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6
部署に戻ると、美山は何食わぬ顔でパソコンに向かっていた。たった数分前にあんな事があったとは思えない程のポーカーフェイスで。俺は辺りの人に聞こえないよう、声を落として美山に話しかけた。
「なぁ、今日家まで送るから終わったら言えよ」
美山の手が止まった。
「……いいよ。女の子じゃあるまいし」
美山は俺に一瞥をくれてから不貞腐れたような態度で言う。
「家の前で待ち伏せされてたらどうする。今度は本当に何されるかわかんないぞ」
「大丈夫だって」
口ではそんな事を言いながら、その顔は青ざめていた。あんな事されたら誰だって怖い。俺だって自分が同じ立場なら平常心じゃいられないだろう。
「それでお前に何かあったら、俺が一生後悔するんだよ。いいから素直に甘えろ」
美山は俺に向き直り、イラついているのを隠そうともしないで言った。
「ヤジはさぁ、なんでそんな俺にかまうわけ?」
お前が好きだからに決まってるだろ、と言いたい気持ちを抑えて黙る。
好きだから、傷ついてる姿を見たくない。俺はただ心配なだけだ。美山が一人で泣いているのを想像すると、胸が潰れてしまいそうなほど痛くなる。
「お前が大切だからに決まってるだろ」
やっとの思いで口にしたこの言葉が、嘘偽りない本音だった。美山は俺にとって大切で特別な存在だ。それは俺にとって美山がただの友達だった時から変わらない。面と向かって好きだと言えなくても、自分の心に嘘はつきたくなかった。
「ヤジって本当、お人好し」
そう言ってため息をついた直後、困ったように微笑む美山が、愛おしくてたまらなかった。この笑顔を守るためなら、俺はなんだってできると本気で思った。
仕事を終え、電車で美山の家へ向かった。会社からは一時間かからないくらいだが、俺の家へ帰るよりは、はるかに遠い。酔い潰れたら家へ泊まるはめになるのは、こういう事も要因になっている。
あれから少し考えて、一つ妙案を思い付いた。掛けではあるが、疲れた顔でドアへもたれ掛かる美山に俺は提案してみた。
「美山、しばらく俺ん家に住まないか?」
すると美山は心底驚いたような表情で俺を見て、なんでそうなる、と呟いた。
「俺が安心したいから」
用意していた答えがすんなりと出てくる。お前が心配だから、では美山を納得させられないと思った俺は、ずるい作戦に出た。俺の為にそうしてくれと言えば、美山は必ず迷うに決まっている。美山は俺に借りがありすぎた。
「意味わかんない」
「明日、もしお前に何かあったら俺は絶対に後悔するし、自分を責める。やっぱり意地でも連れて帰れば良かった、ってな。それでもいいのか」
「なにそれ、新手の脅し?」
美山は苦笑いでジロリと睨む。
「今さら迷惑だから、とかはなしだぞ。今までどんだけ面倒見てきたと思ってんだ」
「あぁもう!わかったよ!わかりました。それなら世話になります」
美山は照れくさそうに目を逸らしながら言った。思っていたよりもすんなりOKが出て、自分自身が一番びっくりしている。
「何その顔。やっぱ無理とか言うなよ」
「言わねぇよ」
それから二人で美山の家に行き、着替えや必要なものを持ってから俺の家へ向かった。途中コンビニに寄って弁当を買い、家に着いた頃には時計の針が12時を回ろうとしていた。
「早く食って寝ようぜ」
部屋着に着替えながら美山に声をかけるが、反応がない。
「どうかしたか?」
「いやさ、ヤジ本当にいいの?」
深刻そうな顔をして美山が言った。
「なにが?」
「一泊するのと、生活するのとじゃ全然違うし、それに……」
またああだこうだと、いつものように言い包められてはいけないと、話途中に割り込んだ。
「だから心配すんなって。俺達の間に今さら遠慮も何もないだろ」
そうは言ったものの、内心では美山の言う通り不安もあった。仲の良い友達同士でも同居した途端ケンカが増えたとか、生活のスタイルが合わなくて結局ダメになったとかは、わりによく聞く話だ。俺だって家族以外と生活した事なんてないから確かな事は言えないけど、でも美山となら、なんとかなりそうな気がしていた。
「難しく考えすぎだろ」
「考えなさすぎなんだよ、ヤジは。繊細が聞いて呆れる」
美山は本当に呆れ返ったような大きなため息をついた。
「とにかく、俺も気を付けるからお前も気になることあったら遠慮なく言えよ。別に一生一緒に暮らすって訳じゃないんだし」
と、自分の言葉に若干傷付きながらも美山の肩を叩いた。
「それもそうだな……。じゃあ、まぁ、しばらくよろしく」
まだ何か言いたげな表情ではあったけれど、観念したのか諦めたのか、美山は頭を下げた。その様子を俺はよしよし、と思って見ていたが、顔を上げた美山を見てギクリとした。その顔は仕事でミスを指摘する時の顔だった。
「でさ、気を使うなって言うから言わせてもらうけど。この部屋何?泥棒でも入ったのかと思った。どうすればこんなに散らかせるんだよ。脱いだ服は脱ぎっぱなし、洗濯物は干しっぱなし、キッチンは食器溜まりまくり」
美山からの不意打ちの攻撃に、俺は言葉が出ない。
「前から思ってたけど男の一人暮らしとは言え酷すぎるだろ」
美山が言うのももっともで、確かに部屋は綺麗と言えたものではない。でもそれはいつも突然泊まることになるからで、人が来るとわかっていればさすがにもう少し片付ける。たぶん。
ここに来る前に美山の家に少し上がらせて貰ったが、美山の部屋は整理整頓されているというよりとにかく物がない。今話題の断捨離か?というくらい無駄な物が置いていない。リビングにはソファとローテーブル、テレビは壁にかけるタイプで、ピカピカに磨かれたフローリングには埃一つ落ちていなかった。確かにあの部屋とここじゃ雲泥の差だ。文句の一つや二つ言いたくなるのはわかる。
「そんなに言うなら俺がお前の家に行ってもいいけど」
そう言うと一瞬の沈黙があってから美山は、片付けてくれればそれでいい、と言った。
それから俺達はひとつずつ約束をした。俺は部屋の掃除をきちんとすること、美山は食事の用意をすること。ここは俺の部屋なんだから、そんな約束は分が悪いと言ったが、美山はいいからと突っぱねた。泊まらせてもらうんだからそのくらいはする、と。
この狭い1DKに美山と二人。美山を守るためとはいえ、冷静になってみると大胆なことをしてしまったなと思う。こうなった経緯を考えると不謹慎だとは思うが、明日からは職場でも家でも美山とずっと一緒なのは正直嬉しい。コンビニ弁当を食べる美山を見ているだけなのに自然と頬が緩む。
「なに笑ってんの」
俺の視線に気がついた美山が眉根を寄せる。
「いや、飯がうまいなぁと思って」
苦し紛れの嘘をつくと、美山は弁当の最後の一口を飲み込んで「明日からはもっとうまいの作ってやるから、期待してろよ」と不敵な笑みを浮かべた。
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