あの部屋の電気は、もう消えたかしら?

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「まだ、頑張ってる」  カーテンの間から顔を覗かせ、タワーマンションの一室より放たれる光を見て、篠崎帆波(しのざきほなみ)は小さく独り言を漏らした。  毎晩一方的に続けている、この勉強時間を競う闘いに、今日は負けてしまおうか…と、帆波は自室の勉強机を振り返り、そうして、やはり諦めた。今晩は、これ以上、受験勉強を頑張れそうにない。無理をして粘っても、もう集中力が続かないだろう。  決断した帆波は、高ぶった神経を沈めてから眠ろうと、入浴の為に風呂場に向かった。  深夜の勉強に励む受験生を気遣ってくれたのだろう、湯船は適温に保たれていた。既に寝ている両親に遠慮し、静かに風呂場に入った帆波は、確認の為に入れた手から伝わる湯の温度に、脳の緊張が解けていくのを感じた。  帆波は、頭と体、顔を洗うと、今日の頑張りのご褒美として、肩の高さまで溜められた湯に、どっぷりと浸かった。毎晩、受験勉強上がりの入浴の時間を、帆波は楽しみにしている。だが、この神聖な癒しの場に、受験生であるが故の焦りを全く持ち込んでいないわけではない。  未だに、帆波は希望の大学に余裕で入れる程の成果を出せていない。こうして自分が暢気に風呂に浸かっている間にも、ライバルたちは受験勉強を続け、帆波との差を広げているかもしれない。いや、「かもしれない」ではない。現に、ライバルの一人は今も、帆波が居る場所より遥か数十メートル高いマンションの高層階で、深夜の受験勉強を続けているのだ。  焦りが増大してきた帆波は、こうはしていられないと、数時間前に叩き込んだ公式を脳内から引き出そうとした。が、公式の記号と数字は思い浮かべた先から湯の中にゆらゆらと溶け、また、湯気と一緒に天井へと上がっていってしまった。  本日は、もう、限界を超えてしまっていた。よく寝て、頑張るのは明日にしようと思い切る為、帆波は一度、ざぶんと頭のてっぺんまで湯に浸かった。  二十分後、風呂場を出た帆波は、台所で炭酸水を飲んだ後、自室に戻った。そうして、ドライヤーで髪を乾かしながら、もう一度、カーテンを捲り、窓の外を見た。他はすっかり暗くなっている巨大な長方形の中で、例の部屋の電気は、まだ点いていた。  もうすぐ、午前三時。八時に見た時には、既にあの部屋は明るくなっていた。それから、二、三時間毎に見た時にも。よく集中力が持つなと感心しつつ、もしかしたら、サボってゲームでもしているのではと考えないでもなかった。それか、寝落ちしてしまったか。  ふと、彼、大森螢太(おおもりけいた)の寝顔を見てみたい、なんてことが頭をよぎり、一人で恥ずかしくなった帆波は慌ててカーテンを閉めた。そうして、ベッドの上に坐り抱えた枕に顔を埋めて、ここ最近ずっと感じていることを反芻した。  自分は、どうかしている。  そもそも同級生であるということしか接点のない男子、学校に通う日も殆どなくなった十二月現在、そしてこれから卒業するまでの未来、どう考えても親しくなる可能性のない螢太を、帆波は向かいのマンションから毎晩監視している。  いや、正確には窓の光の向こうにある彼の姿をはっきり確認できたことは、一度もない。帆波は、螢太が住んでいると思われる部屋から漏れる光を、毎晩観察しているだけなのだ。  今となっては、螢太が教室で彼の友人に自分の住所を説明している会話を耳にしてしまった偶然が、なんとも恨めしい。そして、希望している大学の名前まで聞いてしまったことも。螢太が自分と同じ大学を目指していると一方的に知ってしまって以来、帆波はどうにも、遮光仕様ではないカーテンがかかる、あの一室の煌々と光る電気が気になって仕方ない。  螢太に関し、何も知らない時から、見た目に関しては好みだなと、帆波はそこそこ冷静に思っていた。だから、いらない聞き耳も立ててしまったのだろう。しかし、こんなに毎日、部屋を覗き見るなんて馬鹿をするほど意識してしまうなんて、帆波自身、思ってもみないことだった。  きっと、長期に渡る受験勉強のせいで、おかしくなってしまったのだろう。長く孤独な闘いをしているうち、変に人恋しくなったのだ。だから、近く大学に受かってしまえば、このストーカーじみた行為も収まってくれるだろうし、螢太に対する、この甘いような酸っぱいような、…他人から見れば、かなりしょっぱいこの気持ちも失せるはずだ。  帆波は抱えていた枕を元々あった場所に戻し、軽く整えると、布団の中に体を潜り込ませた。そうして、まだほんの少し濡れている髪を気にしながら、机で寝落ちする螢太の姿を想像し、それに続けて、桜舞う大学のキャンパスで再会する二人を妄想した。  楽しい気分で入眠すれば眠りの質が上がるという話を、聞いたことがある気がする。だから、帆波が馬鹿馬鹿しい情景を頭の中に次々繰り広げるのは、明日からまた頑張れるよう、しっかり眠っておきたいからに他ならない。そう自分に言い訳をしながら、眠りの淵で帆波は思う。  あの部屋の電気は、もう消えたかしら?
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