光芒

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 ふすまを閉め切った座敷で、鍵谷は矢蔵に酒を振る舞った。  もう、十日ほどになるだろうか。  江戸に暗躍する悪党どもを束ねる顔役が存在するという噂を聞いた鍵谷は、その調査に矢蔵を使っていた。自身でも捜査はしていたが、なにぶん日々の業務が多岐にわたるため、人を使わなければ手が回らない、といった状況だった。  江戸には無頼の者が跋扈しており、彼らの中には金さえもらえれば殺人すらも請け負うといった輩が珍しくない。そんな連中をまとめるのが、顔役である。  矢蔵は酒で喉を潤すと、声を一段低くしていった。 「旦那は、日本橋の〔清養堂〕という薬種問屋をご存じで?」 「名前は、聞いたことが」 「そこの主人が、傳右衛門って老爺なんですがね。どうやらそいつが、日本橋から浅草あたりまで一帯の裏社会を仕切ってるって話でさあ」 「商人が、か?」  矢蔵の猪口へ、酒を注ぎながら聞く。 「この爺さん、表の顔と裏の顔を見事に使い分けてまさあ。店の番頭も、裏の顔は知らねえみたいで」  瞬間、矢蔵の皺が深くなり、顔に闇のような線ができた。 「お前、何人か脅したな?」 「ただ聞くだけで分かるようなことなら、なにも俺の手を借りることはございますまい」  なんともなく微笑む矢蔵の細い眼には、どこか邪悪なものが灯っていた。  目明かしというのは、こんなものだ。もとは犯罪者であり、赦免や減刑と引き替えに、自分の昔の〔つながり〕というやつを売る。それからは狗となって役人の手足となる。人格など、求める方が間違っているのだ。  手段よりも目的を重視する。それが、鍵谷の方針であり、江戸の治安を維持する町奉行所同心たちの大半の考えでもあった。 「あまり、目立った真似はするなよ」 「へえ」  店の女中の声がした。ふすまが開き、蕎麦を載せた膳が運ばれる。  助かった、と鍵谷は内心思った。蕎麦に向き合っている間は、矢蔵の顔を見なくてすむ。  翌日。鍵谷の足は王子稲荷の参道手前にある、百姓が住んでいるような家を訪れていた。家の前には畑、裏手には木立が広がっている。矢蔵曰く、ここは〔清養堂〕が持っている土地で、薬の材料となる植物を栽培しているそうだ。日本橋の店自体は大番頭にほとんど任せっきりで、主人の傳右衛門はここで薬草などの栽培や研究に熱中しているという話である。  家の方は留守だったので、裏手の木立の中を歩いてみる。広葉樹が落とした葉が、雪に濡れて腐りつつある。  少しして、木の皮を慎重な手つきで剥ぐ、小柄な老爺を見つけた。  鍵谷が声をかける前に、彼の存在に老爺は気づいたようで、柔和な視線をちろりと向けてきた。 「これは、お役人様」 「無断で入り込んで、すまないな。家の方が、留守だったもので」 「どうぞ、拙宅の方へ。茶でも差し上げましょう」  けっして良くはない足場を、老爺は跳ねるようにして近づいてきた。か細い声なのに、よく通って聞こえる。 「何も、聞かないのか?」 「鍵谷様でございましょう。矢蔵が世話になっている」 「知っているのか?」 「ふふ。まあ、詳しい話は家で」  口もとだけで笑って、老爺は鍵谷に背を向け、家の方に歩き出した。悪党の顔役と聞いて、ただ者ではないとは思っていたが、ここまでとは想像していなかった鍵谷である。  圧倒されるような思いで、老爺の後をそっと付いていった。
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