1951人が本棚に入れています
本棚に追加
/129ページ
「あの、私、看護師なんで、自分でできます」
なんだか、的外れな返事をしてしまった。その言葉に郁人くんが素早く反応する。
「え、かんごしさんなの?すごーい。びょういんで、せんせい、おねがいします!ってはたらいてるの?」
郁人くんが目を輝かせて私の肩を持った。座っているから立った郁人くんと視線がぶつかる。
「郁人くんが何を想像しているかは分かんないけど、病院では働いてるよ」
私がそう言うと、郁人くんは、すごいっすごいっ、と踊り出してしまった。その様子が可愛くて思わず笑ってしまった。
「こらっ、郁人、踊らない。もうご飯食べないと、明日も学校だろっ」
山瀬さんはそう言って立ち上がった。キッチンに向かったようだった。郁人くんは、はぁい、と言い踊るのをやめて山瀬さんに続いてキッチンに行った。
「おれ、おとーさんのてつだいするんだ。すごい?」
「すごい、すごい、ベリーグッド!」
私は郁人くんに向かってグーサインを送った。私が小学生の頃好きだった病院の先生のお得意のポーズ。
「まこっちゃん、えいごヘタだね」
郁人くんには笑われてしまった。
私はガーゼと一緒に持って来てくれた絆創膏を自分で貼って、横に置かれたショルダーバックを持った。立ち上がって、キッチンに声をかける。
「消毒液、ガーゼと絆創膏、ありがとうございました」
キッチンから、はぁい、と山瀬さんの返事が聞こえた。
「ちょっと、待ってください」
山瀬さんはお皿に野菜炒めを乗せて食卓に運んだ。すかさず郁人くんが食卓について箸を持った。
「傘、さっきアーケードの入り口に置きっ放しだったから」
山瀬さんは続けてそう言った。私と一緒に傘を取りに行くつもりなのだろうか、小上がりの畳から降りて店に向かった。
「あ、大丈夫です、自分で取りに行きます」
私はすかさず声をあげた。
「いや、きっと傘、びしょ濡れになってるかも。タオルも一緒に持って行ってください」
彼は店のショーケースの前に置いた白いタオルとビニール傘を差し出した。
「そこまで迷惑はかけられません。本当に大丈夫ですから」
私はそう言って、急いでお辞儀をして店を出た。チェック柄の折り畳み傘がアーケードの外で転がっていた。雨は粒の大きさを増しており、無情に傘に降り注いでいた。傘はひっくり返って水を溜め込んでいる。
「あーあ、お気に入りだったのに」
私がそう呟くと、後ろから静かな低い声がした。
「ほら、濡れてるじゃないですか」
山瀬さんはそう言った。手にはビニール傘とタオルを持っていた。
「すみません、やっぱり借りますね」
私は手を彼に差し出した。彼は雨に自分が濡れないようにゆっくりと傘とタオルを差し出していた。手が少し震えている。アーケードに当たる雨音が一層強くなった。
「雨、苦手なんですか?」
さっき私がここで転けた時に差し出された、白いハンカチが震えていたことを思い出した。私の質問に陽に焼けた腕がこわばった。
「あ、そうですね。あまり、好き、ではない、です」
とても言いにくそうに、苦虫をすりつぶしたような表情を浮かべた。瞳は不安そうに揺れている。あ、これは深く聞いたらダメだな、直感的にそう思った。山瀬さん全体から拒絶の空気が漂う。イケメンの困った顔はあまり見たくない。
私は傘とタオルを受け取った。傘を広げて、チェックの傘に向かう。傘に溜まった水を捨てて、アーケードの中に戻った。自分の傘の柄をタオルで拭いて、傘についた水を払った。一旦、自分の傘を置いて、借りたビニール傘の水を払った。傘を閉じる。
「山瀬さん、ありがとうございました」
少し気まずそうにしている山瀬さんに声をかけた。彼はさっと表情を持ち直して、いえいえ、と答え、私からビニール傘を受け取った。
「私、ここから15分ぐらいの橋元記念病院に勤めてるんです。このタオルとさっきのハンカチは洗って返しますね」
私の言葉を聞くと山瀬さんは瞳を先ほどよりさらに不安そうに揺らした。私はその表情に心臓が高鳴った。でも、彼から返事がない。
「えっと、なんか変なこと言いました?タオルすぐ返した方がいいですか?」
山瀬さんは私の言葉にハッとした。
「あ、すみません。タオルはいつでも大丈夫です。なんなら返さなくてもいいです。気をつけて帰ってくださいね」
彼は一気にそう言って、踵を返して素早く店に戻って行ってしまった。店から山瀬さんの代わりに郁人くんが顔を出した。
「まこっちゃん、また来てね!けがおだいじに〜」
私は郁人くんに手を振って、家に向かった。
最初のコメントを投稿しよう!