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夜だった。
隅田川のほとりに、〔なまずがし〕という船宿がある。ここの前に停留している屋根船に、鍵谷と傳右衛門、そして浪人が一人乗っている。この浪人が、鍵谷を脅かした殺気の主である。歳は鍵谷より少し上だろうか。低くて細い鼻筋に、糸のような目。まるで、強烈な殺気を放つ男とは思えない。
日が落ちてしまうと、この時期は船を使う者は少なく、辺りは静まりかえっていた。
足音。微かに、聞こえた。
それに呼ばれたかのように、浪人は立ち上がり、船を降りていった。
月のない、淀んだ夜だ。ほのかな星明かりの下で、足音の主らしき人影が、黒い人形のようにして鍵谷の目に映った。
「あれは?」
「矢蔵ですよ」
傳右衛門が、こともなげにいった。この老爺が望んだ仕事とは、ある身内の不始末を罰するということだった。それから傳右衛門と浪人が、素早くこの状況を作り上げたのだ。
「矢蔵だと?」
「申し訳ありませんが、鍵谷様のお名前をお借りして、奴を呼び出しました。あれは、元は私の身内でした。鍵谷様の目明かしとなってからも、ね。しかしあいつは、十手を見せつけて町娘に乱暴したんですよ。かわいそうに娘さん、気を病んでしまいましてねえ。堅気の人に迷惑をかけた矢蔵は、我々の手でけじめをつけさせなければなりません」
「まさか……」
断じてない、とは言えなかった。矢蔵はよく働いてもくれるが、その反面、素行の悪さから町人たちの覚えが悪い。
「鍵谷様。矢蔵が私の存在をあなたに話したのは、いつ頃でしょう?」
「お前の名前を聞かされたのは、昨日だ」
「矢蔵が娘さんに乱暴してから、三日と経っていませんね。きっと、制裁を恐れて、鍵谷様に私を捕らえさせようとしたのでしょう」
「そんな考えを」
「外道の考えることは、こんなものです」
利用されていたことに、憤りは覚えなかった。使い方次第だと思っていた目明かしに、逆に利用されていたということが情けなく、ただ恥ずかしい。
浪人の影が、矢蔵であるらしい影と重なった。慌てたように、矢蔵らしき影が飛び跳ねた。
その影に流れ星が煌めくように、一条の光芒が走った。
短い悲鳴。影が、地面に倒れた。
浪人が刀を抜いたのだろう。その刃が、星明かりを反射したのだ。
「矢蔵……」
呟く。自分の呼吸が、やけに浅くなっていることに気づいた。
「鍵谷様」
呼ばれて、視線を傳右衛門に戻す。揺れる行灯の光に照らされながら、冷たい微笑みを浮かべている。
「私は別に、自分を正当化する気はございません。直接、間接と問わず、かなりの人を殺してきました。しかし、そうすることでしか、救えなかった命もございました。そうすることでしか、罰することができない外道もいました。
傲慢と罵られても、構いません。ただ私は、こんな手段しか通用しない、複雑な世界を生きているのです。無論、捕まれば獄門になることも覚悟の上です。鍵谷様がそのおつもりなら、このまま縄をうっていただいて構いません」
傳右衛門が鍵谷の側に寄り、項垂れながら両手を差し出した。
「どうぞ。全ては鍵谷様のお心のままです。ご心配なさらずとも、私の身内が復讐することは誓ってございません」
腹の底にずっしりとしたものがある、そんな声だった。
鍵谷は懐から、用意しておいた縄を出したが、それを持て余したようにじっと見つめた。
「傳右衛門。あまりにも、お互いの住む世界が違いすぎる。俺には、お前を捕まえる資格はないような気さえするよ」
どこか気の抜けたようなため息をつき、鍵谷は諦念に染まった顔のまま船を降りた。縄を、川に投げ捨てる。
矢蔵の遺体の側に立ちながら様子を窺っていたらしい浪人に、顔が分かる距離まで近づいた。
「手ぶらで帰るのか?」
尋ねられて、ただ鍵谷は唇を歪めた。
息絶えた矢蔵の遺体を見下ろし、また浪人を見る。表情というものが、あまりない男だ。
鍵谷の脳裏に、浪人が放った光芒が浮かぶ。
「あまりにも、いろんなものが絡まりすぎてる。嫌になったよ」
「それが、世の中ってやつなのだろうよ」
低い声が、川の流れる音に隠れるようにして響く。
「お前の一振りだけが、俺には唯一、確かなものに思えたよ」
夜空を見上げた。星が、囁くように光っている。
十手を放り捨てたい気持ちを抑えながら、鍵谷はゆっくりと歩き始めた。
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