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 十時を回った頃には耕平の酔いもほどよく回っていた。  テーブル席にいたお客は早いうちに帰ってしまい、男性同士のカップルや、誠司と話すために訪れる一人のお客がちらほらと増えてきた。カウンター席も埋まりはじめ、空いていた佐々木との間の二席も埋まる。そろそろ帰った方がよさそうだ。  耕平が席を立つと、「じゃあ俺も」と佐々木も同じようなタイミングで会計を済ませ、二人は連れ立って店を出る形になった。 「あの店、よく行くの?」  なんとなく並んで駅までの道を歩きはじめたとき、白い息を吐き出しながら佐々木が言った。 「俺、結構行ってるけど、牧浦さんと会うのは今日初めてだよね」 「ああ、俺も開店当初からときどき行ってるけど、普段佐々木さんが行くのは平日なんですよね? 俺は家も職場も遠いし。行くのはだいたい土曜日かな……」 「そうなんだ。今日はどこまで帰るの?」 「横浜っす」 「マジ? 俺も俺も~。途中まで一緒に帰ろうよ」  店での、誠司を挟んで会話が成立する程度の控えめなやりとりが嘘のように佐々木はよく喋った。口を開くと若干軽薄な印象があるが、耕平のように人見知りのけのある人間には話しやすくていい。  耕平はトレンチコートの前を掻き合わせながら、隣を歩く佐々木をちらりと観察した。  身長は、一七五センチの耕平とほとんど変わらないが、何かスポーツをやっていたのか上半身にほどよい厚みがある。黒縁の眼鏡は下手をするとただ野暮ったくなるだけのアイテムだが、佐々木のスタイルのよさと洗練された装いのためか〝シックな大人のいい男〟になっていた。 「これも何かの縁だし、よかったらまた一緒に飲もうよ! 次は横浜でさ」と、横浜駅で乗り換える直前、佐々木から連絡先の交換を求められた。  特に拒否する理由もなかったので、急いで電車の中でメッセージアプリのIDを交換する。 「やった。年の近い飲み友達欲しかったんだよね。また連絡する」と、佐々木は目尻に皺を寄せた。  ――やっぱりコミュ力高すぎ君か……。  距離感を掴むのが下手な奴は嫌いだが、人懐っこい人間は嫌いじゃない。自分から距離を縮めるのが苦手だから、ほどよい距離感を保ちつつもグイグイきてくれる人間は安心する。自分が受け身でいられるからだ。  友人の作り方なんてとうの昔に忘れてしまった耕平にとって、他人から興味を持たれるのは悪い気分ではなかった――たとえ社交辞令だったとしても。  話していて自分を気持ちよくさせてくれる相手といるのは、悪くないものだ。  佐々木と別れたあと、耕平は一人気分よく電車に揺られていた。  披露宴と二次会なんて、遠い昔の出来事のようだ。  久しぶりに楽しい酒だった。  そろそろ最寄りの駅に着こうかというとき、コートのポケットに入れていたスマホが鳴る。佐々木からメッセージが届いていた。  飲みに行こう、とかまた連絡する、とかいう言葉は大抵の場合、社交辞令で終わる。しかし届いたメッセージには『早速だけど、来週土曜日都合どう?』と書かれていた。  それにしたって早速すぎるだろう。  つい吹き出してしまった直後、電車の中ということを思い出して慌てる。コートの襟もとに顔を埋め、耕平はついついにやりと歪んでしまう口元を誤魔化した。  翌週の土曜日――佐々木と桜木町(さくらぎちょう)駅で待ち合わせた。  駅のホームに降り立つと、まず大きな観覧車が目に入る。横浜市に住んでもう何年も経つが、一括りに『横浜』と言っても広い。普段この辺りまで来ることはあまりなく、象徴的な光景に、内心『おお、横浜だ~』と観光客のような感嘆の声を上げる。  あまり来ることはない――が、この街が好きだ。  いつもキラキラしてまぶしくて、この街に来ると少し浮かれた気分になる。 「お待たせー!」  この日の佐々木はボアジャケットにタータンチェックのマフラーをしていて、寒さで少し赤くなった鼻の頭をマフラーに埋め改札の前で待っていた。耕平に気付くとぱっと顔を上げ、笑顔で手を上げる。 「一週間ぶり~。牧浦さん、腹減ってる? 俺めちゃくちゃ減ってるんだけど、飯直行でいい?」 「いいですよ。俺もめっちゃ減ってます」 「よかった! 何食いたいとかある?」 「なんでも」  男同士の〝なんでも〟はいい。本当になんでもいいからだ。 「じゃあさ~」と、佐々木は笑顔で頷いた。 「ちょっと気になる店あんだけど行っていい?」 「いっすよ。何屋?」 「ちょっと小汚い感じの普通の居酒屋なんだけど、おでんが美味しいらしくてさ」  話しながら、足は野毛(のげ)方面に向かっていた。  佐々木は記憶だけを頼りに歩いているのか、同じような場所を何度かうろうろし――……「あ、あった!」と声を上げる。 「牧浦さん、あったあった! ここ!」  そこは本当に小さな、小汚い店だった。  見落としてしまいそうなほど地味な店構えで、控えめに『おでん』の暖簾(のれん)が掛かっている。  店の中も狭かった。二人掛けの小さなテーブル席が五つ。それと、ほとんどキープボトル置き場になってしまったカウンター席。  まだ早い時間だからか、客は一人だけだった。  常連客のようで、店主らしき男と額を合わせて話し込んでいる。  客の来店に気付いた痩せぎすな五十格好の店主が、ぱっと顔を上げ立ち上がる。 「いらっしゃい! こんばんは~、おふたりかい?」  佐々木は柔和な笑みで「こんばんは~、二人です~」と返し、耕平は黙ってその後ろについていった。 「この辺りでよく飲むんすか」 「野毛で? ん~そうだね。わりかし多いかも」  ビールで乾杯のあと、美味しいと噂のおでんと、おでんの次に人気だという鶏のから揚げを注文した。 「職場が都内だからね、どうしても会社の人と飲むときは都内になるけど」  関内(かんない)から都内の本社に異動になったのは半年以上前のことらしいが、今の部屋が気に入っている佐々木は引っ越したくないのだという。耕平も今の部屋が気に入っているから、その気持ちはちょっとわかる。 「いやあ、でも嬉しいな。勢いで誘ってみたはいいけど、本当に飲みに行ってくれると思わなかった。付き合ってくれてありがとう」 「別に……お礼言われることじゃ……」と、耕平は口ごもった。  何か気の利いた、上手い返しができればいいが、ほとんど初対面の相手にそれは難しい。  ほとんど無表情でビールを飲む耕平に対し、佐々木はにこにこと耕平の顔を眺めている。なんとなく、胡散臭い笑顔だと思った。  手持ち無沙汰の耕平はただビールを口に運ぶしかない。あっという間に一杯目を飲み干し、二杯目を頼む。ビールと共に料理が運ばれてくると、耕平は安堵した。  丸底のいろり鍋に入って出てきたおでんからは湯気と一緒にだしが香って、耕平の鼻腔と食欲をくすぐった。思わず「おお、美味そ……」と漏らすと、店主のおやじが「美味いぞ~!」とにっかり笑って去っていく。  ちくわ、玉子、こんにゃく、はんぺん、さつま揚げ、大根。だしのよく染みたおでんの具たち。ボリュームはあるが、入っているのは各種一つずつだ。  好きな具を選べばいいかと思ったが、耕平が何か言うより先に佐々木が「切っちゃうね~」と箸で綺麗に二等分してくれた。  マメなタイプなのだろうか。  サラダなんかを頼んだ日には、小皿の上の彩りまで考え綺麗に取り分けてくれそうだ。  先週、サラダなんかで腹が膨れるわけがないとぼやいていた姿を思い出し、耕平はつい吹き出してしまった。彼女にも綺麗に取り分けてあげたのだろう、きっと。 「ん? どうしたの、牧浦さん」 「いや……佐々木さんって、A型?」 「うん、そうだけど?」  血液型占いを妄信しているわけではないが、ここまで絵にかいたような几帳面だと笑ってしまう。 「勝手な想像だけど……財布の中、めちゃめちゃルールありそう。レシートはここ、お札は向きそろえて大きい順、とか」 「牧浦さん、俺の財布の中見たことあるっけ……?」 「やっぱりそうなの?」と耕平は再度吹き出した。  しばらく笑いが止まらない耕平に、はじめこそ拗ねたような、はたまた困惑したような表情を浮かべていた佐々木もにやっと笑った。  この日耕平は、久しぶりに大口開けて笑った。  肩の荷が下りたような、清々しく、不思議な解放感があった。ここ数年は――いや、社会人になってからずっとだろうか? 家と会社の往復が人生の大半を占めるばかり。ごくたまに、休みの日に連れと飲みに行ったり、会社の後輩から合コンに誘われたり……それなりに毎日楽しいけれど、ときどき、ひどくうんざりする。  二軒目は屋台村の串揚げ屋に移動し、ひたすらハイボールを飲んだ。大した話はしていない。学生の頃部活は何をしていた、とか、酒は何を飲む、とか。  いくらかは酒の助けも借りて、気安い雰囲気だった。  申し訳程度に使っていた敬語もいつしか消えてなくなっていた。  散々揚げ物を食べたあとだったが、壁に貼られた手書きメニューにカニクリームコロッケを見つけた佐々木が目を輝かせている。気付いた耕平が「頼めば」と言うと、「えっ、いいの?」と満面の笑みだ。この笑顔は胡散臭くない。 「女の子と飯行くと気ぃ遣うよな~。その点男は楽だな。揚げ物ばっかりって文句言われないし。ま、胃はもたれるけど」  にやっとしながら「この間デートしてたっていう子は?」と耕平はたずねた。たしか、生ハムとサラダで腹がいっぱいになってしまった、という例の。 「彼女じゃないの?」 「あ~……あれは先輩に紹介されて。結構可愛い子だったから、何回か会ったけど、ちょっと合わないかな」 「ふーん。彼女欲しいわけじゃないの」 「まあ、欲しいっちゃ欲しいけど。でも男同士が気楽でいいや。牧浦さん結構飲めるよね。嬉しいよな、酒飲むんならさ、同じくらい飲める人間と飲んだ方が絶対楽しいじゃん。またこうやって飲みに行こうよ」 「うん」と耕平もすぐに頷いていた。  友人でもない。会社の同僚でもない。ただ偶然出会っただけの、年の近い赤の他人だった。  そんな男と何でもない話をしながら、ただ酒と美味い飯を食べる。それがこんなにも新鮮で楽しいことだとは思わなかった。 「是非。横浜住んで結構経つけど、この辺全然詳しくねーんだ。いろいろ教えてよ」  耕平がにっかり笑って答えると、佐々木は目を瞬かせた。 「牧浦さんってさ」と佐々木は身を乗り出して言った。 「さっきから思ってたけど、笑うと可愛いよね」 「はあ?」  人見知りのけがあるので、初対面の人間の前ではあまり感情表現は豊かではなく、耕平のやや釣り目がちな奥二重の目はともすると睨んでいるようにも見える。一度心を許してしまえばよく笑うしよく喋るが、なかなか人に懐かない猫のように、そこまで辿り着くのは一苦労だ――……というのが、〝そこまで辿り着いた〟誠司談だ。が、さすがに可愛いと言われたことはない。 「いやいや、三十四の男に向かって何言ってんの……」 「いやいや! 本当! 可愛いって、牧浦さん。目、キリっとしてて黙ってるとカッコいいけど、笑うと可愛い。だいたい、三十四に見えないしね。もっと年下だと思った」  そういう佐々木こそ、笑うと随分可愛いらしいじゃないか、と耕平は思った。 どことなく胡散臭い笑顔が多いが、今みたいに顔をくしゃくしゃにして笑う様子は好ましい。目尻が下がって、細かい笑い皺ができる。大きな口を開け、屈託なく笑う顔は少年のように無邪気だ。
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