スプレー屋

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 体中が痛い。何度も蹴られているからだ。おまけに初瀬が転がっているのはコンクリートという二重苦だ。朦朧とする意識の中、修のーー今初瀬をけっている奴の畜生という叫びと月の光ばかりが鮮明だった。気を失う寸前、月光よりもっと強い光が見えた気がしたが、多分気のせいだろう。  山葉初瀬は二つ名に事欠かない。なんのひねりもない「若き天才」から始まり、「着物界の救世主」「新進気鋭の日本画家」「革命の着物デザイナー」「光徳呉服の秘蔵っ子」(光徳呉服は初瀬が所属している呉服屋だ)などなど、本人が赤面してしまうような二つ名で溢れている。だが、最初の二つ名は「スプレー屋」だ。スプレーで壁に落書きをして日銭を稼いでいたから。  居心地の悪い家を我慢できたのは十代前半までだった。繁華街をうろつき、悪友とつるんで落書きの下請けや暴走族のバイクのカスタマイズをして日銭を稼いでいた。何度補導されても繰り返す。どうせ家にいてもろくな目にも合わないのだ。警察の方が親切なぐらいだ。初瀬自身、こんな生活がいつまでも続くわけがないと思っていた。いずれ、街のゴミ置き場で野垂れ死にだと思っていた。それでも家にいるよりはましだった。街のゴミ置き場は腐った匂いに混ざってかすかな自由の香りがした。  「スプレー屋」生活が唐突に終わったのはもうすぐ選挙権が手に入る年になる頃だった。金でもめて五人相手に半殺しの目に会っていたとき、光徳呉服の社長に助けられたのだ。殴りかかってきた五人をあっさり沈め、社長は彼らに目もくれず壁を差した。 「ねえ、あの落書き、君が書いたんだよね。悪くないけど、書いた場所が悪いな。私のところにおいでよ。こんなちっちゃいキャンパスじゃなくてもっと大きな世界で書こう。あ、私は、春過夏来。光徳呉服の社長やってるんだけど」 怪しいとしか思えないセリフに頷いたのはそのひとが光って見えたからだ。比喩でもなく本当に光って見えたのだ。初瀬が恥ずかしい二つ名をいくつも手に入れるようになったのはそれから三年後。  かつてつるんでいた男ーー井藤修が連絡をとってきたのはそれからさらに二年後のことだった。 「随分、羽振りいいじゃねえか。スプレー屋」 胸ぐらを掴まれて最初に思ったのは「この男は本当に井藤修なのか」だった。だが、この男は間違いなく井藤修だった。男は修と初瀬しか知らないことをいくつも知っていた。 「金くれよ。余ってんだろ。天才様」 「金って。お前、いま何やって」 「お前のせいだ!」 修は叫んだ。 「てめえばかっかりいい思いしやがって。今の今まで俺のことなんか少しも考えてなかっただろ! 不公平だ。てめえと俺は対等だろ。なのにてめえは天才で俺は社会のお荷物か。え?」 (ああ、目か) 目が違うから修と一瞬わからなかった。こんな目じゃなかった。こんな真っ暗闇じゃなかった。ロクでもないことしかしてなくて、なんの保証もなかったけどもっと光でいっぱいの目をしていた。だから、こいつとつるんでいたのに。あの光は俺が消したのか。修がそういうならそうなのだろう。居場所なんかどこにもなくて誰も信じられずさまよっていたあの頃、修の目は一等光っていた。目をきらきらさせながら初瀬の「作品」を褒めてくれた。 (お前の絵、すっげえなあ! 待ってろ。これ絶対金にさせっからな!) 修だけは信じていた。そんな修が初瀬のせいと言うならきっとそうなのだ。 「お荷物なんかじゃねえよ。対等に決まってるじゃねえか。飯食いに行こうぜ。金は持ってる奴が払うって決まりだったろ」  初瀬は修に言われるまま金を出した。金を出して半年、いつものように金を渡そうとしたとき修は畜生と叫んで初瀬に飛びかかった。初瀬は抵抗しなかった。それが冒頭の話だ。 「こういうことはこれきりにして欲しいね」 気がついたときには見知らぬ布団の中にいた。そばの椅子には社長の春過夏来が座っている。初瀬が目を開くやいなや、ナースコールを押しながら不機嫌な顔で言った。 「ここ、病院?」 「そうだよ」 「あいつは?」 「君の怪我のことは後回しか。まあ、いいや。警察にいるよ。大人しくしているそうだ」 「夏来さん、どこまで知ってるの?」 「そう警戒するなよ。私が知っているのは君が井藤とかつてつるんでたこと、たびたび金を井藤にやっていたこと、なぜか今日、暴力を振るわれていたこと。私は彼を君から引き離して救急車を呼んだだけだよ。彼は自首した」 「俺は運が良かっただけなんだ。夏来さん」 「運?」 「俺もあいつも月だったんだ。太陽が見つからないと輝けない。俺はたまたま光を見つけただけだ。夏来さんが手を差し伸ばしてくれたから俺は」 夏来は黙って頭をかいた。 「あのとき、夏来さんが光って見えた。初めて会ったとき」 「蛍になった覚えはないなあ」 声が明らかにふざけている。初瀬は目を細めた。夏来は初瀬の非難を見て取ったらしい。ごめんごめんとふざけた調子のまま言った。 「君がロマンチストなのを忘れていたよ」 「ロマンチストって」 「ほめているんだよ。デザイナーがロマンを失ったらおしまいだ」 夏来はそこまで言って真剣な顔になった。 「君は私を光だと言ったけど、私からすれば君が光って見えたよ。私にとって君は太陽だ。失いたくない」 「……」 「どんな理由でも君を失いたくないんだ。君のデザインした着物、私は本当に好きなんだよ。それこそ光って見えるぐらいに」 「夏来さん。俺は夏来さんの光でいたいよ。でも、あいつの目が忘れられないんだ。昔はあんなんじゃなかった。本当に」 ろくでもないことしかしていなかった。落書きの下請けと暴走族のバイクのカスタマイズ。修が”仕事”を貰ってきて初瀬がやる。金分け合って、家にも帰らずバカやって。あの時がいいと思わない。でも、あの頃の修の目は今のように真っ暗闇じゃなかった。 (お前の落書きすっげえなあ! あんなはした金しかもらえねえで悪いな! さすがスプレー屋) あの光はどこへ行ってしまったのだろう。 「みんなきっと俺のことを被害者って言うんだろう。でも、俺はどうしてもそう思えないんだ」 お前のせいだと叫ばれたとき、初瀬は納得してしまった。だから金を払ったし、暴力にも無抵抗だった。 「あいつは俺と同じろくでなしだった。なのになんで俺はあいつに金をやれるんだろう。あいつは金がないんだろう。つるんでた頃はあいつが金をくれたのに」 「光が失われた理由はわからない。けどね、初瀬」 夏来は初瀬から視線を外し窓の外の太陽へとそれを移した。 「彼にとって君は変わらず眩しかったんじゃないかな。光を失った人間には残酷すぎることに。でなければ君に暴力をふるわず、君の罪悪感につけこんで延々と金をむしっていたさ」 変わらず眩しい? 違う。眩しかったのは修の目だった。あの光があったから俺は。 「結局のところ、俺が悪かったんだ。もっとあいつを気にかけていれば」 「さあ、どうだろうな。私にはわからないよ。だって、結局私は君を失いたくないだけの人間なんだから。彼のことはわからない。でも、君ならわかるはずだ。どうすればよかったじゃなくて、これからどうするかを」 夏来は初瀬の目をまっすぐ見た。光に満ちたまっすぐな目。 「光が欲しかったら手を伸ばすんだよ。私みたいに」 医者と看護師がようやく到着する。問診に答えながら修の光と夏来の光を交互に思い出しいた。
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