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ネジの残りが十本を切った。
ふいに由衣は無我の境地から覚める。報告のため手を挙げて配給係を呼ぶ。
やってきた男性社員は由衣の作業台を覗き、足りない部品を確認すると、倉庫へと向かった。
由衣たち組立作業員は作業台から離れることを許されない。休憩時間以外のすべての時間を自分の作業台のそばで過ごす。
まるでそこにネジ留めされているかのように。
そうして皆が誰にも関心を示さない。
配給係がネジを追加して去っていくと、またすぐに由衣は無我の境地に入っていった。
小学校の修学旅行で奈良へ行った。大仏を見たり鹿にせんべいをやったり、由衣は友人たちとはしゃぎまわった。夜は皆で怪談をした。
ほぼ徹夜で寝不足の朝、由衣はボサボサ頭のまま困惑した。いつも母親が梳かしてくれるので、どうしたらいいのかわからない。
夕べ風呂に入った時も、どうやって頭や体を洗えばいいかわからず湯に浸かっただけだ。歯磨きを自分でするということを考えつきもしなかったので、歯も磨いていない。
素早く洗面をすませて着替えを終えていた仲良しのメイに尋ねた。
「ねえ、髪を梳かすってどうやるの?」
同室の女子は全員ぽかんと口を開けた。由衣は困ってパジャマの裾を左手で引っ張った。誰も何も言ってくれないので、由衣は意を決してもう一度たずねた。
「髪の梳かし方がわからないの」
部屋が揺れたかと思うほどの爆笑が起きた。メイも涙を流して笑っていた。
由衣は首から額まで真っ赤になってうつむいた。
その日から由衣の渾名は『ベビーちゃん』になった。
「あら、近藤さん。今日は一つ結びね」
ロッカールームに入るとすぐ、目ざとい同僚が声をかけてきた。由衣はひるんで一歩下がったが、中年の同僚は意に介さず、ずいずいと迫る。
「かわいいじゃない。若いんだから、もっとオシャレしなきゃ」
由衣は恐怖に身をすくめた。同僚はやっと由衣のただならぬ様子に気づき真顔に戻る。
「あ、ごめん。余計なお世話よね」
早口に言って、そそくさと部屋を出る女性の後ろ姿を、由衣は見ていなかった。由衣の視線は過去だけを見つめていた。
姉が叩かれている音が聞こえる。由衣は興味なくゲームを続けた。
『この穀潰し!』と母が叫んでいる。
ゴクツブシと言う言葉の意味を由衣は知らなかったが、なんだか貧乏臭いなと思った。
喚き声がうるさくて少し迷惑だ。お姉ちゃんも叩かれるのがわかってるんだから、どこかに消えればいいのに。そうしたらいつも静かで快適なのに。
ゲームの中で由衣が操る主人公が次々に敵を倒していく。敵が一匹死ぬたびに、姉の体にはアザが増えていった。
仕事帰りは夕食と朝食を仕入れるために混雑しているスーパーに寄る。
昼食は食べない。昼休みは誰とも顔を合わせないように作業台で寝て過ごす。
工場の収入は、贅沢できるほど多くはない。それでも賞味期限ギリギリで半額になった菓子パンやおにぎりを買うくらいの余裕はある。
もっとも、以前勤めていた風俗業で、収入が多かった時も食事は質素だったが。
由衣は料理ができない。生まれてこの方、一度も包丁を握ったことがない。
学校の調理実習の時も、みんなが『ベビーちゃんには無理よ』と言うので後ろで見ているだけだった。
箸使いがわからないせいもあるが、そもそも食べるものを自分で選ぶということをしたことがない。
自分で用意しないと食事は出てこないのだということを、風俗店の寮で同室だったエミリに教えてもらって初めて知った。
エミリは髪を真っ赤に染めて若作りした、面倒見のいいおばさんだった。
生きるために必要なことのほとんどを由衣に教えてくれた。買い物の仕方、服の着方、髪の梳かし方。
けれど、由衣が何を食べたいのか何をしたいのかを知る術だけは、教えることができなかった。
スーパーを走り回っていた子供が、由衣の目の前で唐突に転んだ。耳をつんざく大音声で泣き喚く。
由衣は不思議な気持ちで、子供を眺めた。
なぜこの子の母親は、子供が転ぶようなことをしていても平気なの?
なぜこの子の母親は泣きながら、掴まえに来ないの?
なぜ?
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