。  それ気付いてか否か、明人は私に向けて困ったように笑う。「ハクの事、許してくれますか?」と言って。  私はもちろん、と言いかけてからふと、あごに手を当てて考えた。このまますぐに許したとしても問題はないだろう。でも。 「……ハクちゃん」  私は悩んだ末に、少女に話しかける。少女の肩がビクッと震えた。緊張か。私は微笑んで言った。 「許すよ」  ここで一つ疑問が浮かんだ。見たものが現実だったとして、彼女は本当に神様なのかという話。だけど、それをもしハクの前で話してしまったなら、ハクはきっと傷つくだろう。  しかし正直信じきれなかったのは本当なのだ。  頭の端でそんなことを考えているうちにも、ハクの表情はあっという間に水を得た花のようにキラキラと輝き始める。  同時にハクを取り巻く空気が一変した。キラキラと輝かしい光が、蝶のように彼女の周りを舞っている。これだけでもハクの感情がわかる。子供らしい感情の豊かさが、なんだか可愛かった。 「……お話、終わり?」  話がひと段落したところで、ハクが私と明人の顔を見比べるようにチラチラと確認しつつそう聞いてきた。  私も明人も、瞬きをしながら二人で顔を見合わせて、噴き出すように笑う。ハクがそんな私たちをきょとんとした表情で見ているのがさらにおかしい。  私はまだ笑ったまま明人に目配せした。明人も同じように考えているだろう表情で、視線をハクに移した。 「ええ、終わりましたよ」  言った途端、ハクは満面の笑みで私の両手を掴んだ。「終わった! 遊ぼう」言いながら私を引っ張って無理やり立たせる。 「わ、ちょっと待って!」  思っていた以上に強い力に、足が追い付かずによろける。すぐに表情を変えた明人が私の肩を支えるように立って、それからハクへ厳しい声をかけた。 「ハク、陽さんはまだ万全の状態じゃないのですよ。加減しなさい」  まるで母のようだ、とやはり思ってしまった私。ハクは少し不機嫌になりながらも「はあい」と間延びした返事を返した。根は良い子らしい。 「陽、ごめんなさい」 「うん、いいよ」  私に向かって素直に謝るハク。少し納得いっていないようにも見えたが、私のことを心配はしているようで、黄金の瞳は心配色に揺らいでいた。  可愛い子だな、という本音は口に出さず、にっこりと微笑んで「大丈夫だよ」と声をかけた。それを聞いたハクは調子よく私の手を掴んだままブンブン振った。 「よかった、じゃあ追いかけっこ! 追いかけっこしよう!」 「こらハク」 「大丈夫ですよ。さっきより体に違和感はないですし」  明人が止めに入ろうとしたところで、私が逆にそれを止めた。さすがに何度もハクのすることなすことに口出ししていては、ハクが怒りかねない。  私がそう言おうと彼に視線すと、彼は成程、と理解したように何度か頷いてすぐに微笑んだ。と、同時に彼も立ち上がる。 「では僕も参戦しましょうか」 「え、いいんですか?」  ハクに捕まれてブンブンと動かされる腕をそのままに、目を見開く。彼は腕時計とスマートフォンで時間をセットしつつ笑う。 「二人だけだと心配というか」 「ハク、ちゃんと見てるもん」  ハクがぷっくりと頬を膨らませる。子供らしくニキビの少ないつるっとした卵肌に、フニフニしたいのを我慢しつつ彼女の頭に触れた。 「念のためってことだよ」 「そうですよ、ハク。キミと陽さんとじゃ、存在する次元が違うんだ」  諭すように難しいことを言った明人に、ハクはんん~? っと首を傾げて唸った。私も正直分からないが、これはまあ深く追求しないでおこうと思う。 「……では、さっそく始めましょうか」  ふいに明人がニヤリ、と笑って構える。まるで獲物を見つけた猛獣の瞳に、思わずハクをギュッと抱き寄せた。 「陽? 大丈夫?」 ハクが困惑しながら私を見上げているのが見えたが、声が出ない。明人が慌てて私の頬に触れ、困ったように眉を寄せた。 「すみません、怖がらせ過ぎてしまったようで……」  自分でも驚いた。何故こんなにも恐怖に身が凍り付いたのだろう。何もされていないはずなのに。ただその色素の薄い瞳で、睨まれただけだというのに。 「……ごめんなさい」  ようやく動いた口を動かせるままに動かしたら、謝罪の言葉しか出てこなかった。本当に何故なのだろう。さっきから私、おかしい気がする。 「ん~陽、元気なさそうだから、ハク今日遊ぶの我慢する」  りぃん、と鈴が鳴り響くような声が、私と明人の間に流れた気まずい雰囲気をバッサリと切り裂いた。私も明人もビックリしたようにハクへと視線を移した。  私の腕の中で人形のように無表情に近い顔をしているハクは、チラッと私の顔を窺い見るように見上げ、それからにっこりと笑った。先程私がハクにしたような安心させようとする微笑だった。 「陽は今度遊んでくれるでしょ?」  確信に満ちた言い方でハクは言ってのける。何度か瞬きすると、ハクはさらに笑みを深めて、言った。「ハク、今日は我慢するよ」 「そんな、驚いたな……」  明人が目を見開いたままハクを見つめて、ただ言葉を吐いた。驚いたというか、想定外の事に出くわした人のような反応だ。何故そこまでハクに関して自信を持っていたのだろう。 「ハク、本当にいいのかい?」  確認するように、明人が怪訝そうな表情をハクに向ける。ハクは揺るぎない決意で瞳を揺らしながら、頷いた。 「それに、陽の家知ってるもん。遊びに行く」  コロッと表情を変えて、今度はニカッと歯を見せて笑った。ん? 家を知ってる、と今言ったか? 「……え、待ってまさか」 「うん、今朝も行ったんだよ」 「やっぱり気のせいじゃなかったのね……」  脱力。腕の力が弱まったことにチャンスと見て、ハクが立ち上がった。 「んじゃまたね!」  あっという間に駆け出していったと思えば、社の裏に飛び込むようにして消えてしまった。明人が中途半端に立ち上がっていたが、姿が見えなくなると一旦その場に膝をついて深くため息を吐いた。 「……ええと、それじゃあ帰りましょうか」  私がじっと彼を見ていると、それに気付いてか、彼はぎこちない笑みを浮かべた。その様子を見て、今更ながら彼が自分の頬に触れたことを思い出してしまった。  かああっと熱くなる顔を両手で抑えつつ、「……そうですね」と同意を述べた。私の状態には微笑むだけで何も言わず、彼は立ち上がってスラックスに着いた汚れを払った。  私も足元がおぼつかないが、どうにか立ち上がって黒いスキニーに着いた砂やら埃やらを払った。 「……おばあちゃんに怒られるな」  苦笑しながら服を見下ろす。土でところどころ黄ばんだシャツがヨレヨレと私に着られてそこにいた。何だか可哀そうになってくる。  明人は苦笑しつつ私に向かって手を伸ばした。優しく伸ばされた手は、私の目線の一歩手前で止まる。 「立てますか?」  ハクがいた時とは随分変わって、一層優しさが強くなった彼の声に小さく頷いて、彼右手に重なるように右手を伸ばした。  ふわっと風が優しく吹いてきて、ヨレたシャツがさわさわと靡いた。私より些か高い彼の体温に、温められ、一層顔が熱くなる。  ふっと一瞬彼の右手が離れた、と思ったらすぐに左手で手を掴まれる。そのままに、彼は神社の出入り口へと歩いていく。ゆったりとした足取りは私の事を思っての事だろうか。 「足元気を付けてくださいね」  勘違いではなかったようだ。なんとなくこの空気をどうにかしたくて、私は彼に話題を吹っ掛ける。 「あ、あの」 「どうかしましたか?」 「終始、ハクを知っているような口ぶりでしたよね」  気になっていたことを口にする。一瞬彼の左手に力がこもった。それは抑え込むような力の加え方だったことに疑問を抱きつつ、促すように聞く。 「お供え物もしているようだし、何かきっかけとかあったんですか? というか、ハクは本当にお狐様なんですか?」  聞き方がまずかったかもしれない。なんとなくそう思った。自分でそう思ったのだから明人はきっと傷ついたことだろう。  しかし彼は振り返りざまに、さも嬉しそうに微笑んだ。「興味、持ってくれたんですね。嬉しいな」と彼は呟きながら、歩くのをやめて私と手をつないだままその場に佇んだ。 「……僕、一度陽さんに嘘をつきました」 「嘘、ですか?」 「はい」  彼は微笑んだまま頷いた。怪訝な表情を浮かべて、私は小首を傾げる。彼はクスッと笑って、でも丁寧な口調はそのままに言葉を紡ぐ。 「一つ、言えるのは……僕は訳があってここにいる。そしてお供え物を届けているということです」 「訳?」 「はい。そしてそれは白狐のハクも関係のあること」  彼はふと、悲し気にその色素の薄い瞳を伏せるように地面へと向ける。どこか遠い記憶をたどっては、諦めた過去を眺めているような、そんな表情だ。  何を考えているのですか。そう私は質問仕掛けて……やめた。別に、壁を感じたとかそう言う類の話ではない。自分が臆病者だっただけだ。 「僕の、ちょっと失敗した、くだらない話ですよ」  苦笑交じりに自虐的な笑みを浮かべた彼は、繋いだ手を逃げるように解いた。あっと声が漏れたが、彼は気付かなかったようで、背中を向ける。  その後姿を見た瞬間、言いようのない感情が胸の内に広がって、息苦しさを覚えた。彼の背を見るのは二回目だが、こんなにも小さくて頼りないものだったか?   伸ばした腕は彼に届くことなくダラン、と力を失う。あまりに複雑な感情が彼の背中から伝わるような、そんな心地がした。 「……そろそろ帰りましょうか」  何も言えないままに数分が経った頃、彼が沈黙を破って提案した。その声にはさっきまでの懐かしむような、後悔するような感情は含まれていない。いつもの優しい明人がそこにいた。  私は、何も言えなかった。踏み込めない壁のようなものを感じて、知り合って間もない私に聞く勇気など持ち合わせていなかったのだ。ただ沈黙するほか、なかった。  そんなことを考えている間にも再び彼に取られた左手に、溶けかけていた温度が戻ってくる。じんわりと温かくなっても、さっきまでの鼓動は、もう落ち着き払っていた。 「あ、後日また神社参りしましょうか」 「そうですね……え?」  サラッと言われて、思わず同意してから聞き返してしまう。彼がちらりと私を振り返ってクスクス笑い、歩きだした。同時に腕を引かれて、足が追いつかず、つんのめる。 「ハクと約束しましたし、いつがいいですかね」 「え? ええと……」 「明々後日とかどうでしょう?」 「あ、ええ。大丈夫ですけど」  腕を軽く引かれつつ困惑気味に答えてから、何気なく彼の顔を見ようとうなじの辺りを見つめる。しかし彼は振り返る様子はない。 「ではまた明々後日に、迎えに行きますね」  階段に差し掛かり、彼が「足元気を付けてください」と言って、辛くないように繋いでいる腕を掲げる。まるでエスコートしているように優しい触れ方に、鼓動が暴れて冷静に考えることができなかった。  沈黙が怖くなって、私はふと気になったことを口にする。 「あの」  急に話題を変えてしまうことに罪悪感を覚えつつ、口を開く。ゆっくりと石段を下りながら明人は「なんですか?」と聞き返してきた。 「いつも気になっていたんですけど」 「はい」 「何をお供え物にしているんです?」  はた、と彼が石段の途中で止まったので、私も一緒に降りるのをやめる。振り返った彼はキョトンとした表情で私を見上げた。 「知らないのですか?」 「寧ろ知っていると思っていたんですか?」  つい勢い余って言い返すと、彼は後頭部を撫でるように掻きながら苦笑した。 「それは、鈴音さんのお孫さんですし……」  その言葉を聞いて、えっと声が漏れる。 「お供え物っておばあちゃんが自ら用意してるの?」  敬語を忘れて、思わず叫ぶと、今度はクスクスと面白そうに笑った。「敬語じゃなくなったね」と言って。 「え、あ、ごめんなさい」  慌てて口を抑えても、もう遅い。彼はまだクックッと肩を震わせながら嬉しそうに「敬語そのままやめていいよ」と言った。それから思い出すように明後日の方向へ目を泳がせつつ答える。 「鈴音さんが用意してるって、僕は聞いたよ」 「そう、なんだ」 「きっかけになったお話も聞かせてもらったな」 「きっかけ?」  お供えをすることになった理由か何かだろうか。明人は一つ頷くとふっと微笑んだ。 「今日帰ったら聞いてみたらいいんじゃないかな」  そしてそのまま私の手を引いた。階段という不安定な場所なせいで、惹かれた勢いにそのまま彼に飛び込むように落ちる。「ひゃあ!」と間抜けな声が口から飛び出した。 「おっと、大丈夫?」  彼の声に、咄嗟に瞑った瞳を恐る恐る開ける。  丁度彼が支えてくれているからか、視界はかなり高い位置にあり、景色は不安定に揺れていた。怖い、と思ったのは確かだが、彼の肩にしがみついている状態なので、不思議と不安ではなかった。  というか、それ以前の問題であった。 「あ、わわ」 「少し悪戯が過ぎたね、ごめん」  明人が、男性にしては綺麗に整えられた眉を八の字にしつつまた苦笑した。なんだか今日は、彼の苦笑している姿ばかり見ている気がする。  私は慌てて体を仰け反らせて彼から少しでも距離を取ろうともがいた。とにかく一旦明人から離れなければ、という一心で、せっかく下りた石段をもう一度登ってしまう。 「そんな離れなくても」  彼は笑いながら戻ってくると、今度はしっかりと私の手を掴んで階段を降り始める。ぎゅっと握りこまれた手から、どんどん体温が上がっていくのがわかり、また階段を下りていることもあってか自然と俯く形になった。  彼は尚クスクスと笑いながら、私の手を優しく引いて階段を降り切った。ようやく石でできた鳥居を潜ることができて、ほっとしたの束の間。彼は顔を近づけてにっこりと笑う。 「顔、真っ赤だよ」  余計なことを、と口にする前に、全身が沸騰するような感覚に陥る。繋いだ手から温度が伝わってしまったのか、彼はまたふふっと微笑んで帰路へ着いた。 「ただいま」  店先から顔を覗かせて一言。もう子供たちも帰ったのであろう。たった一人を残して静かな空間と化していた店の奥にいるおばあちゃんに声をかける。  老眼鏡をかけてまるでじっくりと観察するように見ていた本から顔を上げたおばあちゃんはそのままいつも通り明るい笑顔を皺の目立つ顔に浮かべた。 「おかえり、明人君は?」  おばあちゃんの声に、明人が私の後ろから頭を出した。「はい、いますよ」と微笑んだのか、おばあちゃんはさらに楽しそうに笑って言った。 「今日もお夕飯食べてく?」  またか……と思いつつ明人を振り返ると、彼は迷惑そうな表情をおくびにも見せずに笑った。 「ぜひ」  その笑顔だけで心臓がドクン、と大きく飛び跳ねる。慌てて目を逸らすが、視線は店の奥でニコニコしているおばあちゃんへ自然と向いてしまい、また恥ずかしくなって俯いた。  その後と言えば、途中でおばあちゃんが私の今朝の失敗談を話して聞かせてしまうという悲劇以外は、とても楽しく過ごすことができた。  しかしその楽しい時間をp過ごしているうちに、お供え物の話を聞くタイミングがつかめないままに、就寝時間となってしまったのだった。
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