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「男なら誰でもいいってわけじゃない」
美山は俺に向かってそう言った。
彼氏と別れたと言って、泣いて、泣いて、泣き疲れて眠ってしまった美山に、キスしようとしたらそう言われた。そりゃそうだよな、と思った。
同僚、美山透にカミングアウトされたのは五年前、その日も美山は彼氏に振られて落ち込んでいた。そんな事を知る由もない俺は、話せば楽になる事もあるだろうと楽観的に考えて、元気のない美山を会社の近くの居酒屋に誘った。
美山はその日、それはもう無茶苦茶な飲み方をした。ろくに食べもしないで飲みまくり、そして突然「恋人に振られたんだ」と泣き出したのだ。
中学、高校と野球に明け暮れていた俺からすれば、失恋で泣くなんてものはある種のカルチャーショックでもあり、正直面を食らった。ちなみに俺が最後に泣いたのは高校3年生の時、甲子園をかけた県大会の敗退が決まったときだ。
そういうわけで、こんな時どういう言葉をかけていいのかわからず、元気出せ、とか他にも女はいる、とかそんなようなことを言ったような気がする。今になって思えば無責任でデリカシーのかけらもない言葉だった。
それを聞いた美山はふっと泣き止み、半分くらい残ってたビールを一気に飲み干した後「俺、ゲイなんだ」と、ようやく絞りだしたような声で呟いた。
その小さな呟きは、隣客達の騒ぎ声を掻き消しそうな程の破壊力で俺の脳内に響いた。聞き間違えじゃないかと思ったが、美山の様子を見る限りそうではないらしかった。
美山は男の俺から見ても芸能人のようにかっこいいと思うし、わかりにくいが優しい。成績も上々で同期の中では一番のホープだった。もちろん女の子との噂だって一度どころか何度も聞いた。だからこそ「なんで?」なんておかしな質問をしてしまったのだ。
俺のとんちんかんな質問に対して美山は「さぁ、なんでだろ。昔から男しか好きになれない」と、赤い目を擦りながら笑った。
「やめてよ。まじで」
美山は半分すわった目で俺を見据えるとしゃくりをひとつあげてから目を閉じ、今度は本当に眠ったようだった。
そのまま床で眠ってしまった美山に毛布をかける。振られたと言っては毎回こんな風にぐでんぐでんになるまで酔っ払って、あげく終電を逃す。家へ泊めるのはもう何度目だろう。指折りしながら数えてみれば、片手じゃ足りなかった。
美山は短い恋を繰り返す。期間は短くてもそれはいつでも真剣で、恋が終わるたび、目には見えない傷跡が増えていくようだった。そんな自分をすり減らすような恋ばかりして、いつか美山が消えてなくなっちゃうんじゃないかと、俺は本気で心配していた。
その心配が友達の域を超えている、と感じたのはいつからだろう。いつの頃からか彼氏ができた、と報告してくる美山をみると胸が痛いくらいに苦しくなった。青春時代を部活に費やし、愛だ恋だと周りが騒いでいるのを傍目にみていた俺が、この気持ちを断言するにはまだ自信がない。だけど、この胸の痛みに名前を付けるんだとしたらこれはたぶんそうなんだと思う。
俺は、美山に恋をしている。
翌朝起きると、お味噌汁に卵焼き、おにぎりの3点セットがテーブルに並んでいた。
「おはよ、勝手に冷蔵庫のもので作っちゃった」
美山は言いながら蛇口を閉め、タオルで手を拭いてからテーブルについた。
食べ始めようとする美山に、昨日はごめんと切り出す。美山の長くて繊細なまつげとか形の良い引き締まった唇なんかをぼんやり眺めていたら、どいうわけか体が勝手に動いていた。無意識のうちに体が動くなんて体験は初めてで、自分でも混乱している。けど無意識だったからなんて言い訳にはならないし、謝るのが筋だろうと思った。
美山はみそ汁の入った碗を持って、何のことだか思案しているような素振りを見せてから、何が?と聞き返してきた。
「覚えてねぇの?」
「あんだけ飲めば記憶も飛ぶだろ。二日酔いにならなかったのが不思議なくらいだな。何かあったの?」
「……いや、なんでもない」
覚えていないのならその方が良いのかもしれない。好きでもない相手からそういうことをされたっていうのは、例え覚えていなかったとしても気持ちのいいものではないだろう。こっちとしては告白する前からふられたような形になってしまったのが切なくもあるが、仕方ない。
美山の作った朝食はどれも美味しくて、それを素直に伝えると「でしょ」と、照れくさそうに味噌汁を啜った。
週が明け、少しは元気になったかと期待して美山に声をかけてみると、なんだかあまり晴れやかとはいえない笑みが返ってきた。今までは落ち込みこそすれど、それは酒の席だけで、月曜日になれば大抵いつも通りに仕事をこなしていた。美山は仕事にプライベートを持ち込まないタイプだ。でも今回は今まで見てきた中でも交際期間は最長だったと思うし、さすがにショックがでかかったのかもしれない。あからさまに元気のない美山を見て女子社員もみんな心配そうにしている。もしかしたら今がチャンス、と目を光らせている女子もいるかもしれない。
午前中の外回りから戻り、社内食堂でラーメンを啜っていると、目の前に薄いお揚げが浮かんだうどんが置かれる。
「ジロさん。ここ、いいですか?」
顔を上げると、谷口さんが真剣な表情で立っていた。片手には薄いピンクのお財布が握られている。
「どうぞ」
「失礼します」
谷口さんは俺の事をジロさん、と呼ぶ。苗字の矢城から矢をとってジロさん。そんな風に俺の事を呼ぶのは谷口さんだけだ。
谷口さんは「ちょっと小耳に挟んだんですけど」と前置きをしてから、美山が最近別れた事を持ち出した。気になるのかと尋ねると、顔の前で一生懸命手を動かす。
「ち、違いますよ!友達が!美山さんに直接聞けないからジロさんに聞いてみてって!」
谷口さんは顔を真っ赤にして力説しているが、どこからどうみても美山が好きだということがバレバレな態度だ。
「本当に、本当に違いますからね!?」
と念押ししながら、割り箸をパキンと二つに折った。左右対称に折れなかったようで、変な形の箸を困惑顔で見つめて小さくため息を漏らした。
谷口さんは今年入社した子で、雑用なんかも率先してこなしているし、なにより社内の空気を和ませてくれる明るい子だ。かと言って派手にでしゃばるわけでもなく、謙虚な所が上司からは好評だった。直接のやりとりが多いわけじゃないが、何かと気にかけてくれる子なのでこちらとしても話しやすく、お昼を時々一緒にとったりすることがある。
「お疲れ」
隣の席に美山が座った。持ってきたトレーには今日のオススメ「フライの2種盛り」になぜか一つ多くエビフライが乗っており、ご飯も心無しか多いような気がした。食堂のおばちゃん達もみんな美山にメロメロなのだ。
美山はちらりと谷口さんの方へ視線を向け「オジャマだった?」とニヤけた。谷口さんは頬を赤らめ「滅相もございません!どうぞどうぞ!」と、両手を前に差し出す。
慌てふためく谷口さんが面白くて思わず吹き出すと、それに釣られたように美山も声を上げて笑った。美山が女の子に囲まれているところはよくみるが、その中に谷口さんがいることはほとんどない。そう考えると、谷口さんは好きな人には積極的になれない性分なのかもしれなかった。
「あれ、谷口さんってお弁当じゃないんだ?」
そう言って美山はエビフライに齧り付く。
「普段はお弁当作ってくるんですけど、今日は寝坊しちゃって……」
恥ずかしそうに谷口さんが笑う。
「いいなぁ、弁当。俺ちゃんとした手料理なんてここしばらく食ってないかも。……あ、でもこの前美山が作ってくれたか」
「あんなの手料理の範疇じゃないだろ」
自嘲気味に返す美山の言葉を谷口さんがえっ!っと声を上げて遮る。
「っと、大きな声出してすみません。美山さんとジロさんってお互いの家を行き来したりするんですね?」
「こいつ時々帰れなくなるくらい飲んで潰れるんだよ」
谷口さんは大げさに驚いて、潰れる程酒を飲む事も、美山が料理を作ることも意外だと洩らした。
「だよな。この見た目からは想像つかないよな」
二人して率直な感想をぶつけると、美山は俺ってどんな風に見えてるわけ?と、尋ねてきた。
谷口さんは考え込むように腕組みをすると、ぽつぽつと言葉を選びながら話し始める。
「美山さんって仕事も誰かに頼らず一人で全部こなしますし、完璧っていうか……」
「ミスターパーフェクト」
俺がそう言って茶化すと、美山は「うるさい」と肘で小突いた。
「初めはちょっと近寄りがたいイメージだったんですけど、でも実際話してみたらそんなことなくて、優しいですよね。みんなも言ってます」
谷口さんは美山に向かって微笑んで見せる。
話を聞きながら、入社してすぐの頃を思い出した。当時、美山はその容姿も相まってかなり目立っていた。スタートラインは同じはずなのに、頭一つ抜け出た営業成績に、同期の連中は羨望と嫉妬が入り混じった目で美山を見ていた様に思う。さらに美山が持つ独特な雰囲気のせいもあって、みんな美山にはどことなく態度がよそよそしかった。本人もそれに気付いてなのか、しばらくは距離を取って接していたように思う。
今となっては笑い話だが、あの時の社内の妙な空気は自分の中ではやっかいな問題だった。結果的に時間が経つにつれ、美山の良さを周囲がだんだんと理解し始めてあっさりと問題解決したのだが。
「近寄りがたいか」
美山は残念そうに小さなため息をついた。その様子に谷口さんは慌ててフォローを入れる。
「あ、最初だけ!今は全然です!」
「ありがと。でも営業にとっては致命的だよなぁ」
美山は皮肉っぽく笑いながら、水を飲み下した。
「まぁ、見た目じゃ判断できないって事だよな。俺だってこう見えて結構繊細だし」
と、言ったそばから美山と谷口さんの疑いの眼差しに思わずたじろぐ。
「な、なんだよ!俺は体はデカくてもハートはガラスのように脆くてだなぁ」
俺の必死の訴えも虚しく、二人からの呆れたような視線に居心地が悪くなるばかりだった。
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