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人々が消え去り、男もまた、彼女のまえに姿を現すことはなかった。
男が、ふたたび、彼女のまえに現れた。
男は、ひどく年をとっていた。
彼女は最初、男だと認識することができなかった。
「ずいぶん、おじさんになったのね」
思わず彼女はそう男に声をかけた。
「ぼくももう、すっかりおじさんだよ」
男はそうつぶやいた。
そして彼女にやさしくふれ、また以前と同じように彼女にもたれかかった。
男の重さを感じたが、彼女には以前よりもだいぶ軽くなっているように感じられた。
「もうぼくは、ここにこられないと思う」
小さくなった男が、小さくそうつぶやいた。
そのつぶやきを彼女はひとり受け止める。
風がふたりの間を吹き抜けていく。
「おまえは、変わらず美しい」
そういった男の瞳が、きらりと輝いた。
その瞳に、思わず彼女ははっと息をのんだ。
そして男はもう一度彼女のからだにやさしくふれた。
そのぬくもりが、彼女のからだを通し、彼女にも感じられた。
男はゆっくりと、立ち上がると、彼女に額をおしつけた。
彼女はそれを黙って見つめていた。
そして、ゆっくりと彼女から離れると、姿を消した。
そして二度と、現れることはなかった。
日は昇り、日は沈む。
彼女はひとり大地に立ち尽くしていた。
彼女の瞳から、ひとすじの涙がこぼれ落ちた。
人々の姿が消え去り、彼女の心の中に、また孤独がうずまき始めた。
それは、日が昇り、日が沈み、そして月が輝き、星がまたたく間に、どんどんと大きくなっていった。
彼女のひとみからこぼれ落ちた涙は、彼女から大地につたい落ち、やがて地平線に向かい、どんどんと広がっていった。
それはやがて大きな闇となった。
日が昇り、日が沈むと、闇が彼女を包むようになっていった。
彼女はその闇におびえ、くる日もくる日も光を求めた。
光をもとめ、彼女は光の中に眠り、そして夜になると、光を求め、また涙した。
そんな折、彼らが、彼女の足元にやってきた。
彼らは、彼女を取り囲み、わあわあとたくさんの声をあげた。
その日は、他にもたくさんの人が彼女の足元に集っていた。
その中でふたりの男女が、彼女の足元で見つめあっていることに彼女は気がついた。
見つめあうふたりに、彼女は、かつて自分を見つめていた男の瞳を重ね合わせた。
彼女はそれを、目を細めながら見つめていた。
じっと見つめあっていた男と女は、互いに微笑みあうと、手をふって別れた。
そして人波は、ふたてに分かれると、そのまま別々のほうへと歩き出していった。
女のほうが彼女のほうをふりかえり、ちらりと彼女を見つめた。
その瞳の輝きに、彼女は思わず息をのんだ。
なつかしいあの男の瞳によく似ていた。
そして、また彼女はひとりになった。
けれど、彼女は夜が待ち遠しく感じられた。
きっとふたりはまた私のところにきてくれる、そんな素敵な予感がした。
やがて日が沈むと、ふたりがふたたび彼女の足元を訪れた。
彼女はふたりのようすを微笑みながら眺めていた。
「ごめん、ごめん」
男はそういいながら、彼女の足元に少し小走りでやってきた。
「おそい」
女がそういって男を迎えると、ゆっくりと彼女の足元に腰を下ろした。
男もそれに続いて腰を下ろした。
「まさかこんなところでナンパされるなんて思わなかった」
女はそう、笑顔でいった。
「ナンパじゃないよ」
「ナンパでしょう?」
ふたりはそういって顔を見合わせると、ふたりで声を出して笑った。
「ああ、おかしい」
女はそういって、腹を抱えた。
「私、ここ好きなの」
女はそういって、彼女を見上げた。
「とっても大きくて、とっても素敵」
「そうだね」
男はそういって、女の肩に手を回した。
「素敵でしょう、ここ」
「うん」
「星空もとってもきれい」
「うん」
ふたりの上では星がきらきらとまたたいていた。
星たちも、ふたりのことをじっと息をひそめ
て見つめていた。
なにか、とても素敵なことが起こる。そんな素敵な予感がした。
「ねえ」
男が女にそう語りかけた。
「まだ会ってほんの数時間しかたってないけどさ」
「うん」
「好きだよ」
そういって、男が顔を真っ赤に赤らめたのを、彼女は見逃さなかった。
そして、彼女の足元にいる女もまた、それを見逃さなかった。
男がゆっくりと女から視線をはずす。
赤くなった顔は、まるでりんごのようだった。
「りんごみたいだね」
女はそう男に語りかけた。
「そんなことない」
男は目をそらしながらそういった。
女はゆっくりと男の肩によりかかった。
そのふたりの間を風がやさしく吹き抜けていった。
心地よい。彼女は久しぶりにそう思った。
ふたりの重さと、ぬくもりを感じて。
ふたりはただ目を細め、じっと彼女にもたれかかりながら、静かに座っていた。
「私も、好きだよ」
女が不意につぶやいた。
「まだ、会って数時間しかたってないけど」
そのことばに男がふっと笑みをこぼした。
それにつられて女も笑った。
彼女もそれにつられ、少しだけ大きなからだをゆすった。
「まだ、会って数時間しかたってないけど」
男が小さくそうつぶやいた。
「また、会える?」
女がそう男に問いかけた。
「うん、また会おう、必ず」
ふたりはそういって静かに見つめあった。
「星がきれいですね」
女がそう小さくつぶやいた。
そしてふたりは手をとりあった。
そしてゆっくりと立ち上がると、手を取りながら、彼女の元を離れていった。
女が途中、彼女のほうをふりむいた。
美しい瞳が、彼女を優しく見つめていた。
遠ざかっていくふたりが、星のかなたまで消えていくのを、彼女はじっとひとり見つめていた。
そして、また彼女はまたひとりになった。
日は昇り、日は沈む。
彼女のまわりに現れる人影は、どんどんと減っていった。
彼女はそのたびに、孤独に涙を流した。
その涙は大地をつたい、徐々に地平線へと広がっていった。
彼女は大地に立てられた支柱に腕を持たれかけ、ずっとひとり空を眺めていた。
通り過ぎる雲たちも、風たちも、太陽も、彼女を孤独に追い込んでいった。
彼女の中の闇が、どんどんと広がっていった。
そして、日が沈むと、それは地平線から、まるで波のようにうねりをあげ、ついに彼女のまえにあらわれた。
闇は、日が沈むと、地平線のかなたから姿を現した。
そしてどんどんと波のようにうねりをあげ、彼女の近くへとゆっくりと近づいていった。
彼女はその存在に気がついた。
そして、同時に彼女は知っていた。
それは彼女自身が生み出した闇だということを。
彼女はそのときに、彼女の子供たちの声を聞いた。
必ず彼女を守るという力強い意思を。
そこで彼女は子供たちに武器を与えた。
子供たちが、彼女の元から舞い降りるとき、彼女はそれぞれに自分の胎内で作った武器を手渡した。
彼女の葉は、矢となり、地面に舞い落ちると、子供たちは、それらを拾い、手にした。
「必ず守ります」
子供たちはそう口々に唱えていた。
子供たちは、彼女のために、懸命に戦った。
母を守る。
その強い意志が、彼女の子供たちを突き動かしていた。
矢は無数に放たれ、闇のうねりをどんどんと地平線のむこうへと追いやっていった。
そして日が昇ると、闇が姿を消した。
彼女は戦いに疲れ果て、だらりと支柱にもたれかかり、腕を力なく、広げた。
雲は流れ、風は吹き、気がつけばまた日が沈む。
彼女が力なくもたれかかっている間に、またゆっくりと闇が姿を現した。
今日も、大きなうねりが、地平線のかなたから現れた。
彼女の子供たちは今日も、武器を手に取り、それを懸命に押し返していく。
夜はこうして終わっていく。
彼女は、涙を流し続けた。朝の孤独に、夜の闇に。
彼女の涙は絶えることなく、大地にあふれつづけた。
彼女の思いは、誰にも届かない。
彼女はただひとり、涙を流し続けた。
彼女はひとり、闇におびえていた。
日は昇り、日は沈む。
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