駄菓子屋リンネ

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駄菓子屋リンネ

 からりと晴れた青い空に、夏らしい積乱雲が遠くで白く光っていた。都会でも田舎でも変わらず鳴き続けるセミの声ですら、気持ちが昂る言い材料になっている。  午前九時。電車の一番後ろの車両が女性専用車から普通の車両へと移り変わる時間。いつもであれば、すでに学校でスケッチやらデッサンやらをしていたであろうが、今日から一か月はその生活を一変させる。  通勤ラッシュの時間を過ぎた、人もまばらな電車でゆったりと読書をしつつ、桜川陽(さくらがわよう)は小さく欠伸をした。別に眠いわけではないが、心地よい涼しさと、静けさになんだか安心してしまったようだ。  欠伸をきっかけにゆっくりと視線を窓の外へと向ける。最初にこの電車に乗った時はまだ、都会らしく灰色のビルが、ひっそりと立ち並んでいたものだが、今はすっかり様変わりしていた。  桜だろうか、道にそって植えられた木々が青々とした葉を茂らせて、風に少し揺れていた。少し前まであんなにも無機質だった景色が、今は強く優しく包み込むような美しい自然が、遠くの方まで広がっている。  悪く言えば田舎というのだろうけれど、都会のように忙しなく動き回る人々の群れもなければ、機械的な光で目が眩むこともない。昔のように人間が人間らしく生きられる場所だと思っている。  私はふと自分のスケジュール帳を開いた。昨日の日付の枠に、夏休みと書かれた文字。その翌日から私は地元に帰省することをメモしていた。何気なく確認したスケジュールをみて、思わず笑みがこぼれる。  そんな私の浮きたった心を示すかのように、少し雲に隠れていた太陽がゆっくりとその輝かしい顔を見せた。瞬間、焼けるように熱い光が窓から差し込んできて、思わず目を細めめる。緑でいっぱいの大地が強い光に照らされて、さらに強く青い葉を輝かせた。  自然の中を通り過ぎる電車の中から、目的地へと視線を巡らす。視線の先には、さほど大きくはないが、田舎にしては活気のある街が見えた。 「おばあちゃん、元気かな」  ワクワクした気持ちが声に乗って、電車の窓から抜けていく。同時に、すっかり夏の匂いとなった風が、私のいる車両へ満ちた。  私は正直あまり地元が好きではなかった。これと言って不便なわけでもなければ、便利過ぎることもない場所なので、好きとか嫌いとか以前の問題だったのだ。  だがいったん離れてしまうとやはり、寂しさが胸に広がったのは確かである。恋焦がれるほどではなくとも、時間がゆったりと過ぎ去る感覚は、都会だと感じられず、いつも時間に追われる生活だったせいだろう。安心感がなかった。  一人暮らしは気楽でいいが、都会は隣人との接点はない。大家さんともそこまで仲良いわけでもないので、特に会話もしない。学校では友達がいるけれど、課題が多くて遊びに行く暇もない。  恋なんてしている時間があれば、今日明日をどう過ごすか考えなければならないほど私は余裕がなかった。というか、友人らも含めてそんな余裕がなかった。専門学校に来ている以上、どんなことも身に着ける努力をしないと、ついていけない気がしたのだ。  だから去年は地元に帰ることができなかった。家族とはちょくちょく連絡を取っていたが、顔を合わせる機会などないままに一年半が過ぎ去っていた。しかしまあ家族自体はあまり気にしていないようだったが。  今回何故私が地元へ帰ることを決心したのかという話だが、今年は一人暮らしにも余裕ができて、ようやく課題もひと段落ついたからだ。  その話を母に電話でしたところ、一人ひっそりと駄菓子屋を経営しているおばあちゃんの様子を見てきてほしいと頼まれた。さすがに家族全員で顔を出すと不機嫌になるらしく母は行けないから、代わりに行ってほしいのだと。  もちろん大歓迎だった。家族と一緒だと賑やかで、それはそれで安心するが、祖母と一緒にいると、それ以上に楽しいから。だから私は今ここにいる。  すっかり昼時で、いろんな人がごった返す飲食店の並んだ道を通り過ぎ、駅前のバス停へと向かう。家族連れが多く、子供たちのはしゃいだ黄色い声が耳をくすぐった。なんだか小さい頃を思い出して、自然と口角が上がる。  都内では小学生くらいの子供ですら一人で交通機関を利用していた。小さいのに大丈夫なのかな、と最初はハラハラしていたものだ。しかし彼らは慣れた手つきでさっさと電車を乗り換えたりしていた。拍子抜けもいいところ。畏怖さえ覚えた。  まあ東京都内は、その周りの都道府県と違って交通機関を使う方が移動時間も短縮できるから、仕方がないと言えばそうだろう。一種の地位性というやつだ。  私は羽織った薄い上着のポケットからパスモを取り出しつつバスの時間を確認した。一人暮らししているアパートを出る前には一度確認していたが、時間ぴったりだった。もう数分もしないうちにバス停に来るらしい。  やっと着く、という嬉しさにソワソワしながら、意味もなくスマートフォンを取り出していじる。チラチラと時間を見たところで早く過ぎるわけではないけれど、やはり気になってしまう。  何気なしに開いたニュースでは、早くも夏祭りの話題や、花火大会の話題が溢れかえっていた。ワクワクに拍車がかかったように、鼓動も少し早くなった。 「――あ、いたいた。陽~久しぶりね~」  ビクッと肩が震えて、反射的に前を見る。気付けばそこには懐かしい真っ赤なワゴンがそこにいた。助手席の窓が開いたと思えば、そこから身を乗り出して私を呼ぶ人がいる。 「おばあちゃん!」  御年七十八歳と、かなり年配の、我が家で唯一店を経営している人。私の祖母、鈴音(りんね)だった。 「まさかおばあちゃん自身が迎えに来るとは思わなかったよ」  だいぶ年もいっていて、正直運転させるのも怖いくらいのはずなのに、本人ときたら本当に七十後半だとは思えないくらい、隣で大きく笑っている。 「まだまだ現役よ~」  本当に、怖い程だ。本当はおばあちゃんの代わりに運転できるように得た自動車免許だったのだが、当人がここまで安定した運転が出来ているのでは、無駄になってしまう。しかも都内ではほとんど使わないのだから、何のために免許取得したのかわからない。 「それにしても、随分綺麗になったものね~」 「いやいつもと変わんないからね」 「会うたびにメイクが上手くなってるじゃないか」 「そりゃまあ毎日やってるから」 「料理もそれくらい頑張んなさいよ」 「……一応やってなくもないし」  おばあちゃんはまた大きく笑った。その笑顔を見てなんとなく安心する。これならまだしばらくお母さんの心配するようなことにはならないだろう。とはいえ、家族皆そこまで心配していなさそうではあったが。  おばあちゃんが慣れた手つきで音楽をかける。それは今広い世代で流行っているイケメン揃いのアイドルグループの曲だった。  ミーハーなわけではないおばあちゃんも好きになるくらい、綺麗で元気が出る曲が多いこのグループは、ファンというほどではないが、気に入っていた。その曲を聴きながら、助手席の窓を半分ほど開ける。  乾いた生暖かい空気が、夏らしい自然の匂いと熱いくらいの光を伴って車内に流れ込んでくる。その風を思い切り吸い込んで、吐き出した。瑞々しいくらいの元気が体に満たされていくようで、心地よい。  開いた窓からは光を反射して輝くアスファルトと、緑に埋もれるようにある公園で走る回る子供たちの姿が見えた。勢いよく隣を走っていく他の車を横目で見ながら、彼らの姿を眺める。  ああゆう、元気な姿を、輝かしい景色を描きたい。  そう思った瞬間、弾かれるように抱えていた黒いリュックサックから、A4サイズのスケッチブックを取り出した。あっという間に過ぎ去ろうとしているその景色を忘れないように、流れるような動作でシャーペンを走らせる。  真っ白だったそのページに、どんどん白黒の子供たちの姿が描かれ、白黒だというのにまるで生きているように自然が描きだされていった。  世間一般からしたら、桜川陽のイラストは綺麗だ、という感想だけで終わるだろう。模写が得意なだけの、自分絵がない者だから、上手いけど、で終わってしまう。  それでも私は描く。情景を綺麗な世界を、描いていく。特に目標はないけれど、それを必要としてくれる誰かが、私の絵を見つけてくれるまで描く。そう決めていた。  もちろんそんな夢物語で芸術の道へ進むことを両親家族は反対した。ちゃんとした職に就いた方が将来は安定するし、世間体も悪くない。社会に貢献した方がきっと自分のためになるからと、彼らは私を諭すように言った。言い続けた。  けれど私は反発した。理由はあったけど、それ以上に私にとって絵は世界そのものだったから。だから、叫んだ。「絶対に諦めるもんか」って。  その叫びにそれまで全くの無言を貫き通していたおばあちゃんが初めて口を開いた。「行ってきな」と、一言だけ。でも随分とよく通る凛々しい声で、家族の反対を一掃してしまったんだ。  お金に関してはちゃんと考えていたから、そこからは家族の反対もほぼないままに、私は実家を後にした。  だから私はおばあちゃんが大好きだ。都会の生活は少し心細いこともあるけれど、寂しくもないし、何より私の絵を気に入ってくれる人も現れたのだ。そんな人に出会えたのもおばあちゃんのおかげ。元々大好きな人だけど、より一層好きになった。 「そろそろ着くよ」  ハッと顔を上げた。ワゴンはすでに広々としている住宅街に入っていた。道をそのまままっすぐ行けば、少し高台にある駄菓子屋へ着く。駅前のバス停を出てからまだ三十分を少し過ぎた頃だろう。近すぎず遠すぎない地元というのも、また良い。  ふと、膝の上に開いたままのスケッチブックを見下ろした。先程みた景色が見えなくなってからも、思い出せる限り描いていたのだ。白黒でもそこそこ上手くかけていたが、やはり見ていた時間が短かったせいで、曖昧なところのタッチが甘い。少しため息を吐いて、名残惜しくもスケッチブックをリュックサックに押し込んだ。  そんなことをしているうちに、ワゴンはスピードを落とし始める。隣をチラリと盗み見れば、おばあちゃんは少し口角を上げた。「まだまだ元気でしょう」と言って、店の横にある車庫にきっちりと、バックで駐車する。  私は深々と頭を下げて「恐れ入りました」と言ってから笑った。おばあちゃんも一緒になって笑った。今日はよく笑う日だ。 「そういえば、昼過ぎだけど、お昼は食べてきたの?」  車のエンジンを切りつつ質問されて、私は「実は食べてない」と返事する。おばあちゃんが驚いたように振り返った。 「来る途中で食べればよかったのに」 「だって、お腹すいてなかったし……」 「言い訳は良しな。どうせ手料理食べたかったんでしょ」 「おっしゃる通りにございます」  また大きく笑ったおばあちゃん。本当にこの人は元気な人だ。私も後部座席に置いた荷物を取り出して背負いながら、ふふふっと笑う。誰かと一緒にいて意味もなく笑えることが最近少なかったから、楽しい。 「それじゃ荷物置いたら、しばらく店番してて。何か適当に作るから」 「はーい」  車庫から母屋へ続く扉を潜りながら返事をする。基本メインで使うことになりそうな出入り口だな、と思っていたらさっそく合鍵を渡された。なんと鍵には随分精工に作られた真っ白な狐のストラップが付いていた。 「これ凄く綺麗」  思わず見惚れてそういうと、おばあちゃんは得意そうに胸を張った。 「それ、町外れに住んでる深山のおじいちゃんが作ったやつよ」 「え? 深山のおじいちゃんが?」 「しかも手作り」 「嘘! 器用だなあ」  コロコロと手の平の上で、その美しい白狐を転がした。とても手作りとは思えないほど綺麗に仕上がっている。深山のおじいちゃんとはほとんど接点などなかったが、確かにガラス細工を生業にしていると聞いたことがある。実際に見ることもないままにこの年になったが、なるほど。これなら確かに売れそうだ。 「そうそう、その狐、兄弟もいるらしくて、一緒にもう二つ貰ったのよ」  言いながら棚の引き出しを漁る。すぐに見つけたようで、私の方に、握った手を差し出してきた。「御守りらしいからあげるよ」と。ありがと、と言いながら受け取ったそれを手の平に乗せてじっと観察した。 「あ、普通に狐色だ。でももう一つって」  まるで黒曜石のように黒く、つるりとした狐がそこにいた。すっと伸びだ鼻先には他の子と同じように半透明の水色に染まっているが、他は全く逆。目は金色に光っていて、どこか寂しさを宿していた。 「この街の守り神」  突然おばあちゃんが、低く、丁寧に言葉を放った。一瞬ドキリ、と心臓が飛び跳ね、私は顔を上げて彼女を見つめる。酷く真面目なその表情に、思わず生唾を飲み込んだ。 「三兄弟のお狐様だよ。大切にしなね」  そう言っておばあちゃんは狐のストラップが乗った手の平をそっと握らせた。一瞬だけ  世界がスローモーションのように見えたが、瞬きをした次の瞬間には、いつも通りの時間が流れていた。 「さ、荷物置いてきな。二階の角部屋が空いてるから、そこ使ってね」  お母さんが昔使っていた部屋だよ、とウィンクする。私はうん、と軽く頷いて、ストラップを大事にポケットにしまい込んでから、荷物を抱えて廊下を進んだ。  ギシギシとなる少し痛んだ、しかし綺麗に磨かれた廊下を慎重に歩く。なんだかんだ言っておばあちゃんの家に遊びに来たのは小さい頃以来だから、あまり覚えていないのだが、見るものすべてが懐かしく感じるのだから面白い。ちゃんと記憶に残っていたらよかったのにな、と呟きながら奥にある階段を上った。  階段を上った先も比較的綺麗に磨き上げられていた。使っていないであろうおじいちゃんの部屋の扉ですらピカピカなのだから、やはり一人だと暇なのだろう、と想像した。ただおばあちゃんは所謂世渡り上手なので、一人でいるところを想像してもしきれなかった。  言われた角部屋は恐らくあそこだろう、と自分の中で確認しながら短い廊下を進む。そのままの勢いで半開きの扉の中に滑り込んだ。  部屋は比較的綺麗に整理されていた。というか荷物の類がほとんどなかった。母は綺麗好きで、物は最小限に抑える人だが、昔からそうだったのかと思うと何故だか笑えてきた。まあ本が部屋に溢れている部分以外ではの話だが。  早速店番を頼まれたので、貴重品以外は部屋に備え付けられているベッドの横に放り投げて、ポーチを肩にかけ部屋を出た。先ほどもらった狐のストラップも、ポーチにしまい込んだ。  店は母屋の階段を下りてすぐ左の引き戸の先だった。今はシャッターを閉めているから暗く静かだが、シャッターを開いたらきっと子供たちがはしゃいで駆け込んでくるだろう。家の目の前の大きな公園で遊ぶ子供も多いから、そこそこ繁盛していると聞いていた。  正直おばあちゃんのお店の手伝い自体はほとんどしたことがない。かといって別に出来ないわけでもないのだが、本当にただ座っているだけのことが多いから、しなかっただけ。  ぎこちない動きでシャッターを上げていく。だんだんと差し込んでくる強い光に目を細めながら、目の前の公園へと視線をやった。  案の定そこでは元気に走り回る子供たちが十数人いた。皆笑顔で、全速力で一人の男の子から逃げ回っている。鬼ごっこでもしているのだろうか。懐かしいと思いながら、シャッターを上げるために伸ばした腕をゆっくりと降ろす。  と、一人がこちらの視線に気づいたようで、振り返った。何人かに声をかけて、三人くらいでこちらに走ってくる。早速お仕事か。私はニッコリと微笑んで店の奥に入る。  おばあちゃんが店番するときは基本的に店の奥のレジの前に座って、商品を持ってきた子供たちにお釣りを渡したりするだけ。店の入り口に設置されているベンチから見ていただけだが、確かそうだったはずだ。 「こんにちは!」 「はい、こんにちは」 「あれ・ いつものおばあちゃんは?」  黄色いミニ丈ワンピースを着こなす女の子が元気に挨拶をして、それに返すとその後ろにいたすでに日に焼けている男の子が質問してきた。ちょっと苦笑しながらそれに答える。 「今お昼ご飯作ってくれてるの」  そういうと男の子が納得したようにうなずいた。「道理でいつもより早く店が開いたわけだね」と、顎に手を当てて目を瞑る。なんだかませてるな、と思いつつも子供らしくていいな、と微笑む。 「あ、じゃあお姉さんってあのおばあちゃんのお孫さん?」  女の子がニコニコしながら純粋な瞳をこちらに向けてきた。まさか一発で当てられると思っていなかったから、少し慌てながら軽く頷いた。 「そうだよ、桜川陽っていうの。よろしくね」 「あたし冷夏!」 「僕は菜月」 「俺大地! 「「「よろしくね!」」」  随分息ぴったりな子供たちだな、と苦笑しつつ、私はレジの前に腰を下ろした。それをきっかけに子供たちもそれぞれ駄菓子を眺め始める。子供あるあるだが、どうしてもお小遣いには限度があるもので、その中でどれを買って満足するかがすごく重要になる。  幼い頃の私も同じように駄菓子で悩んだものだった。いくら家族だろうとおばあちゃんは誰にでも公平に売っていたからなあ。  遠い昔の記憶に浸っていると、菜月という眼鏡をかけた男の子がお菓子を差し出してきた。「これください」彼の手のひらに乗っていたのは五円チョコときな粉棒の二つだけ。思わず彼の顔を二度見してしまう。 「これだけでいいの?」  彼は声に出さず頷いた。その様子を見ていた冷夏が元気に補足してくれる。「菜月はお菓子そんなに食べないんだよ」と。 「甘いものが苦手、だったね」  突然後ろから大きな声がして、思い切り振り返る。そこには大きなトレーを両手で持っているおばあちゃんがいた。菜月がハッと顔を上げて少しだけ微笑んだ。どうやら覚えててくれたことがかなり嬉しかったようだ。 「ここの常連さん?」  問うと、おばあちゃんはにっと笑う。冷夏が再び黄色い声を上げた。「あたしたちが赤ちゃんの時から知ってるんだって~」菜月も大地も嬉しそうに肯定した。おばあちゃんは今度こそ大きく笑う。 「そりゃご近所さんだからね」  なるほど。よくおばあちゃんは小さな子供を預かってた、と母に聞いていた。その関係で知っていたのかもしれない。ふと、まだ菜月の持ってきたお菓子の会計を済ませていないことに気づいてレジに打ち込んだ。 「はい、お釣り」 「ありがとうございます」  随分しっかりとしたお礼にちょっとだけぎこちなく微笑んでから、立ち上がってレジの前から退いた。何も言わずおばあちゃんはレジの前にどっかりと腰を下ろす。  そこに安いお菓子を両手に抱えた冷夏が小走りで寄ってくる。おばあちゃんは慣れた手つきでレジに打ち込んだ。 「はい、まいど」 「ありがとう!」  きらっきらの太陽みたいに輝く表情。思わずその顔を絵にしたくなって、側にスケッチブックがないことに気づく。そういえば部屋にリュックサックも放り込んできてしまった。あとで取りに戻らないとな、と考えながら、もう一人の子供、大地の方へ視線を移した。 「う~ん」  いくつもの種類が並んだ棚を眺めながら眉間にしわを寄せて悩んでいた。この中で一番子供らしいと言えば子供らしいが、何に悩んでいるのだろうか。私は彼の隣に立って聞いてみた。 「どれに悩んでるの?」 「冷夏の誕生日プレゼントどうしよっかなあって」  言いながら比較的安そうで沢山入ったスナック菓子を一つ掴んで、おばあちゃんの方へ歩いていく。あまりに予想と違った返答にしばらくその場から動けなかった。今の子供って皆あんな感じなのかな。 「はい、いつもありがとね」 「こちらこそ!」  大地の会計も終わったようで、ニコニコしながら店を出るところだった。おばあちゃんはそれを元気に見送る。まるでおばあちゃんも子供みたいだ、と思いながら私は彼らを眺めていた。 「さてと、お昼にしようか」  そう言って先ほど持ってきたトレーの上から、おにぎりを一つとって私に投げた。「ちょ、危ないよ!」慌ててキャッチすると、おばあちゃんは嬉しそうに笑う。まあ楽しそうならいいか、と許すことにした。 「それ、梅入ってるよ」 「やった! 梅大好き~」 「昔からおにぎりは必ず梅入れてたのが懐かしいわ~」 「おばあちゃんの梅干しって他のと違って酸っぱいから好きなんだよね」 「酸っぱい梅干しって嫌われがちなのに、陽は変わってるね」 「おばあちゃんに言われたくないよ」  他愛もない昔話に花を咲かせる。それからは、最近の子供たちの話に移り変わる。おばあちゃんは少し残念そうに愚痴った。 「最近は便利になっちゃったもんだから、おばあちゃんの知恵袋って役に立たなくなってきたんだよね~」  もぐもぐと梅干しの入ったおにぎりを頬張りながら、ふんふんと相槌を打つ。「今時の子供ってやっぱり頭でっかち?」おばあちゃんは少し首を傾げながら「そうだね」と肯定した。 「さっきの三人はそうでもないけど、やっぱりどこか涼しい風吹かせてる大人びた子供が増えたかな」  やっぱり時代というものは進んでいくんだね、と悲しげに微笑んだ。口いっぱいに含んだ甘い米をゆっくりと味わいつつ、黙り込む。都内でもそうだったけど、今じゃあスマートフォン一つあれば何でもできてしまうから、やはり人との付き合いが減るようだ。  なんだか寂しいな。もう一つおにぎりをもらいながらそう思った。私の表情が少し暗いことに気づいた祖母は、ふいににかっと笑う。「それでも子供は子供だけどね」。 「ほら、ここって毎年そこそこ大きいお祭りするでしょ」 「そういえばそうだったね」 「そのお祭りで昔みたいに走り回る子って結構多いのよ」 「大人びた子でも?」 「うん、そう。普段興味なさげにしているくせに、その日だけは目をキラキラ輝かせてね。お店見て回って……やっぱり子供だなあって」  そう言いながらどこか遠くを見つめる。去年の事だろうか。それとももっと前か。やはり昔から続いている伝統というものの力はすごいんだな。お祭りの様子でもイラストにしたら面白いかな。 「そうだ、お昼食べ終えたら、すぐ近くにある神社、行ってきなさいよ」  唐突にそう言ってニヤリ、と笑うおばあちゃん。言われてから、幼い頃はよく遊んでいた小綺麗な神社を思い浮かべる。「近くってあの狐の神様が祀られてるっていうあの?」私が聞くと、彼女は大きく頷いた。 「帰ってきたことを報告するといいわね」 「わかった」 「もしかすると、不思議な出会いがあるかもしれないし」  え? と聞き返すと、おばあちゃんは意味深に笑ってそれ以上言わなかった。よくわからないまま三つ目のおにぎりに手を伸ばす。 「……随分よく食べるのね」 「…………お腹すいてるから」  少しどもりながら答える。しかしさすがに食べ過ぎだろう。お腹の辺りを軽くさすりながらおにぎりを小さくかじった。今年の夏で少しダイエットしよう、とちょっとだけ考えつつ三つ目のおにぎりを食べ切ったのだった。  時刻は午後三時半。店は三時のおやつだ、と駆け込んでくる子供たちでいっぱいになる頃だった。ダイエットしようと思いつつ結局おにぎりを五個も食べてしまった私は、散歩がてら近くの神社へ向かうことにする。 「それじゃ行ってきます」  一度部屋に戻ってスケッチブックとシャーペンを新たに携えた私は、レジの前で子供たちの相手をしているおばあちゃんに声をかけた。「はーい、気を付けていってらっしゃい」とこちらを見ずに手を挙げた彼女に軽く微笑んだ後、店を後にする。  なんだかんだ言ってもやはり子供が好きなのは変わらないらしい。忙しそうに手を動かしながらも彼女の口角は上がっていた。元気にやっている。見ていて凄く楽しかった。  さてと、私も頑張りますか。  軽く決意しつつ神社への道をゆっくりと進んでいく。軽く坂になっているこの道からは街を一望できる。まだまだ日は高く、輝かしい程に子供たちが走り回っていたり、大人がゆっくりと歩いてるが、帰る頃にはきっと美しい夕焼けが見れることだろう。  それを楽しみにしつつ坂を上っていく。駄菓子屋からは本当にすぐ近くで、五分もしないうちに林の中へ続く道を進めば、すでに小さな神社の鳥居が見えてきた。 「懐かしい~。この鳥居」  石造りの鳥居は、あまり大きくはないけれど、潜るたびに澄んだ空気に触れられる気がして、出たり入ったりを繰り返したものだ。そのたびにおばあちゃんに怒られていた。今となってはそれすら楽しかった思い出の一つだ。  そんな懐かしい鳥居を潜って、足腰に負担のかかりそうな少し高い石の階段をゆっくりと登る。高く聳え立つ木々が、悠々と葉を茂らせて、階段に差し込む光を遮っている。比較的気温が低く感じた。  なんだかんだあまり外に出ない生活を一年半も続けていたせいで、随分体力が落ちていたらしい。然程段数の多くない神社の階段を登り切るころには、だいぶ息が切れていた。子供の頃のように走って登ることなど絶対できないな、と思いながら階段の先へ進む。  その先には見慣れた社が見えてくる。私は緑で覆い隠された神社の中を進んでいく。それだけで神聖な空気に触れている気がするが、実際はどうなのだろう。そんなことを考えながら社に近づいていく。  まさか、先客がいるとは思わなかった。 「……あ、こんにちは」  足音で気づいたのだろうか。私が声をかける前に振り返ったその人の最初の印象は、黒かった。黒、というのは少し違うかもしれない。夜の匂いがしたのだ。紺色のスーツに染めたことのないであろう黒髪。それにしては色素の薄い瞳が印象的だった。 「えっと、こんにちは」  たどたどしく返事をする。最近人と関わる機会に乏しかったせいで、言葉が出てこなかった。別にコミュニケーション能力が低いわけでもないのだが、彼は少し苦笑した。 「すみません、すぐ退きますから」  そそくさと社の前から離れていく。何も言えないままに彼は神社の入口の方に姿を消してしまう。罪悪感が襲ってきたがあとの祭りというものだ。仕方なしに社の前に立ってポーチを漁った。 「十円玉でいっか」  取り出した財布から適当に一枚十円玉を取り出して、お賽銭箱に軽く投げ入れる。カランカラン、と木の箱にぶつかって、銅の小さな塊は落ちていった。同時に私は二礼二拍手一礼をする。軽く報告をする程度だが、帰ってきたという実感が後からやってきた。やっぱりここに来てよかったと思う。  そのあとは少し神社の中を散歩する。緑に覆われたこの場所は、幼い頃もっと綺麗に整備されていたはずだが、今はもう手も付けられていない様子で、ツタに覆われていた。だいぶ放置されていたらしい。しかし逆に神秘的な雰囲気を醸し出していて、絵描きとしては腕が疼いたのだった。  しばらくそうして眺めているうちに、だいぶ辺りが暗くなっていることに気づく。ふと見れば、もう足元はぼんやりとしていて見えなくなっていたのだ。確か店を閉めるのは六時半だと言っていたから、そろそろ戻った方が良いだろう。  少し小走りになりながら、神社の入口の方へ戻ってくる。そのままの勢いで階段を下りたら、石の鳥居近くで、出っ張りに躓いてしまった。いい歳して情けない。まあ誰にも見られていなかったからいいが。  鳥居を抜けるといつもの空気がふわり、と私を包む。ほのかに夏らしい熱気が混じった地元の香りが、くすぐったく感じて、ちょっとだけ微笑む。そして例の坂へと差し掛かったところ。 「うっわあ」  まばらに浮かんだ雲の隙間から差し込むオレンジ色の温かい光。地平線より少し上辺りに輝く丸い太陽。太陽自体はオレンジというより茜色に近かった。丁度、黄昏時になるのだろう。太陽が今日最後のその輝きで照らす空が、遠くなるにつれてどんどん青紫色になっていく様が、美しかった。  パシャリ、と気が付けば無意識にスマートフォンのカメラを向けていて、その美しさを半永久的に保存していた。それが使命のように、当たり前に保存していた自分に、後から気付いてスマートフォンを落としそうになる。それくらい、圧倒されていた。  まさにここで座り込んで書いていきたかったけれど、見てわかるように、この景色が見られる時間はそう長くない。そのことに気付いた瞬間、私は弾かれるようにその場でスケッチブックを取り出した。  ハッと顔を上げた時、そこには懐かしいような寂しいような夜景と、星がちらほらと輝く夜空が広がっていた。まだ微妙に明るさをはらんだ空は、もちろん綺麗だったのだが、先ほどまで感じていた圧倒されるようなものは、跡形もなくなって。  それまで私を突き動かしていた圧倒されるような景色が、まるで夢のように過去のことになってしまったことが、少し寂しい。しかし時とは残酷なもので、一分でも一秒でも先に進んでしまうと、過去は閉じ込められてしまうようだった。  少しずつどうしようもできなかった感情が流れていくのを感じながら、私は開いていたスケッチブックをパタン、と閉じる。すでに時刻は午後五時半に差し掛かっていた。  何の変哲もない住宅街に、シャッターばかりが寂しく目立つ商店街を見て回り、幼い頃のほとんどを過ごした小学校や、中学校を遠くから眺める。なんとなく遠回りをしながら私はおばあちゃんの家へと向かった。  本当はスケッチブックを開いた場所。あそこからまっすぐ下に降りていけばおばあちゃんの経営する駄菓子屋リンネへはすぐだったのだが、そのまま帰る気にはなれなかった。  理由は自分でもわからない。けれど、何故だか逆らい難い自分の中の声に、結局私は遠回りをする以外に考えられなかった。  だからこそあんな不思議な出会いをすることとなったんだ。 「……今日も神社にお参りするの?」  駄菓子屋がもうすぐそこだ、と思ったところで、おばあちゃんが店先に出ていることに気が付いた。目の前には、どこか見覚えのある黒いスーツを着た、背の高い男性。 「ええ、なんとなくやらないと気が済まないので」  そう言った男性の声に、ハッと気が付いた。印象がまるで真っ暗な夜空を現しているような、そんな人に以前出会った。以前というには些か時間が経っていなさすぎる気もするが。 「いつも言っているけど、時の流れは残酷なんだからね」  おばあちゃんが珍しく険しい顔をしながら彼にそう言っている。遠くて、しかも途中から聞いているせいで話の内容がわからないけれど、彼は曖昧に笑って首を横に振った。 「それでもやらずにはいられないですから」  そう言った彼は、ようやくおばあちゃんの店から離れようと、半身を傾けた。おばあちゃんも、改めるように背筋を伸ばした。 「それでは失礼します」 「はいよ、明日も用意しておくね」 「本当に、いつもありがとうございます」  彼はゆっくりと店に背を向けて、私が最初に向かった、今はだいぶ廃れてしまった神社の方へ向かっていく。おばあちゃんは店先に出て、彼を見送った。彼の姿が小さくなった頃合いを見て、シャッターを閉め始めるおばあちゃんに声を掛けた。 「ただいま」 「あ、おかえり」  元気に振り返ったおばあちゃん。母の姿が重なって見えて、やはり血のつながった家族なんだ、とぼんやり考えながら、私は彼女に先ほどの男性の事を問うた。 「さっきの男の人、誰?」 「ああ、深山さんちのお孫さん」 「ふうん、成人男性なんて、珍しいお客さんだね」  もう見えなくなった、彼の向かった先を見つつそう言うと、おばあちゃんは苦笑した。 「確かに、あの年じゃあ駄菓子屋に買い物なんて場違いだね」  常連さんなんだけどね、と言いながら、シャッターを地面にぴったりと合わせて鍵をかけた。その鍵を着ているズボンのポケットにしまい込み、代わりに母屋の鍵を取り出した。 「さて、そろそろ夕ご飯にしようか」  そう言って元気に母屋の出入り口へ向かうおばあちゃんに、慌ててついていく。「今日はカレーだよ」という彼女に、私は言った。 「カレー作るの手伝うよ!」  返答は、大きな笑い声だった。  午後六時四十分を少し過ぎた辺り。さすがに夜は気温が下がるかと思いきや、昼間にため込んだ熱気を発散するかのように暑いままだった。料理自体好きではないので、ただでさえ嫌々にならないよう頑張っていたというのに、ウンザリしてしまう。 「手伝うとか言い出しといて、そんな鬱みたいな顔しないの」  おばあちゃんが笑いながら注意してきて、さらにげんなりと気分が落ち込んでいく。  問題の手伝いだったが、おばあちゃんが器用に色々なことを同時進行していくのに対して、私はニンジン一個切るのにさえ戸惑っていた。包丁を使わないような料理ばかりなので慣れていなかったのだ。  おばあちゃんは心底驚いて、大きく笑った。悪気がないのだとしたらもう何も言い返す気力もわかず、出来ることだけをして、居間でぐったりとしていた。小さい音でも笑い声はしっかり聞こえてくるテレビ番組をぼんやりと眺めながら、自分の無力さにため息を吐く。 「この夏の目標は料理の上達に決定だ」  おばあちゃんが苦笑しながらカレーをよそったお皿をテーブルに並べる。項垂れつつも私は席に着いた。おばあちゃんが慰めの言葉を吐く。 「まあ、最初は皆そんなもんよ」  それには頷くだけに留めた。そのままいただきます、と手を合わせてカレーを口に口に運び、何度か咀嚼する。  口いっぱいにカレー独特の香りと、優しい甘みが広がった。おばあちゃんはよくカレーの隠し味にチョコレートを入れて、さらにハチミツも加える。辛いのが苦手な母のために考えたと言っていたか。私も辛いのは得意ではないから、おばあちゃんの作るカレーは大好きだった。 「やっぱりおばあちゃんのカレーは美味しいね」  モグモグとしっかり味わいながら、称賛を送る。母の手料理が美味しいならおばあちゃんの手料理も美味しい。私の感想を久々に聞いたおばあちゃんは、にっこりと笑った。 「作り方も比較的簡単だし、後でレシピ渡すよ」  言いつつ、さっさとカレーを平らげていく。あまりに早いので、私は慌てて、空腹を訴えていた胃の中に放り込んだ。  二十分ほどで綺麗になってしまったお皿を名残惜し気に見つつ「ごちそうさまでした」と手を合わせると、おばあちゃんはニコニコと微笑みながら私を見る。 「いやあ、やっぱり誰かと取る食事はいいもんだよねえ」  普段寂しいと遠回しに言いながらそう言うで、私は話題を変えるつもりで聞いた。 「ええと、そういえば、深山さんちのお孫さん? っていつもあの時間に来るの?」  ふと、あの黒いスーツの印象的な姿が脳裏を過ぎった。神社に来ていたが、スーツを着ていたということは、仕事帰りなのだろうか。彼も里帰りしているとか。  おばあちゃんは少し考えるそぶりを見せて、思い出すようにしながら言葉を紡いだ。 「そうだね、確か午後六時かその前には、必ず買いに来てるね」  それがどうかしたの? とでも言うような視線を私に向けるその瞳は、なんとなくいたずらっ子の光が見えた。私は慌てて言い訳するように喋る。 「いや、さっき神社に行ったとき、あの人と鉢合わせたからさ、気になって」 「神社で?」 「うん、真剣な表情でじっと立ってた」  熱心な人なんだなって思ったけれど、今思えば不思議な話だ。駄菓子屋に寄ってから来るのだとしたら、その前に行く必要はないだろう。涼しいだろうけれど、限度というものがあるし、さすがに成人しているだろうから、仕事の方が心配だ。  おばあちゃんは深く考えるように眉間に皺を寄せた。が、数秒でふう、と諦めたようにため息を吐く。「考えるのは苦手だわ」と言ってから、食後のお茶を飲み干した。 「まあ気になるなら本人に聞きなさいな。どうせ明日も来るから」  そう言って使い終えた食器を載せていた大きなトレーを両手にしっかりと持って、台所の方へ引っ込んだ。水が流れる音が聞こえてきたので、早速洗い物をし始めたようだ。私はつけっぱなしのテレビを止めて、テーブルに顎を載せた。 「……なんか、変なの」  呟き声が、口にした途端、溶けるように曖昧なものへ変化した。それでもなお、あの男性の姿がちらついて、あまり良い睡眠を取ることができなかった。  キラキラとした綺麗な情景の浮かび上がる曲が、充電しっぱなしのスマートフォンから突然流れ始めて、眉間に皺が寄っていることを意識しながら体を起こした。  時刻はまだ朝の六時半。世の中夏休みを過ごす人間の大半は、二度寝につくだろう早朝に私は、眠い目をこすりながら起きた。本当はまだ寝ていたいが、それ以上にやりたい事をやらなければ気が済まなかった。  どうせ昼になれば暇になるのだから、その時お昼寝でもしていればいい。せっかく地元に帰省したのだから、もったいないかもしれないが、結果有意義に過ごせればそれでいいのだ。  そんなことをぼんやり考えながら私は着替えを済ませる。ノースリーブの黒いシャツに、薄水色のショートパンツ。さらに夏用の白いパーカーを羽織ってから部屋を出た。  もちろんスケッチブックとシャーペンを片手に。部屋を出る時、少しだけ寒く感じたので、冷房は止めた。 「あらおはよう。随分早起きなのね」  おばあちゃんはすっかり元気に台所に立って、朝ご飯を作っていた。少しも白髪が見当たらないその若々しい祖母の姿に苦笑が漏れた。 「おばあちゃんも早起きだね」 「年寄りは早起きなのよ」 「とか言ってずいぶん眠そうですけれど」 「それは昨日夜更かししたからよ」  ニコニコしながら会話する。本当に楽しそうに朝ご飯を作る彼女を見ているだけで、こちらも楽しくなってきた。生き生きした姿は本当に母にそっくりだけど、やはり根本的に違うのか、母とは違った元気さがあった。 「今日の予定は?」  お味噌汁をお椀によそいながら、おばあちゃんが言った。あまりちゃんとした予定はなかったけれど、今日は小学校や中学校の方を見て回ろうと考えている。 「今日も散歩しようかなとは思ってるよ」 「じゃあおにぎり作ってあげるから、ピクニックがてら絵描いておいで」 「うん」 「六時前に戻ってくれば、明人くんに会えると思うよ」  突然知らない名前が出てきて、首を傾げた。おばあちゃんがハッとして口元に手を当てると困った様にあはは、と笑った。 「深山さんちのお孫さんの名前。言い忘れてたわ」 「へえ……え、なんで突然?」 「気になってるみたいだったし、喜ぶかな~って思ったのよ」  バッと顔に手を当てると、おばあちゃんはニヤニヤ笑いながらお味噌汁を口に運んだ。私は軽くため息を吐いて、真っ白いホカホカの米を口に入れた。おばあちゃんは必ずコシヒカリを使うから、いつでも美味しい。つい無言でモグモグと口を動かしてしまう。  おばあちゃんは昨日の夜に作っておいたと言う肉じゃがを、ゆっくりと味わうように口を動かす。 「……ちょっと煮込みが足りなかったかな~」  不満そうに声を漏らす。私も肉じゃがに手を伸ばしてゆっくりと口の中で噛み砕いてみたが、特に問題はなさそうに感じた。というか、旨味が咀嚼するたびに溢れ出してきて火傷しそうなほど美味しい。 「肉じゃがやっぱりうま」  噛みしめるようにそう言えば「そう?」と意外そうな表情を浮かべてから、何度か瞬きすると、二カっと笑った。まだまだ現役の少し黄色い歯が覗く。 「少し味が薄い気がしたけど、まあいっか」  言うなり、あっという間にご飯を平らげていく。納得したことでいつもの調子が戻ったようだ。私も勢いよくご飯を胃に詰め込んで、立ち上がった。「ごちそうさま」と言いつつ素早く食器を重ねると、台所に引っ込んで軽く水で流しておく。  そこにおばあちゃんが声を掛けてきた。「おにぎりの具、何がいい?」とニコニコしながら。  少し悩んだが、おばあちゃんが作ってくれるものなら何でも美味しいからな。 「お任せしまーす」 「はいはい、じゃあ居間でちょっと待ってなさい」  やる気に満ちた表情で、白いシャツの袖を捲った。私はその勢いに流されるままに居間に戻ってくる。何となくテーブルの上に放置されたテレビのリモコンが目に入ったのでニュースを付けた。 「……晴れが続く見込みです」  都内の有名な場所を背景に、お天気キャスターが笑顔で晴れを伝えているところが目に入った。ふむ、各所で晴れだというのなら、今日は熱中症に気を付けた方がいいかもしれない。  テレビの音量を小さくすると、部屋に一度戻って白いキャップを取ってくる。染めたことがほとんどないセミロングの黒髪を一つに結って、私はキャップを被った。立ったまま服を見下ろす。  暑いからとはいえ露出が多いので、ついでに日焼け止めも塗っておくことにした。 「はい、できたよー」  おばあちゃんが居間におにぎりの入った巾着を持って入ってきた。下に座ってテレビを眺めていた。涼しい家を出るのが億劫になりつつあったので、丁度良く来てくれたおばあちゃんに「ありがと」と返しながら立ち上がった。  一度部屋に戻った時についでに持ってきた斜め掛けバッグに、手作りおにぎりとシャーペンをしまい込むと、玄関に向かう。 「それじゃ、行ってきます」  踵部分に指を入れつつ靴を履くと、おばあちゃんを振り返った。おばあちゃんはオオkな声で言う。 「いってらっしゃい!」  思わずお母さんだ、と言いたくなってしまったのは仕方ない。  おあばちゃんの経営する駄菓子屋リンネを出てから数十分後。私は街外れにある少し大きな神社の前に立っていた。 「ここかな?」  おばあちゃんに言われるがままに来た、ゼンという狐の神様の住まう土地。そこは、近くにあった、草に覆われた神社とは打って変わって、すっかり人工的なものだった。  鳥居を潜る時の神聖さは一緒だったが、人の手が加わるとここまで変わってしまうものなのか、と呆れを通り越して感心した。  神社は比較的広く、また人の気配もほとんどなかった。なので特に気にすることもないままにズンズンと大きな社の前に向かって、昨日と同じように二礼二拍手、一礼をする。一応持ってきた小銭を適当に取り出すところも、ほとんど変わらぬままに、お参りは終了した。 「神社、お好きなんですか?」  唐突に後ろから聞こえた、成人男性の低い声に、驚いて勢いよく振り返る。かなり近くに立っていたらしい。そこにあった誰かもわからない人と、思い切り頭を打ってしまった。 「いったあ!」 「うう……」  視界がクラクラと揺らぐ。その中で相手もフラフラしているから、相当勢いよくぶつかったのだろう。私は、軽く深呼吸を何度かクリアえしてから彼に声をかけた。 「あの、すみません、大丈夫ですか? ……あれ?」  ぶつけた所を抑えつつ、目の前の男性を見る。とそこには今朝、おばあちゃんとの会話で話題にあげた人物、深山明人がいた。相変わらず場違いなほど綺麗な黒いスーツを着こなしている。 「えっと、はい。貴女こそ大丈夫ですか?」  彼は少しふらつきながらも顔を上げて私を見た。その瞳に驚きとかは見えなかった。きっと私を知っていて声をかけてきたのだろう。私は軽く微笑んだ。 「大丈夫です。あまりに驚いてしまって……」 「すみません、また見かけたのでつい。貴女はどうしてここへ?」 「散歩がてらスケッチを」 「へえ、絵を描くのですか」 「はい、神社も描こうと思っていたので、ついでにお参りをしてました」  言い訳ついでに苦笑すると、彼は感心した様子で、嬉しそうに微笑んだ。まるで月の光のような優しい笑みに、ドクンと心臓が飛び跳ねる。 「ずいぶん真面目な方なんですね」 「そんなことないです」  咄嗟に否定したけど、彼は気にすることなく微笑んだままだ。何となく彼の後ろに見える背景すらも輝いて見えた。実際に木漏れ日が美しく落ちる緑の風景が、絵に描きたくなるほど美しかった。 「そう言えば名前を聞いていませんでしたね」  ふと、今気付いたらしく、彼はこちらに一歩近づいてきた。何事か、と思い慌てて後ずさろうとすれば、彼はゆっくりと右手を差し出す。 「僕は深山明人と言います。よろしく」  大人らしい装いに低い声、かと思えばまるで子供の様にキラキラと輝く色素の薄い瞳に吸い込まれそうな感覚に陥る。そこに吹いた優しいそよ風にどうにか我に返った私は、同じ様に右手を差し出した。 「私は、桜川陽です」 「漢字は太陽の陽?」 「はい、そうです」  突然彼はニッコリと、彼と出会ってから初めて無邪気な笑みを浮かべた。彼に合わせるように、神社の御神木の葉が揺れた。木漏れ日も揺れて、光の雨が降り注ぐ。ここは涼しいはずなのに、何故が頰が火照っていた。 「凄く、良い名ですね。陽さん」 「ありがとう」  ザアっと吹いた突風。先ほどのそよ風とは打って変わったその勢いに、一瞬髪を抑えて目を瞑った。たった一瞬のことだった。 「もう少し話していたいですが、これから用があるので今日は失礼しますね」  唐突に彼がそう言った。その瞬間呼応するように太陽が雲に隠れ、辺りに降り注いでいた光の雨がすうっと消えていく。一気に周囲の温度が下がり、ゾワリと寒気が背中を伝って落ちていく。  気付けば彼の瞳から子供のような無邪気な光は消え去って、空虚な色が宿っていた。その色はもう何度も目にした、都会の灰色のそれだった。 「……では」  握手していた右手をゆっくりと離す。同時に消えていく温もりが、彼の体温の高さを物語っていた。 「また、会いましょう」  結局私はそれしか言えなかった。彼は曖昧に微笑んで、そのまま去って行った。  そう言えば、と一つ考える。彼は私が駄菓子屋リンネを経営しているおばあちゃんの孫だということを知っているのだろうか。もし知らなかったとしたら、今日また出会えるかもしれないことに気付いていないということ。  その瞬間何故だか温かい感情が胸のあたりに広がった。だんだんと顔を出し始める太陽を見上げて手をかざす。  すでに彼の姿は見えなくなっていたが、もう先程までの寂しさからくる寒気は、ほとんど消えかかっていた。また降り注ぎ始めた木漏れ日を眺めながら、私は呟く。 「こんな出会いも絵にかけるかな」  いや、きっと描けるはずだ。そう思った瞬間に、創作意欲に駆られて、その場に座り込んでどんどん描き込んでいく。出会いから、別れまで。自分の見た風景も客観的に見えるであろう風景も、流れるような速さで私は描き込んだ。  シャーペンに入れてあるシャー芯がなくなって、絵が描けなくなるまで、ずっと、ずっとそこでしゃがみこんで心の情景を写し取っていた。 「んで、結局描くことに集中しすぎで六時に間に合わなかったと」  おばあちゃんがクスクスと笑いながらカレーうどんをよそっていく。あまりにテキパキと動くので、ただ突っ立ったまま、カレーうどんがお皿によそわれるの見ていた。  先日カレーを食べた時に残ったルー。それにうどんを入れただけの簡単なものだったがこれがまた美味しいらしい。正直カレーうどんを食べたことが、よく考えたらなかったのでちょっとだけ楽しみにしつつ、ふてくされた顔を続けていた。 「明人くん、まだ私の孫だってことに気付いてないみたいだしねえ」  なんだか可愛い〜とニヤニヤしながら、おばあちゃんはテーブルを前に座った。私もそのまま席に着く。 「いただきます」 「はい、召し上がれ」  渡されるままに箸を手にして、二、三本絡め取るように挟んで口に運んだ。ふわり、と口の中にカレー独特の香りが広がった。何度が咀嚼して、思わず笑みがこぼれる。 「美味しいでしょ」  おばあちゃんがニコニコしながらそう言って、私が無言で何度か頷くと、自分も箸を手に食べ始める。  本当に美味しかった。たった一言で済ませたくないのに、それしか出てこない自分のボキャブラリーを恨む。初めて、帰ったら自分でも作ろうと思った瞬間だった。 「そう言えば明日も明人くん、六時に来るって言ってたよ」  さっさとカレーうどんを平らげたおばあちゃんはそう言って台所に引っ込んだ。「明日はちゃんと時間前には帰ってきなさいよ〜」と鼻歌を歌うように声をかけてきながら。 「……はーい」  別に、会いたいとかそんなんじゃないけど、でもまた話したいと、そう思ったから。だから私は、返事した。  明日はもっと晴れてくれたら良いな。そしたらきっとどこに行っても夏らしい景色が見れることだろう。もしかしたら今日みたいに、黒いスーツの彼に出会えるかもしれない。  きっと筆が止まらなくなる自分を想像しながら、私はおばあちゃんの美味しいカレーうどんを豪快に啜ったのだった。
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