五十年後の君へ

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五十年後の君へ

 小学生の頃、変なクラスメイトがいた。  彼は六年生の四月に転校してきた。目鼻立ちのはっきりした甘いルックスはまるでアイドル。休み時間になると彼の周りに多くの女子が集まって益のない話を姦しく話す。みんな彼に夢中だ。  女子と対照的に、男子は熱い視線を一身に浴びる彼をやっかんでいた。仕方ない。小学生男子はモテたいんだ。  動物園のように騒がしい教室を眺めながら、私は(面倒なクラスになっちゃったなぁ)と憂鬱な気持ちでいた。  ところが、一週間もすると女子は転校生への興味をなくしてしまった。「やっぱり翔の方がカッコいい」「私は俊輔くんが好き」なんて言い出す有り様。始業式で彼が紹介された時は「あの子、この学校で一番カッコいいんじゃない!?」「同じクラスじゃん、ラッキー!」と大騒ぎしていたのに。  小学生女子に心変わりの速さを責めても仕方ない。それに、彼女たちにも一応の理由はある。  転校生は、全く笑わなかったのだ。  女子から解放された転校生はあっという間にクラスに溶け込んだ。きっかけは体育の授業。スポーツが抜群にできると判明したのだ。  次の休み時間から転校生の取り合いが始まった。ドッチボールをやるから俺のチームに入るかあいつのチームに入るか選べ、という具合に。  この頃には「笑わないけどやっぱりカッコいいよね」「部活の顧問が取り合いしてるんだって」と女子の噂話が再燃。彼女たちにも意識の変化があったのだろう。  たくさんの人を惹きつけ、時には衝突しながら、彼はクラスでの立ち位置を確立していった。  そんな騒ぎのなか私は何をしていたかと言うと、何もしていなかった。それはもう見事なまでに。何も。  ピアノと本が友だちです、という子供だった。休み時間は教室でのんびり読書。教室じゃなければ図書室か音楽室に行って、先生や友だちと穏やかな会話を交わす。吹奏楽部に所属している友だちの楽器に触らせて貰うこともあった。音楽の先生が許してくれたらグランドピアノを弾いていたっけ。そんな小学生だったから、運動神経抜群の転校生と関わる機会は何もなかった。  その割に彼のことをよく覚えているのは、当時から好きだったのかもしれないね。  彼と私にできた初めての接点は秋の修学旅行。  五人組の班をつくることになり、私は図書室でよく話す女の子と三人組をつくった。後ふたり、どうしようか。大人しい子がいいな。そうだね。  相談しているとき、学級委員長の隣にいた彼と私の目が合った。 「おい、そこ。組もうぜ」  これだけで班が決まってしまった。 「勝手にごめんね。よろしく。楽しい修学旅行にしよう」 「ううん。こちらこそ、よろしく」  申し訳なさそうに眉を下げる学級委員長を安心させようと、私は笑顔を浮かべる。隣のふたりは呆然としていて、彼へ気を遣える状態ではなかったから。  委員長くんと私の会話でやっと覚醒した彼女たちは、顔を見合わせて小さく悲鳴をあげた。歓喜と恐怖の入り混じったその悲鳴に、私は心底同情したんだ。  女子からの視線が、とても痛かった。  こちらがアタックしたのではなく彼が選んだのが幸いして、班員が危害を加えられるとかいじめに遭うとかはなかった。もしかしたら委員長くんが手を回していたかもしれないけど、それは私の知り得ることではない。  こうして始まった修学旅行準備。日光の地図やガイドブックを見ながら、行きたい場所や気になる場所を決める時間。とんでもない事件が起こった。  委員長くんたち3人が楽しそうに日光の名所を眺めている横で、私は、地図を見て難しい顔をしている彼が気になった。だから、話しかけたのだ。 「何を見てるの?」  彼はプリントの枠外に何かを書きながら地図を指差した。 「これ、川の中に道がいくつもあるだろ。だけど橋の名前はあまりない」  無表情の彼が示したのは蛇尾川。私はこの時「へびおかわ」と読んだが正しくは「さびかわ」だ。日光と同じ栃木県ではあるけれど、那須塩原辺りの川。  修学旅行で行く日光について調べましょう、という授業の趣旨からは完全に脱線していた。消しゴムや定規で遊んでる不真面目なクラスメイトに比べれば可愛いものではあったけれど。  いずれにしても、彼が抱いた疑問への解答は今となっては簡単だ。「橋の名前を全部書くスペースはなかったんだよ」以上。  世の儚さを知らなかった当時の私は、会話の続行を選んだ。 「ほんとだ。どうして?」 「知らないからメモしてる。わかったら教えようか?」 「うん、教えて。私も知りたい」  ここでやっと目が合った。 「……おまえ、変なやつだな」 「えぇ。君には言われたくないなぁ」  失礼なやつだと思ったから笑顔で言い放つ。怒ってる人が笑うと怖いを実践したのだ。自慢にはならないけれど、私のそれは兄から評判が良かったので。 「ははっ、そうかい」  そんな私に、彼は、笑ったんだ。  転校してきてから一度も笑わなかった君が、私には笑顔を返してくれた。 「──で! ……なで! (かなで)!」  あぁ、君の、(あおい)の声が聞こえる。慌ただしく駆け回る看護師さんの足音に、機械のうるさい電子音。 「奏、聞こえるか。奏!」  聞こえてるよ。小さな呟きは酸素マスクに遮られて、葵の耳までは届いてなさそうだ。それでも君は、私の唇を読んでくれた。 「大丈夫だから。大丈夫だからな」  私の手をギュッと握り直しながら言われても。あぁ、ちがう。君は、君自身に言い聞かせているんだね。  ごめん。自分の体のことは、自分が一番わかってる。  私の後を追わせないために葵へ書いた手紙と、家族に向けて書いた遺書。ふたつの封筒を保管してある場所は、この前それぞれに伝えた。遺産とか面倒なことは全部、弁護士になった委員長くんに任せてある。大丈夫。  そっか。今見たのは走馬灯だ。小学校の修学旅行。あの後は大変だったなぁ。君と一緒にクラスの皆から質問責めにされて。「どうして笑ったの!?」って、そんなの私が知りたかったよ。  葵はあれから、よく笑うようになった。修学旅行の写真にも笑顔の彼と私が写っている。笑顔を見せるようになったおかげで、卒業式は苦労していたけど。  ……あぁ、もしかして。君も。  大好きな掌を握り直したつもりだったのに、絡めた指を動かしただけになってしまった。でも、葵が強く握って、私を見てくれたから、いいか。 「ね、わらって」 「ははっ、えぇ、難しいこと言うなぁ」  どうにか絞り出した声も、ちゃんと届いてくれた。 「はい。これでいいか」  大好きな笑顔が見れた。ちょっと引き攣っているけれど、私のためにつくってくれた笑顔。うん。満足だ。 「あおい」 「どうした」  お願い、神様。あと少しでいい。ひとことでいい。葵に、伝えさせて。 「あいしてる」  言えた。  ……言えた!  驚いただろうね。瞳を丸くした葵も大好きだ。だって、滅多に見れない。君が驚くことなんて少ないんだもの。くしゃくしゃに笑う顔を見るのも、初めてだ。 「俺も、愛してる。ずっと」  知ってる。知ってたよ。誰よりも。  愛おしい笑顔を瞳に焼き付けて、瞼を閉じた。掌の体温を感じながら寂しくなるけれど、少しの達成感もある。最後に見るものは葵の笑顔がいい。ずっと思っていたことを実行できた。  それに、やっとわかったんだ。あの時君が笑ったのは、私のことを好きだったからでしょう? 好きな人の笑顔を見れたから笑っちゃったんだ。私は怒っていたから笑ったのに。あははっ、おかしい。でも葵らしいや。  最期なんだ。幸せで楽しい想像をしてもいいよね。あぁ、でも自信はある。この想像は当たってるよ。きっと。  答え合わせは……五十年後くらいにお願いしようかな。
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