ヒカリノセイメイブン

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 そのとき、私はなにか、するどい視線を感じたのでした。  ニュースの中の出来事など、私にとってはまったく違う世界でのものごとのように感じていた部分がありました。以前は。しかし、SNSが発展してからというもの、ニュースになるような内容が友人・知人たちに起こるのを何度も目の当たりにし、その考えがまったく変わりました。  つまり、私たちはよりリアルタイムにニュースを捉えることができるようになり、より現実感覚を保った上で、報道される事象と自らの深い繋がりを考えることができるようになりました。  けれどもまさか、私自身が実際にその大それたニュースの中に巻き込まれてしまうことなど、思いもしなかったのです。  その日は調子も良くて、運動がてら移動を徒歩でしようと思ったのです。  私は通信教育で通っている大学から出て、ボランティアで活動をしている山城へと向かいました。ああ、気になりますか。でも大学の話や山城の話はまたの機会にじっくり話したいと思います。  山城を抜けて、峠をカーブしながら降ると、大きな川に長い橋がかかっているのが見えます。  私は、以前より何度も通ったその橋を進んでいました。ただ、徒歩だけでそこを通るのは、たしか二回目だったと思います。いや、三回目だったかもしれません。  そうですね。この際何回目かなど意味のないことかもしれないですね。この後、私はとても驚くべき事象と遭遇するのですから。  橋を渡って向こう岸側が見えてきたちょうどその時でした。橋の下になにか気配を感じたのです。  もちろん、様々な議論はあると思います。ただ、私は今でもその行為が善きことであると信じていますし、少なからずそういった行為が正しいと思っている人々はいるでしょう。  私は、とっさにスマートフォンを取り出して、スイッチを押しました。もちろんその存在自体は知っていますし、野生状態ではないそれをたしかに見たことがありました。しかし確実に、その存在がその時その場所に現れるというのは不自然でありましたし、違和感とするどい視線のようなものを感じたのです。  その(まなこ)には光が宿っていました。  そう、それは、生への執着。前進することへの一途さ。猛々しいほどの命の光。  ときに私は自らが人間として生まれてきて、人間とは何か、と思ってしまいます。  人間も彼彼女らと同じ動物であり、生命のはしくれなのです。  けれども、はたして私たちのうちの何人が、あのような燃える光をその内に秘めることができるのか。  人間とはいつのまに、自らの発光機関であるその光を失ってしまい、外部の光に頼って怯え縮こまって暮らしていかなければならなくなったのでしょうか。  するどい牙も強固な脚も、硬い毛も皮も持たない。  その代わりに知性という名のプロメテウスの光を手に入れたはずの人間。  知性という光の炎は、本来ならばより生命の光を輝かせるはずです。しかし人間は、野生の彼彼女らが持ち合わせる生命の光を見失ってしまいました。  自らもまた生命のサイクルの一部である。そういう感覚を人間は失いつつあるように感じます。  様々な意見があるのは承知しておりますし、あなたもあなた自身の立場でそう意見を出すというのは理解できます。  しかしながら、私自身は生命のその光の輝きを間近に見てしまったので、その光の可能性を信じぬわけにはいかぬのです。  私の(まなこ)には、どうしても現代の人間の真っ暗でからっぽな心よりも、自然界に存在する無数の大小様々な光のほうが魅力あるものに映るのです。  願わくば、さらに自然に宿る生命の光が強く優しく輝きわたり、人間をも再び生命の一部として穏やかに包み込んでくれることを願います。  そして、自然や野生の動植物に対して、または他の人間に対して敵意を向けるのではなく、再び多くの人間の空っぽな心の中に、温かで優しさに溢れた希望の生命の光の宿ることを切に願うのです。  より善き自然界のために。 令和元年 己亥 十二月十五日 うたうもの  
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