無我から１０００回のぼったところ

１

　けたたましい終業のブザーとともに作業員がロッカールームに押し寄せる。
女たちの止むことないお喋りに、由衣は背を向けた。帰りにどこに寄るか、次の飲み会はいつにするか。由衣には関係ない声たちを無表情で聞き流し、作業着から私服に着替える。
由衣の私服は作業着よりずっと地味で質素だ。誰とも目を合わせないように下を向いたまま、由衣は工場を後にした。

　帰宅すると、座卓に置いたパソコンまでまっすぐ歩き、いそいそと電源を入れる。
日暮れて薄暗い部屋の中、起動するまでの時間をそわそわと待ち、パソコンが起ちあがるとすぐに動画サイトにアクセスする。
昨日から聴き続けている曲には『５３８回再生』と表示がある。それを確かめて再生ボタンをクリックすると、ようやく人心地ついた。

　動画サイトを見ることが由衣のたった一つの楽しみだった。
食事をとっている時も、歯磨き中も、寝る直前まで、延々と同じ曲を繰り返す。
別に好きな曲でもないし、アーティストのファンでもない。けれど薄暗い家にいる時間のほとんどを、曲をくり返すために使っている。

再生回数はきっちり千回までしかあげないと決めていた。そうして次に再生すべき曲を探す。
長い曲はダメだ、数字を上げにくくなる。二分から三分の曲がいい。
ジャンルなどなんでもいい。ただ、再生回数が十回を超えていないものがいい。
ほとんど誰も聞いていない曲を千回も再生される曲に作り変えることに、由衣は深い満足を覚えるのだった。

　工場の単調な仕事は眠気との戦いだ。
ベルトコンベアで流れてくる機械の決まったところに、決まったネジを決まった回数だけ取り付けていると、次第に頭がぼんやりしてくる。

『無我の境地』と誰かが呼ぶのを聞いたことがある。
この仕事に就いた始めの頃は、無我の境地に陥ってネジを締め忘れることがしばしばあった。
ネジ一本締め忘れただけで機械が故障することもある。そのせいでクビにもなりかねない。注意されて由衣は緊張し、しばらくは集中することができた。

仕事に慣れれば無我の境地にはならないのだろうと思っていたが、違った。
慣れてくると、頭をまったく使わずに、何度でも繰り返し同じ作業ができるようになるだけだった。
由衣は仕事中いつも無我の境地にいる。寝ていても起きていても変わらない。ベルトコンベアに急かされるままネジを締めている。

由衣たち作業員は自分が作っている製品が稼働している姿を目にすることがない。
何か大きな機械の一部品だから、製品は他の部品と組み合わされるため、よその工場に運ばれていく。
由衣は時折、思う。自分が作っているものがミサイルや大砲の一部だったらいいのに。自分が作ったものが世界を壊してしまえばいいのに。
由衣は黙々とネジを締める。

由衣の七歳違いの姉は、いつもお腹を空かせていた。母親は由衣が食べる分だけ作り、姉には何も与えなかった。
姉は給食だけで生きていた。手足だけがひょろ長く、がりがりに痩せ、由衣よりも背が低かった。

「ほら、由衣ちゃん。あーんして」

　母親が由衣の口元に食物を運ぶ。
由衣はいつも、廊下からこちらを覗いている姉を見ながら、母親に食事させてもらっていた。
姉が中学を卒業して家出するまで、その習慣は続いた。