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 「今日はお祝いだから、由衣ちゃんの大好きなステーキよ」  母親は満面の笑みで振り返る。 由衣が曖昧な微笑を返して靴を脱ごうとすると、母親は由衣の足元にしゃがみ、靴を脱がせる。 由衣の手から卒業証書を取り上げ下駄箱の上に置く。 由衣はあまり牛肉が好きではない。 母親は立ち上がると由衣の先導をして洗面所に向かう。 由衣のために蛇口をひねり、由衣のために石鹸を泡立て、由衣の手をキレイに洗う。 由衣は大学に行きたくなんかない。 由衣の部屋に一緒に入り、着替えるべき服を整える。きちんとアイロンのきいたシャツ、膝丈のプリーツスカート。 由衣は高校のジャージが一番好きだ。 母親が台所に行ってしまうと、由衣はベッドに倒れ込んだ。 最近はなぜかずっと、寝ても寝ても疲れが取れず、体が重いままだった。 「由衣ちゃん。ママ、スーパーに行ってくるわね。由衣ちゃんの好きな粒マスタードを買い忘れちゃったの」  ノックもなしに部屋に入ってきて、由衣の顔を覗き込みながら母親が言う。 由衣は粒マスタードなんか好きじゃない。 母親は由衣が疲れていることになんか気づかない。  母親が出かけてしまった家は広々として嘘みたいに静かだった。ベッドから身を起こすと、不思議と体が軽かった。 由衣は学校のジャージに着替え、脱いだ服をベッドの下に放り込んだ。 机の引き出しを開け、奥の方にしまいっぱなしにしていた、父親からもらったお年玉をポチ袋ごとポケットに押し込んで玄関に向かう。  靴を履き振り返ると、由衣と目があった。廊下に立って自分を見つめている。 あの日、姉を見送った時と同じ目で由衣が由衣を見ていた。ただ黒いだけで、何も映さない瞳。  ドアを開けて外に出た。 街は暗く、行くあてはどこにもなかった。
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