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「あ、づ……」
声をかけると、朝妻くんはゆっくり私を振り向いた。そしてまた向き直って、封筒を弾くように、割れ目の奥に深く差し入れる。
「朝妻くん!?」
私は思わず、その割れ目に駆け寄った。レンガの間の隙間は一センチほどしかなく、奥は深く暗くて、見えない。とても手紙を取り出せそうになかった。
いや、何らかの手を尽くせば、絶対に不可能というわけではなかったと思う。けれど朝妻くんの目に浮かんだ険しさが、私の足をすくませた。
「どうして……? チカが、朝妻くんに向けて、せっかく……」
「いいんだ」
「朝妻くん」
「柊木、僕は」
私は慌ててトートバッグの底をあさり、一通の手紙を取り出した。淡いブルーの封筒で、きれいな色ではあるけれど、細かいしわやたるみがついている。
私が書いた手紙だった。もう何ヶ月も前に封をして、宛名を書かずに、ずっと持ち歩いていた。渡す機会もないままに。いや、本当に渡す気なんて、あったのかどうか。こんなことでもなければ。
「朝妻くん。これ、……私から、朝妻くんへの手紙」
「手紙?」
「私の気持ちを書いたの。でも私は、朝妻くんに告白なんてしない」
「……宗田とは? どうするの?」
「別れる。でもそれは、朝妻くんとは関係ない」
「僕は、柊木に宗田と別れて欲しいわけじゃない」
「そんなこと」
「……僕がチカの手紙にこんな真似をしたのは、柊木が好きだからだ」
「私は、……私のために、チカにそんな仕打ちをする朝妻くんは、嫌い」
私は彼に近づいた。気圧されるでもなく、後ずさりもしない彼のすぐ目の前に立ち、そして――私の手紙も、レンガの割れ目の中に放り入れた。
思っていたよりも遠く、低い場所で、コトリと手紙が着地した音が聞こえる。
「僕は初めて会った時から、柊木が特別だった。僕と同じだと思ったから」
「そうだよ。だから、分かるでしょう。私は、私のことを好きな朝妻くんなんて嫌いだし、朝妻くんを好きな私が嫌い」
沈黙が訪れた。
すぐ傍にある大きな窓の外で、鳥の羽ばたく音と、泣き声が響く。
部屋の中の、耳が押しつぶされそうな静寂。
間近で向かい合った瞳と瞳の間で、私たちの先鋭化した感性が、一生分の会話を交わした。それができた。私と彼は、やっぱり同じだった。
私の唇に、朝妻くんの唇が重なった。
彼の顔が離れた時、溢れるような後悔と寂寥感が押し寄せた。
「……チカと別れないで」
「人のことばかり考えている」
「朝妻くんみたいでしょう」
彼は、少し笑ったのかもしれない。緩やかに背中を向けると、チカが進んだのと同じ通路に消えていった。
分厚く、冷たく、硬いレンガに囲まれた部屋には、もう誰も来ない。
これが私が、朝妻くんと交わした最後の言葉だった。
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