思い出の色なんて

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うっすらとした灯油と塗料の混ざった匂いと、ぎしぎし鳴る床と。古めかしいストーブではろくに暖まりもしない爪先を上履きの中で丸めながら、俺は楽しげにスケッチブックへと向かう男を睨みつけた。 「……あの、まだ終わらないんですか?良い加減寒いんですけど」 「大丈夫だよ、寒いのは僕も一緒だ」 「一体何が大丈夫なのか意味が分からないんですが」 じっとしていなければならない手前、出来る事と言えば目の前の相手と話すくらいなのだが、相手はこの通り、学内でも変人で有名な先輩だ。そして何を思ったか、この人は俺をモデルに絵を描きたいと言い出し、更に何の因果か、俺の姉はこの奇特な人の親友に片想いをしていた。要は売られたわけだ。 天を仰ぎたい気持ちにもなったが、角度を変えて描き直しにでもなったらたまらない。溜め息を吐くだけに留めて、目線を動かすだけで見回せる範囲に目を遣ってみた。 机、机の上に放り出された画材道具、椅子、黒板、窓、ーーーー先輩。変な人という印象しかなかったが、絵を描いている横顔は中々に整っていると思う。ふと、指先が少し赤いのに気がついた。自分も寒いと言っていたのは本心だったのか、時折鉛筆を離して握り拳を作ってみたり、左手で右手の指先を解したりしている。 「……絵。そうまでして描くの、楽しいですか?」 「楽しいか楽しくないかは関係ないね!為すべき事だからやっているまでだ」 「ちょっと何言ってるかよく分かんないです……」 ……俺の絵を描く事がやらなきゃいけない事って言うのは、全く意味がわからないけれど。 俺はそんなに美術が得意でも好きでもないから、ここにはぼけっと授業を受けに来て帰る程度だった。飾ってあるポスターの内容にも、今になって漸く目を通したくらいだ。だから自分が此処に居るとどうにも浮いているという感覚が拭えないのだが、目の前の先輩は、まるで初めからこの空間の一部であるかのように馴染んでいる。その事から、この人はそれくらい美術室に入り浸っていて、つまりはそれくらい絵が好きなんだなーーーーと思うと、適当に切り上げて帰らせろ、と強く言う気にはなれなかった。それでもやっぱり寒いし暇なのは変わらないので、急かすくらいはさせて貰うが。 俺にはそこまで情熱を持てるものがないから、そんな熱量で自分の絵が作り上げられるのを見られるのであれば、付き合うのも悪くないかも知れないーーーーなんて思っていられたのは一週間程度で終わると思っていた頃までで、その時の俺は、3学期中まるまる付き合わされた上、結局絵は完成したのかどうかすら教えて貰えないまま先輩が卒業してしまいキレる羽目になる、後の顛末を知らずにいた。
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