バタフライ・エフェクト

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 大阪の西成には、高級料亭の立ち並ぶ一角がある。麗しい若い女性と、妙齢の女性が店の入り口に座り、客の勧誘をしているのだ。  佐野ヒロユキは、そんな通りからは少し離れたマンションで、一人暮らしをしている。彼は事務所に所属せず活動している、ピンのお笑い芸人だ。女遊びには興味がなく、料亭に行ったことは一度もない。  そんな性格だから、先輩芸人から女遊びを進められた時や、近所を散歩している時に「お兄さん、寄ってかない」と客引きされた時でも、いかがわしいお店には立ち寄らなかった。そんな彼が、この地域に住む理由は、ただただ家賃が安いことだ。芸人としての収入がほぼない彼にとっては、それが一番大事だったのだ、  ただし、佐野は女嫌いというわけではない。彼には意中の女性がいた。  その女性とはじめて出会ったのは、とある大学の学園祭だった。その日行われる大喜利イベントにゲストとして呼ばれていた佐野は、キャンパス内で迷子になっていた。  そんな時、「あの……何かお探しですか?」と、ある女性に話しかけられた。バンドのTシャツに短パンの、ラフな格好の女性だった。大学生だろうが、童顔で高校生に見えた。 「私、お笑いイベントに出る予定の芸人なのですが、道に迷って立ち往生していたんですよね」 「え、芸人さんなんですね。よければご案内しましょうか」 「あ、ありがとうございます。助かります」  そうして佐野は彼女に連れられ、イベント会場に到着した。 「本当にありがとうございました。大幅に遅刻してしまうところでした」  佐野が感謝の言葉を伝えた。その時彼は、女性の周りからほんのりと甘い香りが漂っていることに気がついた。 「あれ、金木犀の香りがする」  佐野がぼそっとつぶやくと、その女性が照れ臭そうに口を開いた。 「え、鼻いいんですね。金木犀が好きなので、香水をつけてるんですよ」 「お、金木犀が好きなんだ。奇遇ですね、僕もなんですよ。主催のお笑いライブを金木犀って名前にしているぐらいなんです……あ、そうだ。よければ今度見にきてくれませんか。私、ツナマヨ佐野という芸名で活動しています」  佐野が少々強引にライブの宣伝をすると、彼女は少し興味を持った様子だった。 「ツナマヨ佐野さん……私は中山詩織といいます。生でお笑いを見たことがないので、一度行ってみたいと思ってたんですよね。都合がつけば行ってみます」 「やった! 約束ですよ!」   そうして約束を交わし、その日、二人は別れた。 「集合時間に送れてしまったな。10分ぐらい過去に戻らないと」  立ち去る女性の後ろ姿を見ながら、佐野がぼそっと呟いた。  そうして佐野は人目につかない場所に隠れ、「What Timer」というスマートフォンのアプリを立ち上げた。目的の日時を入力し、設定ボタンを押すと、陽の光がまたたきはじめた。時間が経つに連れて、点滅の速度がどんどん早くなり、周囲の景色もぼやけて見えづらくなった。  そして点滅の速度が最大限に達すると光のまたたきが止まり、周りの景色が見渡せるようになった。 「どうやら無事過去に戻れたようだな」  佐野がほっとした様子でつぶやいた。そうして彼はスマートフォンを立ち上げて、現在時刻を確認した。  佐野はタイムトラベラーだったのだ。  佐野はスマホのアプリ作成が趣味だ。時計のアプリを作っている最中、偶然にもタイムマシンができてしまった。その原理は中学生でも理解できるぐらいの簡単なもので、まさにコロンブスの卵的な発想だった。  使い方は簡単だ。「What timer」というアプリを立ち上げて日時を入力し、設定ボタンを押すのだ。そうすると周囲の光が急速に点滅しはじめ、それが止まればタイムスリップが完了する。  こうして無事に大喜利イベントの集合5分前にタイムスリップした彼は、待ち合わせ場所の会議室へと向かった。 「遅いですよ〜佐野さん」  中に入ると、若い男性が佐野に文句を言ってきた。その者の名前は山崎健太。フリーで活動し、大喜利大会を主催するピン芸人だった。 「ごめんごめん、でも間に合ってよかったわ」  そうして佐野はうまく場に溶け込み、その日は何事も無かったように大喜利ライブに参加したのだった。  そうして大喜利ライブから数日経過したある日のこと。この日の佐野は、同期の芸人主催のライブにゲスト出演していた。客の中には中山詩織もいた。大学で知り合って以降、定期的にライブに来るようになっていたのだ。  自然と佐野は、彼女を意識するようになっっていた。  しかし、彼女は自分以外の芸人が目当てのようだった。佐野の芸風は地下に特化しすぎており、若い女性にうける内容ではないのだ。  そもそも彼は、芸能生活をはじめて以降、一般受けするようなネタを書いたことがない。書くこともできない  どうすれば彼女の気を引くことができるだろうか、と、日々そんなことばかり考えていた。その中でふと、彼にある考えが浮かんだ。タイムマシンで未来の芸人のネタをパクッて、現代で披露すればよいのではないか、そう考えたのだ。  道理には反していたが、自身が全く売れない地下芸人であること、売れ線のネタを書く才能がないこと、そしてパクリがバレるリスクがないことで、この発想に至った。  そうして彼はWhat Timerを起動させ、未来へとタイムスリップした。   その日は、ピン芸人のナンバーワンを決める大会、R-1グランプリの決勝戦があった。佐野は決勝進出者のネタをパクるためにこの日に来た。  彼の目当ては、アーメン井上という芸人だった。黒髪で眼鏡をかけた、いたって普通の風貌だ。トークは平均的だが、フリップネタが格段にうまい。ダンスや歌のネタは容易にパクれないが、フリップネタはまねしやすい。ネタをパクるために、これほどうってつけの芸人はいないのだ。  この日のアーメンは、CMに逐一突っ込むフリップネタをしていた、 「なんでわたしが東大に」「こんな僕でも彼女ができた」など、突っ込みどころ満載なフレーズを、彼独自の視点でこきおろしていた。  佐野はそのネタを一言一句逃さずメモし続けた。そうしてR-1の決勝を見届けたのち、彼はふたたび現代に戻った。  その日の佐野は、主催のライブに出演するため、ライブ会場へと向かっていた。そこでアーメン井上のネタを披露する予定だった。 「佐野さん、今日はなんのネタをやるんですか」  佐野が楽屋でネタの練習をしている最中、後輩の森橋茎が話しかけてきた。ピン芸人同士仲がいいため、よく共演の機会があった。 「今日はこれまでと趣向のかえたネタを用意してきたで。楽しみにしてや」  佐野が自信ありげに言った。森橋に人のネタをパクったことがばれないよう、保険をかけるためだった。  森橋はお笑いファン上がりの芸人である。どんな芸人よりもお笑いを愛しており、あらゆるネタをチェックしている。そのため、人のネタをパクったら、最もバレやすい相手なのだ。  だからこそ、彼の前でネタを試す価値があった。  そうしてライブでパクりネタを披露した佐野は、狙い通りバカウケした。森橋にも絶賛され、佐野が誰かのネタをパクったなどとは、全く考えていないようだった。そうして彼は、今度中山詩織が来ているライブで披露してみよう、と、心に决めたのだった。  そして、その日のライブ終わり。  軽やかな足取りで自宅へ向かっていた佐野は、道中妙に見覚えのある中年男性に話しかられた。見た目50代ぐらいで、頭髪が若干薄い。この年代の知り合いなんて、バイト先の先輩ぐらいしかいないはずなのだが、なぜかこの男性には見覚えがあった。 「タイムスリップなんてやめておけ。お前にも、詩織にも、なんにも言いことはないぞ」  中年男性が深刻な表情で話しかけてきた。唐突にそんなことを言われた佐野は、困惑の表情を浮かべた。手からはじんわりと汗がにじみでた。傍から見ても動揺を隠せないぐらいうろたえてしまったが、その場は男性の言葉を無視して立ち去った。 「ただの変質者かもしれないし、あまり気にしないようにしよう」  佐野がぼそっと呟いた。彼の住んでいる地域は違法薬物が蔓延している。今回は薬物中毒者の妄言がたまたま当たっただけかもしれない。そうだったらいいのにな、と、自分に言い聞かせた。  内心そんなことはない、と分かってはいたのだが、その日はライブで疲れていたこともあり、あまり深く考えずそのまま寝た。  それはある日の夕方のこと。この日は同期の漫才師、高平ーズとのツーマンライブがあった。高平ーズはツッコミの重盛平和と、ボケの高本祐介との二人組みだ。この日の会場には、中山詩織も見に来ていた。そのため佐野は、パクったネタを披露しようと決めたのだ。  そうしてライブのはじまる前、楽屋で重盛と女性の話になった。 「ねえ重盛さん、前の方で緑のワンピースを着ていた子がいたじゃないですか。僕、あの子のことが気になってるんですよねー」  佐野が重盛に話しかけると、重盛が怪訝な表情で口を開いた。 「え、あの子気になってんの。高本の女やで」 「は……本当ですか?」 「そうそう。この前のイベント後に話をしたことがきっかけで仲良くなって、付き合うことになったらしいで」 「え……なんのライブですか?」  佐野の質問を受けて、重盛は少々考えこんだ様子だったが、やがて思い出したように口を開いた。 「そうや。確か佐野さんが主催してたライブやで。佐野さん、新ネタの評判ええやん? あの子もその噂を聞きつけて、最初は佐野さん目当てでライブにきてんけど、ライブ終わりに高本と仲良くなって、付き合うことになったらしいで」 「なるほど、そんなことが……ありがとうございます。」  重盛の言葉を聞き、佐野は内心ずっと上の空になった。そんな状態ではライブに身が入るわけもなく、その日は全くウケなかった。そして終演後は打ち上げにも参加せず、そのまま帰宅した。  高平ーズとのライブ終わり、佐野は暗い夜道をとぼとぼと歩いていた。そんな時、後方から佐野を呼びかける声が聞こえた。振り返ると、以前彼に話しかけてきた中年男性が、電柱のそばに立っていた。 「どうだ。やはりタイムスリップなんてするもんじゃなかっただろう」  男性が得意気に佐野に問いかけてきた。その言葉を聞いた佐野は、ようやく得心がいった。男性が何者であるか理解したのだ。 「まさか……あんたは、未来の俺か?」  佐野の質問に対し、中年男性はこっくりと頷いた。 「そう、俺の名前は佐野ヒロユキ。未来のお前だ。こんな事態を防ぐために未来から来たのだが、どうやら手遅れだったようだな。お前のために、今後の展開について説明してやろう。お前は中山詩織の気を引くために、どんどんタイムスリップを繰り返していく。しかし、一切成功しない。お前が時を越えれば越えるほど、彼女は多数の芸人と付き合うようになる。理屈は分からんが、どうやら時間を改変したことが影響して、彼女から貞操観念が失われてしまうようなんだ。これも一種のバタフライ・エフェクトってやつだろう」 「そんな……馬鹿な。それじゃあ俺は、一体なんのために……俺がやったことは、すべて無駄だったのか」 「残念ながらそれは俺にも分からん。だが、一つだけ言えることは、お前がどれほどタイムスリップを繰り返そうとも、詩織は決して手に入らない、ということだ」  そうしてその場に沈黙が流れた。先に沈黙を破ったのは現在の佐野だ。彼は何かを決意したような表情をしていた 「やっぱり俺、またタイムスリップするよ」 「なんだと。俺の言うことを聞いてたのか?」  未来の佐野がうろたえた表情で現在の佐野に問いかけた。 「勘違いするな。今度は未来じゃない、過去に行く。すべてをリセットしてやるんだ」  中山詩織がお笑いライブに来るようになったのは、自分が原因だ。自分がタイムスリップを繰り返すほど、お笑い芸人になびいてしまうのならば、はじめからお笑いなんてなければいい、そう考えたのだ。  お笑いに未練はあったが、彼女をお笑いの世界に引きずり込んだ者として、責任を感じていた。だからこそ、彼女をまっとうな世界へ引き戻さなければならない、そう感じていた。  そうして佐野は、いつも通り「What Timer」を起動した。陽の光のまたたきとともに、周囲の景色がどんどん過去に戻っていき、最終的に彼は目標の時点へ到達した。  そこは1933年8月1日の大阪だった。この日に起こるある出来事を阻止するために、佐野はタイムスリップしてきた。  早速彼は、とある蕎麦屋へ向かった。「難波そば」という立ち食い蕎麦屋だ。いたってふつうの店なのだが、あと数分もすれば、お笑いの歴史を変えるある出来事が発生する。それをなんとしても止めなければならないと思い、この場にきたのだ。  そして佐野は、店員に気づかれないよう、店の外にこっそりと「臨時休業」と書かれた看板を立てかけた。  そこから数分たった頃、ある人物が店の前を通りかかった。古いデザインのスーツを着た、中肉中背の男性だ。蕎麦屋に入ろうとしていたのだろうが、「臨時休業」の看板を見て立ち止まった。その男性は一瞬訝しげな表情を浮かべたが、そのまま去っていった。 「よし、成功したぞ」  佐藤がぼそっと呟いた。狙い通りの結果だった。彼の目的は、先ほどの男性が蕎麦屋に入ることを阻止することだった。  あの男性の名は杉山太郎。彼はこの後、人生ではじめて立ち食いのお店に入り、カルチャーショックを受けることになっていた。 「なんで蕎麦屋で立たなあかんねん! なんでやねん!」と、一人でツッコむのだ。  その後、この場で彼が「なんでやねん」と発したことにより、大阪にツッコミ文化が徐々に広まっていき、お笑いブームにもつながることになる。そう、あの男性こそが、日本ではじめて「なんでやねん」を発明した人物だったのだ。  しかし、それは阻止することができた。日本のお笑い文化誕生の瞬間を阻んだのだ。 「ちゃんと最後までやりとげたぞ……」  佐野がぼそっとつぶやいた。彼の全身は充実感で満ち溢れていた。そんな時にふと、自分の手のひらを眺めたところ、徐々に透けていっていることに気がついた。 「そうか……これが時間改変の報いか」  佐野がぼそっと呟いた。すでに覚悟はしていた。彼は芸人だからこそ過去に来た。この世にお笑い文化がなければ、そもそもこんな時代にはこなかった。  したがって、もしお笑い文化がなくなれば、必然的に彼はタイムスリップしなかったことになる。つまり、はじめからこの場にいなかったことになるのだ。そうしてどんどん透けていく身体と、薄れていく意識のなかで、それでも彼には動揺はなかった。  佐野には、ある種の確信があった。たとえ自分が何者で、どういう状況であったとしても、きっとまた彼女を好きになるという、確固たる自信が。 「きっとまた、彼女を好きになりますように」  そんなことをぼそっと呟きながら、佐野ヒロユキはその場からゆっくりといなくなった。  そして、この世界からお笑い文化が消失した。  大阪の西成には、高級料亭の立ち並ぶ一角がある。麗しい若い女性と、妙齢の女性が店の入り口に座り、客の勧誘をしているのだ。  佐野ヒロユキは、そんな通りからは少し離れたマンションで、一人暮らしをしている。  彼は現在、工事現場で働いていた。  特に夢はなく、人生に目的はない。得意なことなど何もない。何か……自分の心の隙間を埋めるものはないものか、と日々探している。  彼にのめりこんでいるものがあるとすれば、たった一つだけだ。近所の料亭に行き、好みの店員に会うことだ。佐野は本来女遊びに興味などなかったのだが、お気に入りの女性が働くようになってから、通いつめるようになった。 「いらっしゃーい。佐野さん、最近よくきてくれるわねえ」  料亭の前に行くと、中にいた女性二人に話しかけられた。そうして佐野は、店員の女性に連れられて、二階の個室へと向かった。  そんな彼女の後ろ姿からは、ほんのりと金木犀の香りがした。
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