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簡素な家の中で、向かい合って座る。
「お前が、〔清養堂〕の主人、傳右衛門で間違いないな?」
「左様で……」
老爺、傳右衛門は柔らかな笑みを貼り付けたような顔のまま、茶を啜った。鍵谷にも茶を淹れてくれたが、毒を警戒して口を付けない。
「どうして、俺のことを知っている?矢蔵のことも」
「店の者が悪い目明かしに脅されるのを、私の身内が見ていまして。それから後をつけたところ、鍵谷様まで行き着いた、と。今日、鍵谷様がこちらの方に向かわれるのを見て、先回りして私に伝えてくれました」
「俺は、つけられていたのか」
相手が相手だから、尾行には気を払っているつもりだった。
「その道には長けたお人でして」
そういうと、傳右衛門は手を叩いた。瞬間、家の壁の向こうから、痛いほどの殺気が飛んできた。
思わず、刀の柄に手をやる。
もう一度、傳右衛門が手を叩くと殺気は消えた。
傳右衛門の方を見る。相変わらず、妙に優しげな微笑みを浮かべている。
「俺を、殺すか?」
「まさか。鍵谷様がお一人で来られたということは、私どもに討たれた場合の段取りも、整えてのことなのでしょう?でなければ、もっと大勢の捕り方をお連れのはずですから」
「……」
図星だった。鍵谷はあらかじめ、自分が死んだらその罪で傳右衛門を告発するよう、矢蔵に指示を出していた。
「鍵谷様。私はこれまで、多くの修羅場をくぐって生き延びて参りました。お侍の方々と違い、私の世界には法というものが通用しません。その中で仁義やら掟やらで身内をまとめ、どうにか生き抜いたのです。人の心を読むことにおいては、たとえお役人様相手でも負けることはないと思っています」
「確かに、そのようだ……」
自分などが策を弄しても、無意味なのだろう。
まるで子どものような体躯の老人を前に、鍵谷はただ冷や汗を浮かべるだけである。
「しかし俺も、罪人を前にして、何もせずに逃げるわけにはいかない」
「ほう、どうされます」
鍵谷の喉仏が大きく上下した。
「差し違えてでも、お前を殺そう」
壁越しの殺気が、また身体を貫いてきた。歯を食いしばって、姿勢を保つ。
刀を抜けば、屋外に控える傳右衛門の手下が入ってくる前に、この老爺を斬ることができる。鍵谷の眼は怯懦に揺れながらも、なんとか傳右衛門の挙止を捉えている。動けば、その瞬間に刃を抜くつもりである。
鍵谷の態度を見た傳右衛門は、くっくと小さな笑いを漏らした。
「そこまでの覚悟でございますか。よろしい。お縄につきましょう」
「なんだと?」
まさかの言葉だった。
「ただし、一つだけ片付けたい仕事がございます。それを済ませたら、鍵谷様に従い、どのような罪も受け入れます」
真っ直ぐな、悪党と呼ぶには純真すぎる眼差し。
気づけば、殺気は消えていた。
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