月と太陽

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 ドアを開けるとカランと乾いた音が鳴った。傘を閉じて、振って軽く水を飛ばし、店の入り口にある傘立てに入れる。店内の暖房に少しホッとした気持ちがした。そこは、大通りから少し路地に入ったところにある小さな喫茶店で、店内は少し暗くなっており、ジャズが流れていた。私がよく来るこの時間はいつも客が少ない。今日は、私のほかには、店の奥の方に、高齢と思われる、手にしわのある白髪で髪の生え際が後頭部あたりまで後退している人が、私に背を向けて1人静かに座っているだけだった。その人はくたくたの古びたセーターを着ていた。そのセーターはもう何年も使われているように見えた。  私は、入り口近くのテーブルに着き、コートを脱いで、ホットコーヒーを注文し、それが運ばれてくると、冬の寒さと雨のせいで冷たくなった手をコップに添え、温めるようにしながら口へ運んだ。一口飲むとそれは苦くて、そこで砂糖もミルクも入れていないことに気づいた。  ホットコーヒーを待っている途中に、友人から、もうすぐ着きそうというメッセージが来ていた。今日は、大学を卒業した後就職して、私とその友人が離れることになるということで、最後に会っておこうと私が言ったのだった。私は、このまま関西に残るが、友人の方は東京に行くとかでいろいろ忙しいらしい。恋人と連絡を取り合って、いろいろ同居するための段取りを決めているらしいという噂を別の友人から聞いた。今から会う予定の友人はその忙しいところをなんとか時間をつけてくれたようだった。  会おうと私が誘ったのは、同じサークルではないけど、同じ学部でよく同じ講義をとっていて、講義の後の昼食を一緒に食べて妙に親しくなったから。でも、それとは別に、大学を卒業したら完全に縁が切れてしまいそうで、これを機に、今後も何かの理由を作ってこの友人と会えるようにならないかという下心のようなものもあった。  コーヒーを一口飲んだあと、少ししてベージュ色のコートを着た友人が歩いてくるのが店の窓から見えた。このとき、私は、いつも大学に行くような服で来てしまったことを後悔した。もっときちんとした服装で来ればよかった。その後悔は、友人が店に入ってきて私に近づくにつれて大きくなった。  友人は店に入ってくると、手を振りながら少し駆け足気味で私のテーブルのところまで来て、着ていたコートを脱いで、隣の椅子に置いて座った。 「久しぶり。なんかこんなとこで会うの、珍しいやんな」  友人は、ホットコーヒーを注文しながら、私に話しかけた。 「まぁね。でもゆうてそんな久しぶりでもないけどな。講義で1月の終わりくらいに会って、そんで今2月の終わりくらいだし」 「せやな」  友人のナチュラルショートの黒髪が少し揺れ、黒い大きな瞳と口元から少し笑顔がこぼれる。顔は丸く頬のあたりがぷくっと膨らんでいる感じで、そのせいもあって、その笑顔がとてもかわいかった。その笑顔はまるで太陽のように輝いていて、月がそれに照らされて明るくなるように、こちらまで思わず笑顔になってしまう。 「最近はどうなん?東京行く準備は順調?」  私がそう問いかけると友人は、それがなぁ、と少しうれしそうに語り始めた。 「最初は寮に入んねんけど、いろいろ荷物に持ち込み制限があんねん。大学の般教の期末テストのがもっと緩かったわ。ドイ語のテストとかなんでも持ち込み可やったやろ?」  友人は、運ばれてきたコーヒーに砂糖とミルクを入れて一口飲んだ。 その後も、今の下宿の片づけが大変なこととか、今度の家具はこういうのがかわいくて、こんなのをそろえたいとかそういう話をたくさん聞いた。 「そういえば、東京行ったら小島さんと同居するって噂を聞いたけど、ほんとなん?」  私は冗談まじりに尋ねた。 「そんなん嘘に決まってるやろ。誰がゆうたん、そんなこと」  きっぱりと否定しながらも、うれしそうにして、照れている様子を見ると、まんざらでもなさそうだ。ちなみに小島さんというのが、この友人の恋人で、私も顔なじみである。その人は、小柄でかわいい、ふんわりとした雰囲気の人だ。私のように筋肉でごつごつしておらずやわらかい感じで、私の低い声と違ってのどぼとけもなくて声がかわいらしかった。  ふと会話が途切れた時、後ろに座っていた高齢のあの人が会計をしているようで、店主と笑いながら会話をしているのが聞こえてきて、思わず耳をすませた。 「俺は男やで。きれいな姉ちゃんがおった方がうれしいわ。ああ、今じゃ男とか女とかそんなこと言わへんのか。なんや、いつのまにか男が男を好きになったり、女が女を好きになったりするのが普通になって、昔に比べたらえらい変わりましたなぁ。そう思いますやろ」  男、女という言葉を使っている人を私は初めて見た。そんな言葉は、私の生まれる前に消滅していたらしく、今では歴史の現代史で習うときに聞くだけだった。授業で習ったことには、昔、男性は女性を、女性は男性を好きになるのが普通だったが、だんだん男性が男性を、女性が女性を好きになること、外見と本人が考えている性別の不一致が受け入れられ始め、LGBTという言葉も使われるようになって、そうであるなら、もう性別で区別することに意味がないのではないか、確かに治療の場面などでは必要かもしれないが、それは外見上の特徴などで区別すれば十分ではないか、ということで徐々に性別廃止の機運が高まり、使われなくなっていった、ということだった。  しかし私は、逆にある意味で言い訳にすることもできていたのではないかと思うのだった。男だから、女だからしょうがないと。自分の努力ではどうしようもないものとして、何かを諦めるときの言い訳には最適だったのではないか。もし私が男だったとしたら、そしてこの友人が女の人を好きだったとしたら、私が友人の恋人になることを諦めるいい良き言い訳になったのではないか。  だけど、現実には、そうはなっておらず、友人は私のことを好きになることはないのだという現実だけが存在している気がした。それは、いつも一緒に昼食を食べながら話をしていた時から分かっていたことであって、その現実を突きつけられるたび、胸が詰まる思いになった。  1時間くらい話した後、友人は時計を見て、もうそろそろ帰らないとと言った。いろいろ大変やと言いながらも楽しそうに話しながらうずうずしているような雰囲気のところを見ると、大方これから小島さんと待ち合わせでもしているのだろう。私は、コーヒーが残っていることに気づき、一気に飲んでしまった。もう温かくはなく、苦さだけが残っていた。  北の空から晴れ間が広がっているが、店の前はまだ雨が降り続いていて、寒かった。お互いが傘を差すと、少し距離が遠くなる。恋人になって、一緒に1つの傘に入るという妄想は、もう何度もした。 「ちょっと大学寄って帰るから」  と、私は、友人が行く方向とは別の方向を指さす。そうなん、とだけ友人は言った。立っていると友人は、私の肩くらいの位置に頭があるので、少し上目づかいになって、とてもかわいい。この角度で抱きつかれて甘えられる妄想も、もう何度もした。 「じゃあ、またいつかどこかで会いましょう」  そう私が言うと、 「卒業式には一回会うと思うけどな」  と笑った。もうこの笑顔を見ることはないのだろうなと思った。 「じゃあ、また」  そう言って私が手を振ると、友人もうんと言って手を振って、背を向けて北へ歩き出した。  その後ろ姿をみていたら、目から涙があふれてきた。今まで何をやっていたんだろうと思った。私も、友人に背を向けて歩き出したけれど、涙で前が見えなくて止まってしまった。もう後悔をしても遅かった。  友人が、昔でいう女の子のような人が好きだと思ってから、私ではもう無理なんだと諦めようとした。それで、私の所属するサークルでの友人が、諦めるには別の好きな人を作るといい、というようなことを言ったから、別の好きな人を作ろうとした。だけど、結局別の好きな人を作ろうとしても、いつもあの友人のことが頭にちらついていて、別の人と付き合っても、いつも中途半端に終わってしまった。結局、自分の中で後悔がただ大きくなっていくだけだった。あのとき、無理でもデートに誘えばよかった。そんな口実はいくらでも作れたはずだった。 「本当に何をやっていたんだろう」  思わず声に出ていた。泣いているせいか声がとぎれとぎれになっていた。なにもしなかったという後悔は私の心を締めつけて、もうどうにもならないくらいに苦しかった。そして本当にもうどうにもならないのだった。  性別があることは言い訳になるかもと考えていたのは甘かった。こんな苦しみは、きっと性別という壁があったとしても、その壁では、合理的には説明できなかったんじゃないだろうかと思う。人がある人を好きになるということは、きっといまだに全く変わってなくて、そこに単語が存在するかどうかは関係なかったのかもしれない。世界の切り分け方が変わっても、世界自体は変わっていなかった。言い訳をして壁を登ろうとしなかった代償は意外にもあまりにも大きくて、この後悔は、自分で自分にかけた呪いのように思われた。  振り返ってみると、もうあの友人はそこにはいなくて、こんな気持ちは1回で十分なのに、本当にどうにもならないんだと、また感じた。  私は、しばらくその場で立ち尽くしていた。
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