glasses・2

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glasses・2

藤堂(とうどう)先生」 「ん?」 「宿題のプリント集めてきました」 『地学準備室』の入り口から不安そうに顔を出していたのは、今時珍しいほどきっちりと黒いセーラー服を着こなした清楚な女子生徒だった。  おさげ姿の彼女を、藤堂が白衣を翻しながら振り返る。 「ああ、ありがとう。ご苦労様」 「いえ……」  女子生徒は、ほんのりと頰を赤らめた。  ひい、ふう、みい……と受け取った紙の束を数えている藤堂を視界の端に捉えながら、なにとはなしに辺りを見回す。  彼女の視線より少しだけ高い位置に、色とりどりの石がずらりと並べられていた。  ほとんど等間隔に置かれているそれは、左から右へと綺麗なグラデーションになっている。 〝石マニアの変人教師〟と揶揄されている藤堂の鉱石コレクションだ。  透明、半透明、白、乳白色、薄桃色……頭の中で色の名前を唱えながら、ひとつひとつ目で追っていく。  もう何度も目にしたそれらは、何度目にしても初めて見た時のように彼女の心を揺さぶった。  それが石に対するものなのか、その持ち主に対するものなのか、彼女にはまだわからない。 「あれ……?」  だんだんと濃色ゾーンに移っていくと、見慣れない石が目に入った。  思わず目を見張るほど鮮やかな青色をしたそれは、数週間前にはなかったはずだ。 「先生、この石って……」 「ああ、それはラピスラズリというんだ」 「綺麗……」 「だろう?」  眼鏡の向こう側で、藤堂の目が淡い弧を描いた。  高鳴る鼓動を隠すように、女子生徒は慌てて顔を背ける。 「ど、どこで見つけたんですか?」 「ううむ……」 「先生?」 「なんというか……これは、戻ってきた」 「え、戻って……?」 「昔、ある教え子に譲ったんだけれどね」  困ったように眉を下げ、藤堂は四年前のあの日に思いを馳せた。  卒業式の日、とある生徒に泣きつかれたのだ。  好きだ――と。 「藤堂先生、俺、先生が好きです……!」 「三枝(さえぐさ)君……」 「先生、俺、どうしたらいい……?」 『気のせいだ。気の迷いだ』  本当は、そう言ってやるつもりだった。 『大人に対する憧れの気持ちを、恋心と勘違いしているだけだ。よくあることだし、すぐに忘れる』  そう、言ってやるつもりだったのに。 「諦めろって言わないで……!」  鼓膜に縋り付いてくる掠れた声と、しっとりと濡れていく肩口の温もりが、藤堂の思考を狂わせた。 「五年」 「へっ……?」 「五年経ってもその気持ちが変わらなければ、またここに来なさい。そうしたら……」 「そ、そしたら、なに……?」 「……さあな」  唇をひん曲げて不満を露わにする彼の頭を、藤堂はぽんぽんと優しく撫でた。  友人たちに呼ばれ、名残惜しそうに遠ざかっていく背中をじっと見つめる。  その口元には、淡い笑みが浮かんでいた。 「藤堂先生……?」  記憶の中の彼よりもだいぶ高い声が耳に届き、藤堂は我に返った。 「ああ、すまない。きちんと全員分揃っていたよ、ありがとう」  すっかり教師の顔に戻り、藤堂は微笑んだ。  女子生徒を扉の方へと促しながら、視界の端を掠める瑠璃(ラピスラズリ)には気がつかないフリをふる。 「ちゃんと宿題、するんだよ」 「は、はい!」  バタバタと煩雑な足音が小さくなると、藤堂は黒縁の眼鏡を外し、ふう……と長く、深い息を吐いた。  そして、長い指で鼻筋の上流を揉み解している――と。 「あーあ」  藤堂は、大袈裟なほど肩をいからせた。  女子生徒と入れ替わりに顔を覗かせたのは、この春赴任してきたばかりの新任教師だ。 「なにかご用ですか、三枝|」 「用はないんですけど、藤堂先生がいたいけな女子生徒に|罪作りな笑顔を振りまいてるのがグラウンドから見えたんで、飛んできました」 「紛らわしい言い方はやめなさい」  精一杯眉間に皺を作って答え、藤堂は眼鏡をかけ直す。  だがすぐに伸びてきた手に奪い取られ、息を呑んだ。  サッカー部の顧問を務める彼のジャージ姿が、あっという間に輪郭を失う。  ぼやけた世界を、記憶の中のそれよりも僅かに低い声が漂った。 「なんで逃げるんですか?」 「君がそんな瞳で私を見るから」 「そんな瞳って……?」  トン……となにかが背中に当たり、藤堂は壁際に追い詰められてしまったことを知る。  目の前の彼は真摯な瞳をうっとりと細め、首を傾けた。  男にしては長いまつ毛。  薄いが赤みを帯びた形の良い唇。  震える吐息。  視界を覆う色香たっぷりの光景にまた思考を奪われそうになり、だが藤堂は最後の力を振り絞った。 「うぷ」  施される寸前だった口づけを、手のひらで受け止めることになんとか成功する。 「ちょっと!今のは止めるとこじゃないじゃん!」 「十ヶ月」 「へっ……?」 「まだ十ヶ月早い」  居心地の悪い沈黙ののち、藤堂にのしかかっていた重みがスッと離れた。  ぶっきらぼうに差し出された眼鏡をかけ直すと、一気にクリアになる視界。 「藤堂先生」  向けられた鋭い視線に、藤堂の身体が強張る。 「十ヶ月後、覚悟しといてよ」  すっかり広く逞しくなった背中を見送ると、藤堂はようやく椅子にへたり込んだ。 (なぜあんなことを言ってしまったのだろう)  四年前のあの日から、ずっと燻り続けている疑問が頭の中に蘇る。 『五年経ってもその気持ちが変わらなければ――』  なぜ、あんなことを。 「百年と言うべきだった……!」  fin
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