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由衣の父親は年に二回しか帰ってこない。外洋船の乗組員なのでいつもどこか遠くにいる。
父親の体には潮の臭いが染み付いていて、由衣は抱きしめられるたびに顔を顰めた。父親は姉のことも抱きしめたが、姉は何かを怖れるように縮まり、できるだけ父親から身を離そうとしていた。
父親は帰宅するたび二人に土産を買ってきた。筆入れだとかノートだとかが多かった。
それらは外国の洒落たものばかりだったが、どれも由衣と姉とおそろいだった。
由衣は姉が自分と同じものを持っていることに苛立ちを覚えた。
姉はもらった文房具を、さっとポケットに隠す。
由衣はそれらを興味なさげに、適当に放り出す。
父親がまた船に乗って遠くへ行ってしまうと、ずっと不機嫌だった母が、由衣の土産の品を指先でつまんでゴミ箱に捨てるのだった。
由衣は今日も動画サイトで千回に到達させるべき曲を探す。
手当たり次第どんなジャンルの曲でも、どんなにうるさいだけの曲でも、最初に見つけた曲を選ぶだけ。簡単な作業だ。
今回は日本人が作った曲を再生することに決めた。さっそく再生ボタンを押すと、軽快なサックスと、甘くハスキーな女声のジャズが流れた。
パソコンに耳が釘づけになる。
勝手に体が動き出しそうになった。二分二十秒で曲は終わる。
2回、3回と再生を繰り返し、モニタを見つめて耳をそばだてて聞く。
パソコンの前から立ち上がる気になれない。12回、13回と再生しても、ちっとも飽きない。
由衣は着替えも食事もせず、薄暗い部屋の中、明るいモニタにしがみつき、同じ曲を何度も再生し続けた。
「お母さんは?」
珍しく姉の声を聞き、由衣はびっくりして顔をあげた。
帰ってきたばかりらしく、くたびれたセーラー服姿で卒業証書が入った黒い筒を持っていた。
姉は中学校を卒業したのか。由衣は初めてそのことを知った。
「ママはキヨコおばさんの家」
「そう」
短く返事して部屋を出ていく姉は、なんだかいつもと様子が違った。
興味がわいて由衣はついていってみた。
物置の掃除機と布団乾燥機の間で姉は寝起きしている。ほんの少ししかない身の回りの品は、学校の体操着を入れるための紺色のバッグ一つにまとめてあった。
姉はバッグを抱えて玄関に向う。
「どこに行くの?」
由衣は生まれて初めて、自分から姉に話しかけた。振り返った姉は優しく微笑んだ。
姉の笑顔を見たのも生まれて初めてだった。なぜだか姉はいつもより大きく見えた。
「どこか、お母さんのいないところ。由衣も早く逃げ出せるといいね」
姉が出て行ってドアが閉まっても、由衣はその場を離れられなかった。逃げ出す? いったい何から?
答えは分からないが、由衣は真っ黒な何かに包まれているような恐怖を感じた。
めずらしく全工員そろっての朝礼が行われた。皆が不安を話し合っている。全体朝礼が行われる時に良いニュースはない。由衣は自分には関係ないとそっぽを向いた。
現場主任が大きな咳払いをして静寂を要求する。工場長が大声で話し出した。
「昨日、我が社が製造した部品を使用しているモーターが発火する事故が起こった。出火場所は我が社のN‐85型付近だ。詳しい調査はこれからなので、まだ原因は特定できていないが、二度とこういった事故が起きないよう、一人一人が気を引き締めるように」
同僚たちが話し合う声がひときわ大きくなった。誰の失敗だろうと口々に囁きあっている。由衣はあらぬ方を眺め、あくびを噛み殺していた。
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