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 相手のことを知り過ぎて、いいことなんて一つもない。  秘密は秘密のままでいいことも、たくさんある。それがお互いにいい年をした大人であれば、なおのこと。  初めて口付けたとき、こんなことを言われた。 『なあ、唇にも相性ってあると思わないか』  唇に相性なんて、そんなこと考えたこともなかったけれど、たしかにあいつと唇が触れ合った瞬間に覚える安らぎに、『ああ、これが〝相性がいい〟ってことなのか』と納得せざるを得なかった。  愛撫するように唇を食まれるたびに、眩暈がするほど心酔する。まるであつらえたかのように(・・・・・・・・・・・・・)しっくりくる感じ。  何年かぶりに、誰かと抱き合って、キスをして、安堵したのだ。      *  〝Opus(オーパス)〟はちょうど、東京は神谷町と虎ノ門の間くらいの場所にある小さなバーだ。立地が立地なので、平日はそれなりに流行っているらしいが土曜日の夜なんかはさっぱりだ。新橋や六本木あたりから流れてくる客もいないことはないが、土曜の客はかなり限られる。日曜日は定休日。  自称、この店の常連客である牧浦(まきうら)耕平(こうへい)は、住まいも職場も横浜で、店に顔を出すのは実に二か月ぶりだった。 「いらっしゃいませ」  扉を開けると同時に、余所行きの声で迎えられる。  直後、耕平に気付いたこの店のオーナー兼バーテンダーの男が「あれっ?」と眉を上げた。 「どうしたの、耕ちゃん。めずらしい格好」 「うるせー」  結婚式の二次会を六本木で終え、その足で店にやってきたのだ。普段使いのネイビーのスーツだが、光沢のあるシャンパンゴールドのネクタイにポケットチーフを合わせれば、それなりに見える。  耕平はがら空きだったカウンターにどっかり座ると「なんか、ちょっと甘めで、でもサッパリ系のやつ。テキトーに」とオーダーした。バーテンダーの男――誠司は頷き一つで返すと、すぐに手慣れた様子でシェイカーを振りはじめた。  二つしかない二名掛けのテーブル席は、すでに若い女性客で埋まっている。誠司の動きを見て、彼女たちがにわかに色めき立った。すらりと背が高く中性的な顔の誠司は、実際の年齢よりずっと若く見える。女性の目には大層魅力的に映ることだろう。  だが、昔からの知り合いがむちゃくちゃキメ顔でシェイカーを振っている姿は何回見てもむず痒いというか――こちらの方が気恥ずかしさを感じてしまう。だったら頼むなという話だが、誠司の作るカクテルは美味いのだから仕方がない。  誠司はやたらエロスを感じる所作でカクテルを注ぐと、グラスを差し出した。 「どーも」  耕平は素っ気なく受け取って、くいっと一口飲んでみた。  テキーラベースにグレナデンのピンク色。女子の喜びそうな可愛い色だが、味は結構ドライでレモンが効いているのか、サッパリとして飲みやすい。  バーカウンターから続くキッチンから、コックコートにハンチングを被った短髪の男が顔を出した。 「あ、耕平くん、来てたんだ。いらっしゃい、久しぶり」 「久しぶり。お邪魔してまーす」  男はできたてのアラビアータを持ってカウンターから出てくると、テーブルに運んでいった。ふわりと、ニンニクの効いたトマトソースの匂いが店内に広がる。披露宴でも二次会でも腹いっぱいに食べてきたはずだが、不思議と食欲をそそる匂いだった。この店はカクテルだけでなく、飯も美味いのだ。  高校の同級生である誠司が、この店をはじめたのは二年前。  〝Opus〟のもう一人のオーナーで、この店の料理人――そして誠司の恋人でもある――龍一(りゅういち)は、「その格好は、結婚式帰り? 似合ってるね」と微笑んだ。耕平より、誠司より、ずっと背も高く大柄だ。たしか以前、一八五センチはあると言っていたが、おそらくもっとあるだろう。おまけに表情豊かとは言いがたい龍一は、はじめこそとっつきにくい印象を与えるが、付き合ってみれば中身は素朴で優しい男だ。おまけに作る飯は最高に美味い。  高校の頃からの友人が、男と付き合いはじめたと聞いたときはどうしたもんかと思ったが、龍一はいい男だし、二人ではじめたバーもうまくいっているようで安心している。男と女というだけで、必ずしも幸せになれるわけじゃない――それは耕平だって身をもって知っている。  〝Opus〟は、飯が上手いという以外はどこにでもある普通のバーだが、オーナー二人が男同士のカップルとなると、そういう(・・・・)客も自ずと増える。もっとも、出会いを目的とした店ではないから、粗相をするとすぐに店から叩き出されるわけだが。今日のように若い女性が食事目当てに来ているのは、土曜日ならでは、だ。  カラン、と店の扉が鳴り、十二月の冷たい風と共に新たな客がやってきた。  ピンク色のカクテルを飲み干し、誠司に「なんかピリッとドライな感じのやつ」と耕平が二杯目のオーダーをしたときだった。 「いらっしゃいませ――ああ、佐々木さん、こんばんは」 「こんばんは~」  佐々木と呼ばれた黒縁眼鏡の男は親しげな笑みを返すと、肌触りのよさそうなステンカラーのコートを脱ぎながら、「とりあえず、ビールもらえます?」とオーダーした。 「今日はクラフトビールのドラフトが二種類ありますよ」 「えっ、まじか、ラッキー! 嬉しいなぁ」と、佐々木は本当に嬉しそうに笑いながら、耕平の席から二席空けたところに腰を落ち着けた。  生産数の少ないクラフトビールの生樽は、いつでも入荷があるわけではない。好みのビールが飲める日はたしかにラッキーと言える。  誠司の説明を聞きながら佐々木がビールを選んだところへ、「おう、佐々木、来たのか」と龍一がキッチンから顔を出した。気軽に挨拶を交わしているところを見ると、どうやら親しい客らしい。  よほどじろじろと佐々木を見ていたのだろう。誠司が苦笑混じりに「龍一の同級生だよ。平日、よくお仕事帰りに来てくれるんだ」と説明してくれた。
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