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一
「ん゛んんぬ゛おぉぉぉぉぉぉぅぅぅっ!!」
地底からとどろくような奇声に、奈古尚太郎は縮み上がった。
ここはモンスターの跋扈する異世界ではない。
……いや、ある意味、異世界かもしれない。
広々としたフロアには、様々な形状をした鉄の塊……もとい先進的なトレーニングマシンがずらりと並んでいる。
それらを鬼の形相で弄ぶのは、隆々とした筋肉を持つ男たちだ。
彼らの汗が、ビカビカに磨き上げられた床にしたたり、彼らが放出するテストステロンが、高級車のショールームのようなスタイリッシュな空間に、昭和スポ根マンガに出てくる弱小だけど熱血な運動部の部室さながらの泥臭さを生んでいる。
浅く深く繰り返されるマッチョたちの呼吸とうめき、鉄と鉄の摩擦音が、洋楽BGMと絡み合い、カオスな音色となって響いている。
冷房がよく効いているにもかかわらず異様な熱気を浴びた尚太郎は、だらだらと汗を流してたじろいだ。
(ここは、僕には立ち入れない領域ではないだろうか)
うつむくと、でっぷりした腹が目に入った。少しでも痩せて見えるよう黒いシャツを着ているが、会社の後輩いわく「お相撲さん」のような体型は、やはり色ごときではごまかせていない。
(やっぱり場違いだよな……)
急速にやる気がしぼんでいく。
半年前、会社の近くにこの日本最大フィットネスチェーン「Kフィットネス」のジムができてから、通勤で前を通るたびに気になっていた。
『スポーツジムに通う=痩せる』の方程式は子供でも理解できる。なかなか運動を継続できない自分でも、ジムに通えばなんとかなるはず。
そんな茫洋とした希望を抱いたものの、実際に入る勇気はなく、明日でいいや、来週でいいや、来月でいいやと先送りしていた。
けれどこの日、後輩にしつこく体型を揶揄われたことで『痩せなければスイッチ』が強く入った。
(やるぞ! 僕は、変わるんだ!)
黒縁メガネの奥にメラメラと決意の炎を踊らせた尚太郎は、退社したその足でKフィットネスへ走り(傍目では歩き)、受付で会員登録を済ませ、ロッカールームでXXXXLサイズのスーツからTシャツとジャージに着替え、まん丸な輪郭を隠していた長めの癖毛も思い切ってひとつに結わえ、トレーニングフロアのドアを開け……3歩目で意気消沈した。
(帰ろう……)
ふらりと後ろを向いた瞬間、ぽよん! 何かにぶつかった。人だ。常であれば相手が倒れることがあっても自分が倒れることはないが、メンタルの弱りが足にきていた尚太郎は、よろめいて尻餅をついてしまった。
「大丈夫ですか」
「……はい、僕の尻は衝撃吸収性に優れているので」
卑屈モードだったため変な自嘲で返してしまった。情けなさに顔を赤くして、メガネを直しながら謝る。
「すみません、僕……」
「ぶふぉあっ!」
メガネに水滴が飛んできた。それを拭って顔を上げると、口を押さえて小刻みに肩を震わせる男と目が合った。
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