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次の瞬間、周りのマッチョたちが消えていた。全員ものすごいスピードでフロアの入口へダッシュしていた。初売りですら見かけない必死さであっという間にドアの前にできた肉だかり。
その中央で、すっと手が挙がった。
とたんに肉だかりはモーゼの海さながらに拓け、そこから50代くらいの男が出てきた。
彫りの深い怜悧な顔立ちの男だ。180㎝ほどの長身に高級そうなスーツをまとい、いかにもエグゼクティブな雰囲気がある。
しかしそれ以上に違和感がある。身体が分厚すぎるのだ。頭部と身体のサイズ感が、雑すぎる合成並みに合っていない。
男はおもむろに極太の両腕を頭上に上げた。
それを周囲のマッチョ集団は、息を荒くしてよだれを垂らしながらうっとりと見つめている。
尚太郎は、隣で冷静に佇立している藤を見た。
「あ、あの、藤さん、」
「はい?」
「あのひと誰ですか?」
「うちの会長です」
「えっ、会長……って、じゃあ、来宮選手のお父さんですか!?」
「はい」
「うわぁ~すごい! ボクシング詳しくない僕でも知ってるヒーローのお父さんに会えるなんて!」
「お父さんお父さんとおっしゃいますが、あの方もヒーローなんですよ」
「え、あの人も世界4大タイトル統一ミドル級チャンピオンになったあと、WBAで5階級制覇したんですか!?」
「違います。私たちトレーニーにとっては、です。何を隠そうあの方は、ミスターオリンピアで日本人初の2位を取った伝説の男、楠木進介。年齢を重ねても衰えるどころか重厚さを増していく筋繊維。巨岩の上に絡みつく木の根のように浮き上がる血管。長年のリアルフードプロテインの効果が発揮された艶のある肌。スーツなどでは到底覆い隠せないボディフォルム。彼がそこにいるだけで目を奪われる。ただ背伸びをしただけでオリバーよりもオリバーらしいオリバーポーズを決めたように見える。ミスターパーフェクトの称号があれほど似合う男はいません」
「へ、へぇ……なんか、すごい人なんですね」
「ええ、追いかけても追いかけても手の届かない巨星、私の永遠の目標です。……ですが、あなたなら、あの人に近づけるかもしれない」
「僕が?」
「あなたに会ったとき、雷が落ちたようなビリビリとした震えを腹部に感じました。あの強力な振動……高周波EMSでも味わえません。あなたは本物だ、ダイヤの原石だと直感しました」
「……その振動は、爆笑によるものだと思います」
その言をさらりと聞き流した藤は、尚太郎のぼてっとした腹に、左右均等にくっきり割れた腹筋を押しつけた。
「あなたは自信がなさすぎる。無意識のうちに自分にはできないと思い込んで諦めている。だから本当は平気で持てるはずのウエイトも、精神的に重く感じて持てないんです」
そのままぐいぐい押していく。
「あなたは、幼いころから高重量の脂肪を着込んで生活してきた。にもかかわらず関節などを痛めることなく183㎝まですくすくと育った。それは自重を常に支えていられる生まれつき頑丈な骨、体幹、筋肉が、その脂肪の中に隠れているからです。だからその体重で2分もぶら下がっていられたんです。
脂肪を取り除いて筋肉をさらに増量したなら、あなたは誰よりも輝ける」
整った顔をこれでもかと尚太郎に近づけて、
「変わりたいのでしょう? 私ならあなたを変えられます。あなたは若く高身長で骨格が大きいので基礎代謝でかなりのエネルギーを使える。つまり痩せやすいんです。私に従えば、必ずかっこいい身体になれますよ」
藤の熱烈な瞳に引き込まれた尚太郎は、自分がいつの間にかジムエリアから押し出されていたことも、藤がどこか警戒した表情でドアを閉めたことにも気づかず、反射的にうなずいていた。
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