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「あ、おかえり。ご飯今できたとこ」  エプロンを外しながら答える美山を見て俺は脱力した。何事もなかった様子に一気に力が抜ける。 「どうしたの?」  怪訝そうな顔で美山が俺を見つめる。  あの後、猛スピードで沢崎の仕事を片付けた俺は、電車を待つ時間も惜しくてタクシーで帰ってきた。車中、何度も電話を掛けたのに美山からはなんの反応もなく、最悪のパターンが何度も頭を過ぎった俺は、もうちょっと速くできませんか、と何度も運転手に催促して嫌な顔をされた。 「いや、なんでもない」  そう応えながら靴を脱いでいると、キッチンの方から旨そうな匂いが漂っていることに気がついた。部屋に入った途端、テーブルの上いっぱいのご馳走が目に入り、思わず感嘆の声が漏れる。 「おぉ……今日はえらく豪華だな」 「心配しなくても俺の奢りだよ」 「いや、そうじゃなくて」  目の前には店でしか見かけないような凝った料理の数々が並んでいた。魚介がたくさんのったパエリアだとか、カルパッチョだとか、どれもめちゃくちゃ旨そうだ。 「お前マジですげぇな」 「そうか?ていうか何それ」  美山は俺が持っている紙袋を指差した。その紙袋は俺が沢崎との残業を決めた直後、まだ残っていた谷口さんが渡してくれたものだった。良かったらどうぞ、と差し出された紙袋を俺はあまり深く考えずに受け取った。その時は目の前に積まれた書類と美山のことで頭がいっぱいだったのだ。 「谷口さんが帰りがけにくれたんだよ。中身なんだろうな」 「開けてみたら?」  急に真顔になった美山に促され、俺は紙袋から長細い箱を取り出した。上蓋を開けると、中にはワインボトルが入っていた。 「なんでまた急にくれたんだろ」  そう言うと、美山が信じられないとでも言いたげな表情で俺の顔を見た。 「な、なんだよ」 「今日が何の日かわかんないの?」  言われてはっとする。 「誕生日」  もともと記念日に頓着しないのもあるが、ここ最近は美山のことで頭がいっぱいで自分の誕生日のことなんてすっかり忘れていた。 「てことはこれも俺のために?」  批難めいた視線を浴びせてくる美山に恐る恐る尋ねてみる。 「別に、泊めてもらってるお礼みたいなもんで……。ヤジのためっていうか、たまには手のこんだもん作りたくなったっていうか」と、いつにない早口で焦ったように答える。 「ありがとう」 「俺のことはいいんだって。谷口さんにはちゃんとお礼言えよ」  照れ隠しのような受け答えに、俺はニヤける口元を手で隠した。  ふいにズボンのポケットの中でスマホが振動した。取り出して画面を確認すると母親からだった。 「出ないの?」 「おふくろと電話するとなげぇんだよ。彼女できたのかとか、早く孫の顔が見たいだとか……。また後でかけ直す」  美山はそう、と小さく応えるとキッチンへ戻ってしまった。  部屋着に着替え食卓につくと、程なくして美山も席についた。 「あ、そうだ。さっきのワイン飲もうぜ」  立ち上がり食器棚の置くにしまっていたワイングラスを取り出す。引き出物のセットグラスなんていつ使うんだと思っていたが、こんな風に役立つならとっておいて良かった。 「それはお前への谷口さんからのプレゼントだろ。俺は飲めないよ」  さっきは気が付かなかったが、紙袋にはワインと一緒にメッセージカードが入っていた。二つ折りの白いカードには谷口さんの字で「美味しいワインは一人で飲んじゃダメですよ」と添えてあった。  メッセージカードを手渡すと、美山は難しい顔でため息をついた。どうやら納得してくれたらしい。  コルクを開け、黄金色に輝くワインをグラスに注いだ。谷口さんと二人でご飯を食べに行った日、俺が赤より白の方が好きだと言った事を覚えていたらしい。 「じゃ、乾杯」 「誕生日おめでとう」  美山は控えめに微笑むと、グラスを傾けた。  美山の作った料理を美山と一緒に食べる。これ以上の幸せなんてあるんだろうか。誕生日なんて年を取るだけだと思っていたけれど、こんな誕生日なら毎年楽しみになる。 「谷口さんって良い子だよな」  料理を口に運びながら美山が言った。俺は相槌をうちながらワインを一口含んだ。 「ヤジさ、谷口さんと付き合いなよ」  予想だにしていなかった言葉に思わず吹き出しそうになる。  美山は俺と目を合わせようともせずに、もくもくと食事を続けている。その表情は相変わらずのポーカーフェイスで、意図が全く読み取れない。 「谷口さんみたいに愛嬌があって、気配りができて、可愛い女の子がヤジには合ってる。谷口さんもヤジの事好きみたいだし」  そう言って顔をあげた美山は俺の顔を見るなり焦ったように顔を背けた。たぶん、今の俺は人生で一番怖い顔をしていると思う。 「なんでそうなる」 「さっきのカードだって、俺には一緒に飲みましょうって意味にとれるよ。それを俺となんて、ヤジはバカだ」 「俺が聞きたいのはそういう事じゃない。なんで俺が谷口さんと付き合った方がいいんだ」 「……だって。その方が幸せだろ」 「それは、お前といるよりも、ってことか」  美山の顔が強張る。 「やっぱりあの時の事覚えてたんだな」 「なんのこと……」 「とぼけるなよ!」  俺は怒りに任せ、こぶしでテーブルを強く叩いた。その拍子にフォークが音を立てて地面に落ちる。  美山は覚えていた。しっかり覚えていて、あえて俺を遠ざけようとしたんだ。谷口さんを使って。  俺の気持ちも谷口さんの気持ちも美山にとってはそんなもんだったのか。 「ふざけんなよ。人の気持ちをなんだと思ってんだ」  今度は美山がテーブルを叩きつけながら立ち上がり、大声で叫んだ。 「仕方ないだろ!俺はお前には普通に幸せになって欲しいんだよ。結婚して、子供育てて、マイホームなんか建てちゃって、そうやって毎日楽しく過ごしてて欲しいんだよ!俺じゃお前を幸せに出来ないんだって!わかれよ!」  美山は唇を震わせながら、俺の事を睨みつける。その目に薄い膜が張っていて、瞬きをしたら今にも涙が零れ落ちそうだった。 「なぁ、美山。ちゃんと説明してくれ」  美山は血が出そうなくらいに強く唇を噛み締めた。  本当の事を話して欲しい。俺のキスを拒んだ本当の理由。俺と谷口さんをくっつけようとした理由。 「どんな事でも受け止めるから」  美山の目から一筋の涙が頬を伝って落ちた。止めどなく流れ続ける涙を拭おうともせずに、その目は俺をじっと捉えて離さない。吸い込まれそうな深い瞳の色に、心臓が震えた。  美山はいつも俺以外の誰かを想って泣いていた。でも今は誰でもない、俺のことを想って泣いている。こんな日がくるとは思わなかった。美山が泣く度に相手の男を憎んだし恨んだ。でもそれと同時に嫉妬に似た気持ちすら抱いていた。俺なら絶対に泣かせないのに、絶対幸せにしてやれるのにと、何度抱きしめたい気持ちを我慢したかわからない。  美山は何も答えず目をそらした。椅子をひき、落ちたままになっていたフォークを拾い上げたかと思うと、そのまま力なくその場へ座り込んだ。  自分も席を立ちその後ろへ回ると、美山の肩に腕を回した。 「俺の幸せを勝手に決めるなよ。俺は美山がそばにいてくれるだけでいい。それで十分幸せだ」  そう言って顔を覗きこもうとした瞬間、美山の頭が懐に飛び込んできた。その拍子に落ちたフォークがもう一度床の上に転がった。  美山は俺の胸に顔を押し当て泣いているようだった。表情は見えないが、シャツがじんわりと濡れていくのを感じた。 「なんでそんな事言うんだよ……。人が、せっかく諦めようとしてるのに、なんで……」  嗚咽を堪えながら絞り出した声は次第に泣き声へと変わり、俺はそれに突き動かされるように美山を抱きしめた。まるで小さな子供のように声を上げて泣く背中をゆっくりとさすった。  こんな風に泣くのを見るのは初めてだった。美山はいつも恋人と別れた後は大人気もなく泣くが、こんな風に体裁も考えずに泣きじゃくるのは見たことがない。あれでも我慢していた方なのか、と変なところで驚いてしまった。  しばらくすると落ち着いたのか、美山は深呼吸をしてから顔を上げた。そして覚悟を決めたような顔で俺を見据えた。 「あの日の事、ちゃんと覚えてる」  美山は胸に置いた手をぐっと握った。後 戻りはできないと自分にそう言い聞かせているかのようだった。 「嬉しかったよ。でもその反面、絶対応えられないと思った。他人の目を気にしたり、親に嘘つくような事になる。そんなの絶対ヤジにさせたくなかった。怖かったんだ。ヤジの人生を変えちゃうのが」 「だからって人の気持ちを好きに利用していい理由にはならないだろ。よりによってなんで谷口さんなんだよ……」  美山は少し躊躇いながら口を開いた。 「谷口さんなら諦めがつくと思ったんだ。ちゃんとヤジの事を大切にしてくれる人だって思ったから。だから協力するって言った」  美山はちらりと俺を一瞥すると「お前の為だって言っておきながら、結局は自分がなるべく傷つかないようにしてる。俺はそういう男なんだ」と自虐的な笑みを浮かべた。  俺はそんな美山を見て思わずごめんな、と呟いた。美山は眉根を寄せて俺の顔を見る。 「何でヤジが謝るんだよ」 「ちゃんと好きだって言わなかったから」  美山の顔色が変わる。 「あの時お前に本気で拒まれたって思ってたから、自分の気持ちは伝えないつもりだった。伝えた所で迷惑になるだけだって思ったし、それなら今まで通りそばにいれりゃいいって思った。でも美山が俺に対して遠慮してるってだけなら、話は別だ」  美山は困ったような顔で俺の目を見つめる。 「好きだったよ、ずっと」  言いながら美山の体を引き寄せた。抱きしめたその背中はやはり骨っぽく、否が応でも相手は男なのだと思い知る。それでも俺の鼓動は早まるばかりで、全身が美山を好きだと言っていた。  今まで恋愛らしい恋愛をしたこともなく、しかも相手が同性だからどうしていいのかわからなかったのも事実だが、関係が壊れるのが怖くて怖気づいていたのも本音だ。もっと早くこうしていれば、美山を余計に泣かせるような事もなかったかもしれない。とはいえそれも結果論で、今こうやって美山を抱きしめることができるのは、あの夜があったからなのかもしれない。 「好きだよ、美山」  俺は噛みしめるようにもう一度言った。美山は躊躇いがちに体を離して顔を上げた。恥ずかしそうな顔が一瞬にして驚きの表情に変わる。  美山は俺の頬にそっと手を伸ばし、泣かないでよ、と言った。  その時、俺は初めて自分が泣いていることに気が付いた。歪んだ視界の中で美山の顔だけがはっきりと見えた。  「ヤジでも泣くことあるんだな」  美山は指の腹を滑らせ涙を拭いながらふっと笑う。  俺はようやく笑った美山の薄く開いた唇を、自らの唇でそっと塞いだ。触れるか触れないかの控えめなキスだった。重ねた唇が小さく音を立てて離れると、困ったような、照れたような何とも言えない表情の美山がいた。 「嫌だった?」  もしかして俺が勝手に盛り上がってしまっただけなのかと不安に思い、聞いてみる。 「そうじゃなくて……。その、なんか恥ずかしいのと、どうしようってのと、びっくりしたのと……、嬉しいのが混じったみたいな変な感じ」  それを聞いた俺の頬は自分でもわかるくらい、だらしなく緩んだ。 「ヤジの方こそなんだよ、その顔」  堪えきれない様子で美山はクククと声を上げて笑う。  これから先、美山がいつだって笑っていられるように、どんなことがあってもそばにいると胸の内で誓った。 「ずっと一緒にいような」  だから美山、いつだってそんな風に笑っていてくれよ。
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