1人が本棚に入れています
本棚に追加
彼と別れの白昼夢
いつの間にか周囲は薄暗くなり、静かなのにざわめく人々と、むっと籠った空気の中にいた。耳に一定の音程で聞き慣れない声が聞こえ始める。鼻腔を撫でる甘ったるいような臭いに、覚醒しない意識がぼんやりとしていた。
「次の方、どうぞ」
控えめな声で横から言われてそちらを見遣る。かっちりとした正装の女性が、表情のない顔で指し示す先を見て、ふとここがどこなのかを理解した。すっと、座っていた椅子から立ち上がる。着慣れない黒い礼装はほとんど新品同様で、多少の動きにくさを感じた。
こつこつと音を立てて、並んだ椅子と椅子の間を人の波に乗って歩く。そこだけ煌々と照らされた花々の方に視線を向けた。
ああ、そうか。
白い花々が覆うのは、いつも通り微笑んだ彼の姿。僅かの間、立ち止まった。
「バイクの事故だったらしいわ」
「可哀想な話ね……」
周囲から聞こえてくるぼそぼそとした会話。それによって浮かんでくる、先程の、彼の困ったような微笑み。今思えば、あれは困っていた、というよりも。
申し訳なさそうな、そんな表情だった。
こつこつと更に足を進め、他の人に倣って、形式ばった儀式の後に手を合わせる。ゆっくりと顔を上げれば、いつもの明るい笑みの彼と目が合った。
それはとても、不思議な感覚。いつも通りの彼がそこにいるというのに、何故、そんなに平たいのだろう。
前を行く人を追うように足を進める。花々の間にいる彼の前には、柔らかな表情で目を閉じて、横たわる彼がいた。四角い枠の向こうで、優しい笑みを浮かべた、いつも通りの彼が。
途端、周囲の声が遠くなった気がした。意味の分からない空間に投げ出されたような、現実味のない、奇妙な感覚。横たわる彼と二人だけで、そこにいるような、そんな感覚にぼんやりと捕らわれて。
「――――、元気でな」
「…………っ!」
ぽつりと、先程と同じように耳のすぐ傍で囁かれた言葉。優しい声音。
はっと、声を追うように振り返った先には、いつも通りの笑みを浮かべた、いつも通りの彼の姿。
ああ、と思った。彼は、きっと、このために。この言葉を、告げるために。
現実味のなかった事実が、一気に押し寄せて来る。むせかえる線香の香りも、耳に繰り返し響き渡るお経も、人々の啜り泣きも。
熱くなった目の奥から溢れた、生温い雫も。
「……ばいばい」
いつも通り微笑んだ彼に、そう小さく呟いた。応える声が、あるはずもないけれど。
あんなに綺麗な場所にいたというのに、心配して、声をかけてくれたのだろうから。
「きっともう、大丈夫だよ」
これから先、君がいなくても、きっと。
「……ありがとう」
嗚咽と共に呟いて、ゆっくりと振り返った。彼のいない明日に向けて、一人、足を踏み出すために。
最初のコメントを投稿しよう!