夕立 ー麻琴sideー

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 お盆を過ぎると夕方が少しづつ涼しくなってきた。私は相変わらず、仕事の行き帰りに山瀬生花店を覗いたり、郁人くんと約束した日に家にお邪魔したり、郁人くんがいない日は店のベンチに座って花言葉を教わったり、ポップを少し書かせてもらったりした。史悠さんは私が店に顔を出すと目尻を下げて、喜んで出迎えてくれた。でもそれは、息子の遊び友達という感覚だからだろうか、中々距離は縮まらなかった。顔の傷口の汗を拭ったあの一瞬の間から彼は私をやんわりと拒否しているような気がした。直接、何かを言われた訳でもなく、冷たくされた訳でもない。ただ、何となく線を引かれている、そんな気がする。  来週にはもう9月か。私は仕事終わりに、山瀬生花店に寄ろうと足を向かわせた。少し雨の匂いがしている。アスファルトから立ち昇る熱気が大気に上がり、雲が集まっていた。頭の上には積乱雲がもくもくと渦巻いている。東の空は灰色に染まり、雷が光っていた。早くしないと夕立に降られるーーーそう思った瞬間、大粒の雨が私の頭の上に落ちてきた。雫が天頂から耳の後ろを通って背中に入り込んだ。 「ぎゃっ」 雷が轟いて、一気に雨が降り出した。コップもバケツも鍋も、何ならドラム缶も何もかもひっくり返したような大粒の雨が無情に降り注ぎ始めた。  うわ〜最悪だ。ショルダーカバンの中には折り畳み傘は持ち合わせていない。近くにコンビニを探したが見つからず、雨避けになる建物すらない。もう橋元商店街のアーケードに走って行った方が早い。私は勢いをつけて、緑のアーケードを目指した。もうびしょ濡れだ。 「あ〜最悪。どうしよう」 雨でTシャツの下のブラが透けていた。こんな状態じゃ、どこへもいけない。体に張り付いたTシャツを体からはがず。生温い水滴がお腹と背中を流れていった。少し寒い。  アーケードの中を胸が見えないように腕を組んで歩く。 山瀬生花店の前で見慣れた背中が扉を開けようとしてる姿が見えた。私はその背中を見つけて、駆けよろうとしてハッとした。  史悠さんも私と同じくびしょ濡れだった。でも、ハッとしたのはその姿ではなく、彼の両腕が激しく震えており、鍵をまともに握れずに扉が開けれない状態で表情はパニックを起こしているようだった。 「史悠さん!」 私は大声で名前を呼んだ。彼は鍵を握った手を震わせたまま、私を視界に入れた。しかし、全く焦点は合わず、目はおぼろげだ。唇が震えている。視線が宙をさまよい出した。 「あ、あ、あ、あさひ?」 彼は絞り出すように名前を呼んだ。あさひ?誰の名前だろうか。 「史悠さん、貸してください」 私は彼から家の鍵を奪って、鍵を開けた。 「これで、大丈――――」 店に入った瞬間、近づきたくて堪らなかった、陽に焼けた腕が私を強く抱きしめた。  え、なにが起きたの?思考は停止した。 「あ、あの、史悠さん?」 私は彼の腕に抱き込められたまま、声を発したが彼は返事をせず、腕の力も緩めなかった。 「あ、逢いたかった」 聞いた事のない低い甘い声を出して、彼は涙を零し始めた。ど、どうしようか。そう思っていると、抱きしめられた腕は緩められた。素早く腕を引かれた。小上がりの畳を靴を履いたままの状態で登って、部屋の奥へと連れて行かれた。  畳に布団が並んでいた。彼はおぼろげな瞳で私を抱きしめて、大きな布団に私を押し倒した。 「あ、あの!史悠さん!雨でびしょびしょで!あの、私は麻琴です」 私は彼に組み敷かれた状態で声をあげた。彼は激しく震えた状態で私の上に覆いかぶさって泣いていた。 「あ、雨が、止まない。あ、亜沙妃、逢いたかった。愛してる」 私を見ていない。というか、見えていない?  彼は優しく私を抱きしめた。耳元に口を寄せる。 「愛してるよ」 とんでもなく甘く優しく声が鼓膜を通して脳天に届いた。この状態はいけない。抵抗できなくなる。私は彼の胸を両手で押した。全然ビクともしない。 「愛してる。逢いたかった」 彼はそう言って私の耳の裏に唇を寄せた。キスをして、だんだん唇は口に近付いてくる。左の手が顔の前に現れて、私の唇の輪郭をなぞった。宝物のように優しく、ゆっくりと触れる。視界に左手の傷が見えた。  彼はゆっくりと私の唇に口を落とした。右手が私と頭の布団の間に入り込む。2人とも雨でびしょ濡れで、私は寒いはずの体温がどんどんと上がっていくのを感じていた。 「―――、ッン、史悠さん、ダメッ」 口が離れた瞬間になんとか声を出すが、彼は舌を私の口の中に入れて強く吸った。舌を引き抜かれるかと思うぐらいの強さで、舌がジーンとしている。左手で私の頬を撫でる。優しい指先。強引なのに、なされるがままになりそうになる。でも、この状況はダメだ。 「史悠さん!」 私はもう一度声をあげて、彼を見た。彼は奥二重の瞳の奥を激しく揺らして、涙を浮かべながら私を抱きしめた。 「っあ、逢いたかった、さ、寂しかった」 私まで涙が溢れそうになった。あさひ、って奥さんの名前なんだろうな。そんなに愛してたんだ。我を忘れるほどに。涙を流して、愛してるを繰り返しても足りないほど。 「大丈夫です、怖くないですよ」 私は彼を抱きしめた。この人はきっと私が想像できないくらいの寂しさを抱えている。そして、それを1人でずっと抱えてきたのだろうな。 「亜沙妃、愛してるよ」 彼は私にそう甘く囁いて、服を脱がせながら、全身に唇を落とされた。心臓移植の手術の跡が気になったけれど、彼はそれを気にも留めていなかった。心臓の傷の上にも当たり前のようにキスをした。史悠さんに佐原麻琴として認識されていないとしても、このキスを受けた瞬間は飛び上がるぐらい嬉しかった。 彼も裸になって、体を重ねた。強引だったけれど、決して力任せではなくゆっくりと時間をかけて彼は私の体に触れた。彼の小さい吐息が口からこぼれて、汗と雨と涙の雫が私の体に落ちた。左の瞼から頬にかけての傷を間近で確認する。深い、ケロイドになっている。よくこの傷で左の目を失明しなかったものだと思った。  彼はくしゃくしゃに号泣しながら果てるまで、私を抱き続けた。 「亜沙妃、体、大丈、夫か?亜沙妃、愛してるよ」 彼には全く私の姿は見えていない。奥さんと思い込んでいる。重ねた体はひどく熱いのに、心は握りつぶされるように痛かった。でも、私はそれを受け入れた。  吐き出して、激しく取りみだせばいい。全部、さらけだして。私を抱く史悠さんは、違う人かと思うくらい激しくて優しかった。あさひさんの名前を切なそうに何度も、何度も、何度も、呼んで、甘く優しく囁いて、存在を確認するかのように私に触れていた。私の名前じゃなく、彼の口からあさひさんの名前が出る度に、心臓を握りつぶされそうな激しい切なさが襲った。けれど、もしかしたら今が1番、出会ってから彼の本当の姿に近いのかもしれない。そう思うと、この切なささえ愛しく感じてしまう私は、救いようがないだろうか。
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