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7
美山は有言実行の男だ。同居を始めた次の日から、俺の食生活はがらりと変わった。一汁三菜の朝飯、彩り豊かな弁当、栄養満点の夕飯。それだけでも大変ありがたい事なのに、作っているのは美山なのだ。
俺も美山も社食派なんだから弁当なんて必要ないだろ、と言うと朝飯作るのも弁当作るのも変わらない、なんなら社食はそんなに好きじゃない、と食堂のおばちゃんを泣かせるような事を言い始めた。
俺としてはどっちでもいい、というより弁当の方がいいからそれ以上何も言わなかったけれど、もしかしたら自分が思っている以上に美山は俺に対して気を使っているのかもしれなかった。
朝は同じ電車で出社し、昼は時間が合えば一緒にとり、帰りはバラバラに帰ることもあったが夕飯は必ず同時にとった。美山いわく、二度支度する方が面倒らしい。
俺はこの新婚生活のような毎日に完全に舞い上がっていて、社内の変化に全く気が付いていなかった。本当に俺は果てしない大バカ野郎だと思う。
「今日もうまそーな弁当っすねぇ。いいなぁ」
食堂で弁当を広げていると、背後から突然ぬっと現れた沢崎が、美山作の弁当をまじまじと覗き込みながら言った。
「なんつーか幕の内弁当?って感じっすね。健康的な感じ」
焼き鮭にごぼうと人参の金平、それから卵焼きと昨晩の残りの筑前煮と、彩も豊かな見事な弁当を沢崎はそんな風に例えた。
「お前な、人の弁当ジロジロ見んなよ」
そう言いつつも、嫌な気はしない。そうだろう、美山の作る弁当は美味そうだろう、と金平に箸を伸ばしつつ得意気な気持ちになっていた。
「いやぁ、しっかし意外だなぁ。美山さん料理めちゃめちゃ上手っすね」
沢崎の口から思いがけない名前が飛び出して、頬張っていた金平が口から飛び出そうになる。
「えっ、お前……なん、なんで知って」
「なんでって、そりゃ同じ中身の弁当食ってたら普通気付きますよ」
「普通は人の弁当の中身なんて見ねぇよ。ていうか俺が作ったとは思わねーのな。本当にそれだけで気づいたのか?」
「まぁ、矢城さんが作ったとはどう考えても思えないし。それに元々仲良いとは思ってましたけど、最近さらに仲良しじゃないですか。一緒に出勤してくるし、帰りも一緒だし。その上同じ弁当ときたら、もしかしてあの二人ってそうなのかなぁってなりますよ」
と、沢崎がため息混じりに答える。
「もしかして、ってなんだよ。俺達まさか付き合ってるとかそういう風に思われてんの?」
「だったらいいなぁ、っていうか……」
沢崎はなぜか少し照れたような素振りをしながら目線をそらした。
「なんでいいな、になるんだよ」
意味のわからなさと俺達の仲を勘違いされたらマズイという焦りで、口調がだんだんとキツくなっているのを感じる。沢崎は何も悪いことをしてないのに、バツの悪そうな表情で目を泳がせていた。
「これは完全に俺の勝手な独りよがりなんすけど……、相手が美山さんじゃなくても矢城さんが誰かとくっついてくれれば、俺にもチャンスあんじゃねぇかなってダサいこと思っちゃってんですよね、実は」
周りに気を使ってか沢崎は小声で話す。
「悪い。なんのこと話してんのか全然わからん」
「あー……、まぁそっすよね。矢城さんにわかるわけないっすよね」
その言い方には少しカチンと来たが、自分の鈍感さにはさすがに気づいてきたので黙って話を聞くことにした。
「俺、谷口さんのこといいなって思ってて」
「えっ!!!?」
思わず大声で叫ぶと、近くで食後のお喋りをしていた数人がこちらへチラと視線を向けた。
「ちょ、シー!!!声でかいんすよ、矢城さんはぁ本当にもぉ……」
沢崎は人差し指を口にあて、さらに小さな声で言った。
「わ、悪い。お前が?谷口さんを?」
俺もなるべく声を抑えて話す。
「そー。最初はちょっと鈍くさいなーとか思ってたんですけど。なんか健気じゃないですか、あの子。そういうとこ可愛いなぁって。でも谷口さんが矢城さんを好きなのはもうわかりきってたことなんで、空気読んでじっとしてたんす」
そんな事まで……。さっきから驚きの連続で生きた心地がしない。沢崎は一体どんな情報網を持っていると言うんだろう。なんだか怖くなってきた。
「お前は何をどこまで知ってるんだ?社内のこと全部把握してるのか?」
「そんなわけないじゃないですか。でもま
、谷口さんが矢城さんに告白して、振られたまではわかってますよ」
本人に直接聞いたわけじゃないですけど、と付け加えてから何とも言えない微妙な表情で沢崎は言った。
沢崎が知ってるということは、少なくとも社内には他にも知っている人がいるという事だ。谷口さんは周りに言いふらすような人間じゃないし、噂が独り歩きしているだけだと思うが、それなら俺達の噂が美山の耳に入るのもそう遠い未来ではないだろう。そんな事になったら同居を解消しようと言い出すに決まっている。
「沢崎には悪いけど俺と美山は付き合ってない。一時的に同居はしてるけど、飯はその礼として作ってもらってるだけ。どうしてこうなったかは個人のプライバシーに関わることだから言わない。ただ俺達が付き合ってる事実はないって事ははっきり言っておく。他の噂してる連中にもそう言っておけ」
一気にまくし立てた俺を沢崎はポカンと口を開けて見ていた。何か聞きたそうな顔を無視して、俺は弁当の残りを食べ始めた。
今日は先に帰る、と美山に告げられた時、心臓がヒヤリとした。一瞬、噂を聞いて距離を取っているのかと思い頭が真っ白になったが、単に夕飯の買い出しに行きたいからだという。俺はまだ仕事が残っているから帰れない。
夜道は危ないし、一緒に帰ろうと言うと「あれからもう一週間以上経ってるんだから大丈夫だよ」とすました顔で言ってのけ、さっさと帰ってしまった。
俺は焦って残っている仕事に手を付けた。指先はタイピングを続けているが、頭の片隅ではあの時の映像がフラッシュバックしていた。凶器を振り上げた男の姿、怯えた美山の表情。あの時もし見つけていなかったら……。そんな事を考えていたら、いつもならしないような小さなミスを繰り返してしまった。油断した瞬間が一番危ない。今すぐにでも駆け出したい気持ちを抑えるのに必死だった。
ようやく一区切りがつき、鞄に手を掛けた所で沢崎に呼び止められる。
「助けてください!矢城さん!」
「いやだ。じゃあな」
「ちょ、ちょっと!待ってください!」
腕に縋りついてくる沢崎を払おうとするが、向こうは離す気などさらさらないらしく、さらに強く腕を巻きつけてくる。
「お願いです!これをあと1時間以内に直さないとクビになる〜〜!!」
「大げさなんだよ、お前は。離せっつの」
半泣きの沢崎の訴えを無視してエレベーターまで一直線に歩き出す。それでも沢崎は懲りずに俺の眼前へ書類を突きつけた。
「矢城さん、俺のミス一瞬で見つけるじゃないですか!得意でしょ!?」
「一つ一つ照らし合わせれば終わる仕事だろ。甘えんな」
「先方が待ってくれないんです!一時間以内なんて無理です!」
エレベーターホールに沢崎の声が響く。
「今日はダメなんだって。他を当たれ」
言いながら下ボタンを押した。階数を表す点滅が一階から二階へと移っていく。
「矢城さん、こんなこと言いたかないけど、俺はちゃんと火消ししましたよ」
今にも消え入りそうな声で沢崎は言った。
「さりげなく噂を止めるって結構大変なんですからね」
その言葉の裏に借りを返せ、という意味があることくらい、いくら鈍感な俺でもわかった。
沢崎は本来、見返りを求めるような男じゃない。調子のいいやつではあるが、さっぱりした性格だ。要するにそれくらい切羽詰まった状態だという事か。
エレベーターのドアが開く。だがそれには乗らずオフィスに引き返した。
「矢城さん!」
「これでチャラだからな」
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