元ノー・バウンダリーズドラムス 天照賢志の事始め

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1  《ノー・バウンダリーズ》を知らない、って?  ウソだろ?  ネットしないの?  家にテレビないの?  ラジオも聞かない?  友達としゃべったりしない?  ドラッグストアとか行かない?  雑誌も新聞も読まない?  世捨て人なの?  修行中なの?  ガンジス川で沐浴とか?  セドナで瞑想とか?  ヨシュアツリーの下で深呼吸とか?  コルコバードの丘で両手を広げてみたりとか?  ナイル川を下ってルクソール遺跡に謁見するとか?  朝靄のアーカード城でたたずむとか?  俺は全部やったよ。  休業してすぐ、世界一周ひとり旅に出掛けたがら。  夢だったんだ。    それか、あなたはもっと荒唐無稽な人?    山奥に籠もって燃え盛る剣の山を飛び越えてるとか?  霞を食って千年生きる訓練をしているとか?  筋斗雲に乗る練習してるとか?  は?大げさだって?  いやいや、天下の《ノーバウ》を知らないなんて、世捨て人だって思われてもフシギはないですよって忠告してあげたんだけどな。  申し遅れました。  俺は、天照賢志。  ケンジ、じゃなくて、ケンシ。  ややこしいよな、俺もそう思う。  でも、気に入ってるんだ、この名前。  アマテルって、珍しいだろ?  芸名じゃなくて本名。    日本だけじゃない、世界でカルト的人気を誇った、パンク・ポップ・バンド《ノー・バウンダリーズ》のドラムス。  正確には、元パンク・ポップ・バンド、か。  《ノー・バウンダリーズ》はもう解散してるから。  パンク・ポップって、妙ちきりんなコンセプトだよな。  攻めてるコンサバコーデ、みたいなさ。  インディーズだったころは、ゴリゴリのパンクで、だれにも理解されなくたっていいってハジけてたけど、メジャーデビューの契約交わしたら、色々手が入った。  『ポップ』だとか、ちょっとトガったボーイズバンドだとか、『ノー・バウンダリーズ(境界線)』だとか。  もともと、俺たちは《BBB479》っていうバンドネームだったんだ。いかついだろ?  それを、Cocotレコードのプロデューサーは、さらっと却下して《ノー・バウンダリーズ》を押し付けた。  そりゃ、そういうデザインセンスで、俺たちは売れたから、ある意味では感謝しなきゃなんだけど。  で、そんなスバラシイ経歴の俺が、なんでまた高円寺駅南口から徒歩十分の、外観はそこそこきれいだけれど、内装はやや一昔前なマンションの一室に住み、探偵デビューしたかっていうと…。 「おーい、いつまで寝てるんだ?そろそろ起きろよ」  俺はうっすら目を開ける。  燦々と、昼下がりの日を浴びながら俺は、ベランダに無理やり設置した自立式のハンモックに横たわっていて。  恋人の、純須廉賀がふわふわと、俺の顔をのぞき込んでいる。  俺に被さるように、彼は浮き上がっていて。  強い太陽の光が、彼のからだを透明に変えてしまうけれど、うっすら俺の網膜で像を結ぶ彼の笑顔は、プライスレス。  幽霊って本当に透けてるんだな。  改めて、感動。  廉賀のかたちにくりぬかれた青い空が笑っている。 「もうちょっと」 と、俺は寝返りをうつ。 「もうちょっとって、いつまでだよ? もうすぐ約束の時間だぞ」 「約束の時間?」 「お客さんが来るんだろ? なんてったっけ、大家さんの知り合いの。三時の約束」 「そうだったっけ?」 「僕はウソつかねーよ。さあ、今すぐ起きてそのボサボサ頭をなんとかしな」  飛行機が加速するときみたいに、廉賀はふわっと舞い上がり、ガラス戸をすり抜けて部屋へ戻ってしまう。  いやはや、最初はいちいち心臓ひっくり返してビビってたけど、慣れるもんだね。  俺は上半身を起こし、うんとのびをして、むき出しの肩をぼりぼり掻いた。  今日は天気がいいから、室内に置いている観葉植物を外に出してある。  フィカス・アルテシマ、オリーブ、アグラオネマ。  先日、なじみのプランツショップをのぞいたら、棕櫚竹がめちゃくちゃかっこよかった。  廉賀の反対がなきゃ、即買いしてたのにな。 「なあ、もう三鉢もあるんだぜ? 僕はグリーンハウスの中に住みたかないよ」  ああ、いい日だ。  空でも飛べそうにあたたかいし、太陽はどこまでも遠い。  ヌッと、廉賀の上半身がガラス戸から突き出してきて、俺の視界を阻む。 「おーい!賢志! いいかげん、起きろ! コーヒー、入ってるよ」  げげ。  コーヒー、淹れてくれたのはありがたい、けれど。  本来ならば存在してはいけない存在である廉賀の輪郭を形作っているのは、ありえない微弱の磁場(=廉賀)に引き寄せられた脆弱な電流であるらしい。  不安定だから、ちょっとした地場の変化、つまり、廉賀の感情が高ぶるとか、激しく動くとか、があると、簡単に乱れるらしい。  その乱れに伴って発生する静電気を利用して、廉賀はものを持ち上げたり、傾けたり、飛ばしたり、置いたりする、練習をしている。  つまり。  こぼれた水と、あちこちにちらばっているコーヒーの粉を片付けなくちゃいけないのは、俺?  俺が探偵になったワケ。  そこには大家さんの勘違いと、哀しい恋の物語があるのです。 2  クライアントが来る三時まで、あと三十分ある。  コーヒーを飲みながら、ゆっくり、話をしよう。  寝癖を直せだの、よれよれの服を着替えろだの、靴下を履けだの、ビリビリと静電気を発してポルターガイストの元凶になっている廉賀は、このさい無視して。  部屋中を小物が飛び交っているけれど、本人(本霊?)はいたってまじめで、部屋の片付けをしているつもり、らしい。    どこまで話したっけ?  そうそう、俺は元超人気バンドのメンバーですよってこと。  そもそも、なんで《ノー・バウンダリーズ》かっていうと。  たまたま、日本以外にもルーツがあるメンバーが揃っていたから。  メインボーカルのトーゴ・ブライアンは、アメリカと日本のハーフ。  ギターのkey.pは、台湾と日本のハーフ。  ベースの寄木摩周は帰国子女。ロンドンとパリとドバイにそれぞれ四年ずつ住んでいた。  キーボードのmaskmanは、一番最後に加入したメンバー。元キーボードの純須廉賀の代わりに、マネージャーが探してきた男。  ハーフでも帰国子女でもないけれど、寒い地方出身なので、ノルウェーの血が八分の一入ってる、ってことにしてある。   そして、俺。  天照賢志。  芸名は、ベルナルド=ケンジ・モアレス。  ケンシじゃなくてケンジにしたのは、なんとなく、完全に本名じゃ仕事したくなかったから。  こんな些細な違いでなにが変わるんだって我ながらトンチンカン。  アマテル、なんて日本中探しても、俺の家族と親戚しかいないから、最初から公表する気はなかった。  ベルナルドとモアレスはどっから来たのかっていうと、『ブラジル人の名前』でググったら、一番最初のページに書いてあったから。  俺も、ハーフでも帰国子女でもない。  だけど、俺が育った海辺の町は、地理的なものだか血縁的なものだか、ブラジルへの移民が多くて、ブラジルの小さい町と姉妹協定を結んでいる。  というわけで、俺は日系ブラジル人ってことになってる。  まあ、あながちウソじゃない。  俺の父親は、サンパウロ生まれらしいから。  らしい、っていうのは、俺が父親に会ったことがないから。  俺の父親は、俺が生まれる前に、母親の前から消えてしまった。    母親は、なんで俺を生んだんだろう? 「そりゃ、あなたに会いたかったからよ」  かんたんに、そう笑うけれど。  俺が生まれたのは、東京都杉並区高円寺南。  と、いうわけで俺は今、高円寺に住んでいる。原点回帰ってやつ?  育ったのは、同じ東京都下の反対側だけどね。    東京ってのは不思議な街で、さほど広くもない、川だらけの平地に天国と地獄が並んで共存している。  どこの大都会も同じ、かな。  俺はまあ、天国とは呼べないけど地獄とも呼べない町で育って、バンドが売れてからは六本木のペントハウスに住んでいた。  わかりやすいだろ?  そこで、まあ、朝も夜もないめちゃくちゃな生活をしていたわけだが。  バンドマンって自由そうに見えて、実はそこまで自由じゃない。  秒単位でスケジュールが組まれている。眠りにつく時間さえも指定されていて、三ヶ月に一回の完全フリーは本気で嬉しかった。  あと、トーゴほどじゃないけど体重管理も厳しかった。  細マッチョで売っていたから、体脂肪率を毎日申告しなきゃいけなかった。測定は、マネージャーの目の前でやるから、ごまかせないし。  それに、爆発的に売れたってことは、見ず知らずの連中が皆、俺のことを知ってるってことだから。  ひとときの、はっちゃけタイムですら、四六時中、好奇の目にさらされて、ちょっとアソんだら浮気だ不埒だなんだと書き殴られて。  あ、そうそう。  俺は当時、メインボーカルのトーゴと付き合っていて、同棲もしていたからね。  そういう意味での、《ノー・バウンダリーズ》でもあった。  BL好きな女子向けのアピールっての?  いや、それを楽しんでくれることについて文句はないよ。  だけど、それを売りにするために、疑似恋愛を気取れってマネージャーから命じられたとき、嫌悪感がすごかった。  そこまでする必要はないし、恋愛は見世物じゃない。  でも、トーゴは乗り気だった。  トーゴはバイセクシャルで、当時は俺以外に彼氏も彼女も両方いて、俺ひとり増えるくらい、どうってことなかったんだと思う。  その頃の俺は、廉賀を失ったばかりで、うちひしがれていて、メジャーデビュー目前で、バンドメンバーに加わったばかりで立場が弱い気がしたりして、できることはなんでもやります的な、めまぐるしく移り変わる日々になんとかしがみついている感じだった。  だから、よりかかるだれかが欲しかった。  トーゴはいいやつだよ。  あいつに会えて良かったと本気で思う。  だいたい、あいつにとって俺は雑魚だったし、ビジネス恋愛でしかなかったし、お情けもあっただろうし、業界の常ではあっても、同性同士の恋愛をオープンにして、男気あふれるパフォーマンスを売りにするって、多分(ノー・バウンダリーズ)が先陣切ったコンセプトだし。  一時期、本気で好きだった。  たくさん旅行したし、たくさん愛し合った。  ヤバかった。  そういう、常識とか譲れないものとかがクラッシュする時期も必要だと思うけど。  だけど、トーゴにとって俺は《愛》じゃなかったし、トーゴが愛していたのは、《人》じゃなくて《瞬間》だから。  俺はある程度、ドライな人間性を手に入れたけど、そこまで割り切れなかった。  だから、バンドが解散する前に終止符を打った。  でも、俺はトーゴにすごく感謝してる。  すごく。  バンドが解散して。解散前の狂騒を走り終えた俺は燃え尽きていて。  しばらく日本を離れて、瞑想したり、聖地を巡ったり。  手持ち金が目に見えて減ったから、あわてて帰国。  すぐ、お金持ちのムッシューやマダムがパトロンになってくれた。  で、まあ、濃厚で深淵でソドムでゴモラで耽美で可憐でシンプルで複雑で衝動的で快楽的で十円ハゲな数ヶ月を過ごし、ようやくお役目御免になって、銀行口座にはたんまり(とはいえ、全盛期に比べたら雀の涙)金が溜まって、俺は静けさを求めた。  もう、光ばかりが当たる場所はこりごりだった。  それで、なんとなく、高円寺に来てみたんだ。  低い建物ばかりで空が広かったはずなのに、全く様変わりして、なにやら近代的になり、ランニングいっちょでくわえタバコのおっさんは絶滅危惧種になっていた。  小綺麗な高層マンションが建って、でっかいショッピングモールが建って、でも、路地に目をやれば、奥に細長い商店や、謎の古着屋が、すました顔で軒を連ねてしかも繁盛している。  あー、人間ってこれだよな、と安心した。  俺はやっぱり、どこまで行っても雑草だったんだ。  高円寺は、手入れされてない草っぱらだって言いたいんじゃない。  原風景なんだ。  この町に住もう、と決めた。  仮住まいの、お台場のホテルは引き払って、ここに住もう、と。  駅前の不動産屋に入り、即入居可能な広くて景色のいい部屋を希望したら怪訝な顔をされた。  俺の担当者は、即入居可能っていう条件と部屋の広さを重視していくつか提案をしてくれ、俺はひとつを選んだ。  4LDK。  120平米。  楽器OKなのも気に入った。  ひとり暮らしでなんでこんなに部屋数がいるんだって暗に探られたけど、これでもかなり妥協したんだ。  だって、俺が元々住んでいたのは380平米。  それでもものが部屋に入らなくて、コンテナハウスをレンタルしていた。  ひと部屋は倉庫、ひと部屋は客間、残りの2LDKで生活しますって言っても不動産屋の疑念は晴らせず。  職業を聞かれて無職と答えたら、よけいに怪しまれた。  通帳を見せて、免許証を見せて、保険証を見せて、見せられるものはいろいろ見せて、なんとか大家さんにつないでもらえることになった。  その大家さんが、静江さんだった。  契約の日、俺はちょっと冷静になっていて、やっぱり断られるかもしれないけれど断られるならそれでいいや、って気分になっていた。  上品な、紫色のワンピースを纏ってあらわれた静江さんは、びっくりするくらいの白髪だけれど思った以上に若かった。  いや、若々しかった。  静江さんは、俺が借りようとしているマンションの一階にひとりで住んでいて、 「若い方が入居してくださるのは、いつだって大歓迎だわ」  その話の流れで、 「いやあね。変な言い方をしてしまってごめんなさいね。なにかしてもらいたいとか、期待しているんじゃないのよ。わたくしも、七十歳を過ぎて、少しずつ不安になりやすくなっているの」  具体的な数字を聞いて、俺はよりびっくりした。  最近の七十歳はずいぶん若いのだ。  まっすぐな背筋、すべらかな手、縦横無尽に皺が走る笑顔が好ましい頬はみずみずしく、白桃のように産毛がそばだっている。 「アマテルケンジさん、とお読みするのかしら。素敵なお名前ねえ」 「ケンシ、です」 「あら、ごめんなさいね。ケンシさん、ね」 「いいえ、とんでもない」 「ケンシさん、普段はなにをなさっていらっしゃるの? いえね、わたくしのお部屋は、たいていご家族で使っていただいているから。お付き合いなさっている方とお住みになるのかなとか、おひとりで使われるのかなと思うと、おうちでお仕事をされていて、お仕事の部屋に使うのかなって」  ヤリ部屋にするなってことかな、と俺はぴんと来て、 「大丈夫です、大家さん。品行方正に勤めますから。不特定多数が出入りしたりしません。俺、割と一途だし。それに俺、ホモなんです」  ゲイ、でも、同性愛、でもなくて、ホモ。  自虐的に、いささか侮蔑語でカミングアウトした。  隠したってどうせいつかばれるのだ。  悪趣味な露出狂的なバランスが、俺を冷静にさせる。  なんとなく、静江さんは信頼できる気がした。  静江さんのなごやかな雰囲気は、なんだか俺のトゲトゲしたひねくれ心に清涼な風を運んでくれる。 「あら、そんなこと構わないんですよ。恋愛ってすばらしいことですわ」  顔をこわばらせてドン引きしている不動産屋を後目に、静江さんはニッコリ笑った。  この人は大丈夫だ、と俺は思った。 「それに、事務所にも使いませんから、それはご心配に及びませんよ」  俺は笑顔で否定した。  俺の仕事。  ツテで、イベントに駆り出されるとか、腐れ縁で、ラブリーなお金持ちたちに昔のよしみで呼び出されるか。  まぁ、そのうち皆、俺のことを忘れちまうんだろうけど。 「家に客が来ることはないです。俺が呼び出されるだけなんで。まあ、なんでも屋みたいなもんです」 「まあ、なんでも屋さんなのね」  目を大きく開いて、感心したように静江さんは言った。 「そうなんです。虫が出たとか、部屋の掃除とか、パーティーの頭数合わせに参加するとか、いろいろ」  なんでも屋、と名乗った手前、具体例を挙げたほうがのちのち怪しまれずにすみそうで、それっぽいことを並べた。  不動産屋はますます胡散くさげに俺を眺め、静江さんはますます感心したように、 「それは、なあに? 探偵さんみたいなものなのかしら?」 「まあ、似たようなもんです」  きっと、なんでも屋と探偵は違う。  でも、詳しく説明しようとしたら墓穴を掘りそうで、俺は静江さんを煙に巻こうとたくらんだ。  なのに、静江さんはいよいよ俺の与太話に食いついて、 「あら、それならすごく心強いわ。もし良かったら、わたくしのかわいいお友達に、あなたのこと、紹介してもいいかしら?」 「と、いいますと?」 「彼女はねえ、わたくしのマンションのお隣さんなの。海外でお育ちになった、すばらしいお嬢さんでね」 「はあ」 「でも、孤独な方で。よくわたくしのお部屋にお話しにきてくださるのよ。でも、ここ最近、元気がなくてね。沈んで見えるのよ。とても心配なのだけれど、わたくしの前では気丈に振る舞ってくれるものだから」 「はあ」 「お父様がいらっしゃるのだけれど、あまりうまくいっていないみたいでね。それに、あまりお友達もいないみたいで。もし、あなたが彼女の相談相手になってくださったら、こんなに嬉しいことはないわね。ね、紹介してもいいかしら? なんだかアマテルさん、悪い方ではないって、わたくしの直感が教えてくれるのよ」  ドアチャイムが鳴った。 「ほらっ、賢志。来たよ来たよ来たよーっ!この子だ!…うわっ」  ガシャン、と音。  廉賀が思わずドアホンモニタを起動して、いち早く来客のご尊顔を拝んだらしい。  あのな、廉賀。  幽霊ってやつは分子で構成された物体じゃなくて、粒子で構成されたゆるやかなつながりだから、からだの輪郭が常に揺れ動いていて周囲と摩擦を起こしている関係で、絶えず微弱な電流を発している、って最初に説明したの、お前だよな?  だから、電化製品との相性は最悪なんだって。  だったら、積極的に電化製品さわるんじゃねえよ。  俺のiPadに引き続き、ドアホンまで壊したな? 3  光石美和。  十九歳。無職。  俺が借りているこのマンションのオーナー、静江さんの「かわいいお友達」。  このマンションの隣りにある、瀟洒な一戸建てに住んでいる。  父親は、大学の先生。哲学者。ドイツ暮らしが長かった。  母親は、いない。神経質で高圧的な父親に耐えられず、美和が小学生のころ、離婚したから。それきり、会っていない。 「で」 と、俺は言った。 「俺、どうすりゃいいかな」  正直、美和の話に俺は戸惑っていた。 「ここ最近、静江さんが以前とは別人になってしまった気がするので、静江さんのことを調べてほしい」  美和の相談は、こんな内容だったから。 「だから、調べてほしいんですってば」  いらいらと、美和が言った。  おそらく、噛み癖があるのであろう短すぎる爪先の両手をぎゅっと組んで、 「どんなことでもいいから。家族関係とか、普段なにしてる方なのかとか」 「別人になってしまった、っていうのは、具体性に欠けるよ」 「そんなことない。静江さんとはもう何年も前から、五年くらいのお付き合いだから。前はすごく穏やかで、いつもニコニコしていて、私と話をしていても、荒っぽい言い方しなかったのに、最近はイライラしていて。話をしていても、なんだか否定的なんです。若いんだから、家に閉じこもっていないでなにか始めてみたら、とか。やけにつっけんどんで」    そりゃそうだ。  健康な若者が家に閉じこもって、グチグチ言ってりゃ小言のひとつも言ってやりたくなる。 「それに、変な人がいたんです。春先に」 「変な人?」  潮目が変わった。  露出狂か? 「私、よく静江さんのおうちを訪ねるんです。静江さんのおうちはすごく簡潔で、呼吸がしやすくて、廊下まで本棚が並んでいてパパの埃っぽい本が天井まで積んである我が家とは大違い。その日も、すずくらのいちご大福を買って静江さんのおうちを訪ねたんだけれど、マンションのエントランスで声をかけられて。四十代くらいの、小柄で、痩せてて、見た目はちゃんとしているけど挙動不審な人」 「はあ」  とん、と廉賀が俺の脇腹に肘鉄した。風圧で気がついた。  俺の隣には、腕組みをして眉間にシワを寄せた廉賀がひかえているのだが、美和には見えていないのだろう。  俺はいらいらすると、すぐに表情とか言葉遣いに出る、らしい。  とんがっていても、根はおぼっちゃまな廉賀には、それが目につくみたいだ。  美和は一瞬、むっとしたように口をつぐんだが、 「で、静江さんの家に行くのかって言うんです。私、なんだか嫌な予感がして、いいえって言ったんだけど。静江さんちから出てくるのを見たって早口で言われて」 「ええ」  俺は背筋を伸ばしてソファに座り直し、美和を改めて見た。  急ごしらえで客間に作り上げた、即席の応接室だ。  スウェディッシュ・ファニチャーの店で買ってきたばかりのソファが、まだ俺の尻になじんでいない。  ぴったりとしたジーンズが、美和の痩せぎすで鋭利な体型をより際立たせている。  グッチとかクロエとかルイヴィトンとかシャネルとか、わかりやすい服じゃない。でも、見ただけで上質とわかるノースリーブのシャツをさらっと着こなして、ひまわり色のストールを肘の内側にたくし込んでいる。  年齢からすると、落ち着きすぎた服装だ。  ちょっとつまらない。  彼女の父親がよしとする服装、というかんじだ。 「その人、静江さんの息子だって言うんです。名前は、確か、ヒロユキ。黒本ヒロユキだって言ってました。名字が違うでしょ? 静江さんは、磐田だもの。そう言ったら、婿養子に入ったんだって。立ち話も難だからカフェでお茶でも、とか言われて、ますます怪しいでしょ?」 「カフェ、行ったんだ?」 「行ってません」  いらいらと、美和はまばたきをして、 「怖くなって、とりあえず振り切って家に帰ろうとしたの。そうしたら、私の前に立って私を引き止めて、静江さんに取り次いでほしいって。ずっと無視されていて困ってるって。長野にある家を売りたいんだけど、静江さんの許可が下りなくて困ってるって」 「長野って言うと、別荘?」 「知らないわ。どうでもいいもの」  美和は首を振る。 「そいつが言うには、その家を売ったらかなり助かるんだって。どうせそのうち自分が相続するんだから、今のうちに売りたいって。それって、静江さんが死んだらってことでしょ? 相続してから売ったらいいじゃないですかって言ったら、それじゃ遅いって。今、大型ショッピングモール建設予定地候補に、その家も隣接してるから、今なら高価格帯で売れるんですって。あとで売ったって、田舎だから二束三文だし、税金のことを考えるとはやく手放したいとかなんとかかんとか」  うんうん、と真剣に、廉賀がうなずいている。  彼女に見えないのが、残念でならない。  クールビューティー、というか、あんまり感情が動かないゆえの無表情を貼り付けた美和は、ようやくほっとしたように、   「なんだか、気持ち悪いんです。そいつが、もしかして静江さんを殺しちゃうんじゃないかとか」 「そりゃ、考えすぎだよ」 「考えすぎって、言い切れます?」 「う、そりゃあ、まだ相続していない家を売りたいって、ちょっと焦りすぎだなあとは思うけど」 「でしょう?」  我を曲げない、ややもすれば傍若無人なところは、十九歳らしくて好感が持てる。  静江さんの息子を、憎々しげに「そいつ」呼ばわりするところも。 「そのとき、静江さんの息子さんを名乗る男はずっとエントランスで粘っていたの? つまり、そのあとなにか危害を加えられなかった? ・・・・・・あ、そうか。僕の声、聞こえないんだった。ねえ、賢志、今の質問、尋ねてみてよ」  おう、と俺は思わず返事をする。  美和がうろんげに、俺を眺めている。  俺は平静を装って、質問を繰り返した。 「いちご大福の袋で殴ったら、逃げちゃったわ」  吹き出した。 「笑い事じゃないったら」  そのときの、まぬけな絵面を思い出したのか、美和も小さく笑って、 「で、調べてくださいます? お礼はしっかりしますよ。私、ほとんど出歩かないから、貯金ばっかり増えるの。パパはなんでもお金で解決する人だから」  顔色を変えずに、人の話を聞くよう心がけているけれど、こういう、生まれながらにめくるめく経歴をほしいままにできてしまう恵まれた人間というのは、こんなにも一定数あふれているのだ、と感心してしまう。  父は大学教授。ケルンで育つ。中学一年生で日本に帰国。日本での生活に馴染めず、登校拒否に。  毎日自宅に家庭教師が来、ピアノ教師が来、家政婦が来、通信制の高校に進学しつつ早々に高卒資格を取り、父が担当するドイツ文学ゼミに『聴講生』として参加する毎日。  父の勤める大学か、海外の大学への進学を勧められたそうだが、本人は自宅に閉じこもって、絶賛、モラトリアム期まっただなかだ。  俺は別に、彼女を羨んだりしない。  彼女の立場になってみれば、やるせない気持ちになるのだって無理もない。  と言うより、あまりにも自分の人生とかけ離れているから、想像ができないのだ。  小さい頃からヴァイオリンを習っていて、両親への反逆的にギターを手にした廉賀なら、もっと彼女ときびきび話し合えるのかもしれないけれど。  スクリーンのど真ん前でポップコーンを抱えて、プリンセスの映画を見せられているような。  晴れていても薄暗い団地暮らし、持ち物はお古ばかりで、服はいつもオーバーサイズ。素うどんの上にたまに出現する謎の薄っぺらい肉がごちそう。壁はあってないようなもので、毎日どこかしらでだれかがひどい罵り言葉を吐いている。  いや、我ながら。  俺はよくぞ、まっすぐすくすく健やかに育ってきたものだ。 「あんたさ、カネで解決って一番、後腐れない方法だよ。否定的に言ってるけど」  思わず、口をついて出た。  あちゃー、みたいに廉賀が額に手をやって、シッと唇を尖らせる。  ハッ、ちゃんちゃら可笑しい。  にこやかに、あくまでもにこやかに。  へそが茶を沸かすぜ。 「で、大事なお友達の静江さんのことを、カネで解決しようとしてるわけかい?」 「・・・・・・だって、あなた探偵でしょう? 探偵って、そういうものじゃないの?」 「ナメてもらっちゃ困るね」 「じゃ、無料なの?」  う、それは。  カネに困っちゃいないけど、タダ働きってのも腑に落ちない。 「お気持ちでってことにしたら?」  廉賀が助け舟を出してくる。 「そりゃ、あんたのお気持ちで・・・・・・」  また、廉賀に脇腹をつつかれる。やめろって、俺、脇腹弱いの知ってるくせに。 「あんた、じゃない、あなた、だろっ」  早口で、指摘された。 「・・・・・・あなたのお気持ちで」  解せぬ。  美和は憮然とした面持ちで、俺をまっすぐに見ている。  値踏みされている。  彼女はしばらくそのまま、微動だにせず、ようやく、ふっと力を抜くと、 「じゃ、お願いしますね」 4 「引き受けるなら、もっときっちり情報を引き出すべきだった」 「なんだよ、今更。あの子が帰ってから、言うなよ」 「だって、あのままサヨナラすると思わないだろ。もっと、詳しく・・・・・・静江さんのこれまでのこととか、もっと突っ込んだ家族関係とか、あの子が知っている情報を詳しく・・・・・・」 「あとで静江さんに聞けばいいじゃん」 「静江さんに? いやいや、静江さんに聞けるなら、あの子がとっくの昔に静江さんに話してるさ。息子さんが訪ねてきて、長野の家のことを話してたって。もしかしたら、もう静江さんに話しているかも。それでも、埒が明かないから賢志のところへ今日、来たんだろ? そうに違いない」 「はいはい」 「はいはい、じゃないだろ。無責任だなあ」  呆れ顔で、廉賀はため息をついて、 「どうするんだよ?静江さんのことを調べるったって、僕らはなんにも手だてがないんだよ?僕らが知っているのは、静江さんはひとり暮らしでものマンションのオーナーで、一階に住んでいて、ガーデニングが趣味ってだけ。それから、さっきあの子が言ってた、息子さんが四十代くらいで、たぶん静江さん名義の家を生前贈与で売りたがってるってこと。ヒロユキ、だっけ?」 「確か」 「ああ、もう。しっかりしろよ賢志。引き受けたんだぞ」 「引き受けたっつーか、成り行きだろ」  ただ、俺は、暇つぶしがしたかっただけだ。 「それに、ド素人が探偵ぶるなんか、ムリだよ。俺、別に元刑事だとか、推理小説家じゃないんだぞ」  力を入れるべき時と、抜くべき時を見誤ると息切れするぜ、廉賀。  廉賀の、どこまでもずる賢くなれなくて、一途に責任を果たそうとするその姿、大好きだけどな。  でも、蠅みたいにシャンデリアの周りをビュンビュン飛び回るのはやめてくれないか?  アンティークショップて手に入れた、ビクトリア調のクラシックなやつだ。  繊細な鎖細工が、ちゃらんちゃらん揺れてうるさい。 「自然な形で、静江さんに探りを入れるのはいいよ。ご家族いらっしゃるんですかとか、普段はどう過ごしているんですかとか。でも、不自然な形ではダメだ。だいたい、僕らは普段あまり静江さんに会わないんだよ」 「そうだな、引っ越してきた日に挨拶行ったくらいだな」 「だろ?生活リズムが違いすぎるんだよ。会ったって、挨拶程度だ。なのに、いきなり突っ込んだ話はできないよ」  チャラン、とシャンデリアがひときわ大きくきしんだ。  あのさ、と俺が呼びかけようとすると、 「あのさ、賢志。だれか頼れそうな人、いないか?」 「いないかって言われても」  いる、っちゃ、いる。  皆、顔が広いから。  医者弁護士大企業勤めウラ社会とのつながり政界経済界トップからボトムまでなんでもござれ。  が、もちろん、協力してもらったらそれなりの見返りは必要だ。 「長野、っていったっけ? 摩周が長野に別荘買ったろ?不動産関係当たってみても…」 「摩周はダメだ」  きっぱりと、廉賀は言った。 「あいつ、みみっちいからな」  確かに、摩周はみみっちかった。  稼いだ金を投資に回すだのなんだの、バンド解散直前にはやたら仮想通貨やらFXやら不動産運用やら、周囲を熱心に勧誘していたけれど。 「あいつとあいつのお仲間に、散々嫌な思いさせられたろ?それに、あいつがタダで引き受けるわけがないんだ。賢志、もう、前と同じように収入がないんだから、節約しないと」 「わかってるって」 「本当に?前から思ってるんだけど、賢志は金遣いが荒すぎるよ。ちょっとは自炊すればいいのに毎日外食、新しい電化製品はどんどん買ってくるし、この間は、また観葉植物が欲しいとかなんとかかんとか」 「棕櫚竹、な」 「どうでもいいよ。とにかく、お金をもっと大事にしてよ。そもそもが水商売なんだからちゃんと自覚して……」 「わかったったら。今は、その話じゃなくて、引き受けた手前、どう調査を調べるかだろ?」  廉賀は、う、と口をつぐみ、 「ごまかされないぞ」 「はいはい」 「じゃ、話を戻そう。どうするかな。なあ、賢志。僕が知らない、静江さんのエトセトラがあったら、共有してくれないか?」 「エトセトラ、ねぇ」  正確な年齢はわからないが、七十歳を過ぎている。息子を名乗る男が四十代くらい。  ひとり暮らし。ガーデニングが趣味。  物腰やわらかで、几帳面そうな女性。  賃貸契約の際、書類をめくるたびに、きっちり角をそろえ直していたのが印象的だった。  服装は派手ではないが、首に巻いたスカーフはフェンディやフェラガモ。  暑い日も、光沢の良い、牛革のショートブーツを履いて、小さなグッチのハンドバッグを肩に掛けてスーパーへ行く。 「そうだ」  急に、廉賀の回転が止まった。 「確か、静江さん、亡くなった旦那さんが、三晃商事に勤めていたって言ってたよな?」 「そうだっけ?」 「そうさ。引っ越しの挨拶に行ったとき、玄関に、バディックのアートパネルが飾ってあったじゃない?賢志が、ウブドですかって聞いたら」  そうだった。  静江さん宅の玄関に飾られていた、大きなアートパネルは、廉賀とふたりで訪れたバリ島の美しいヴィラを思い出させてくれた。  鮮やかな生命力に満ちた草花をモチーフに、大胆な構図で描かれた曼陀羅は、まさに見えない未来に希望しか抱いていなかった俺たちの情熱をありありと甦らせたのだ。  ずっと昔、東南アジアに住んでいたのだと静江さんは言った。 「亡くなった主人が、三晃商事に勤めていて。十年くらい、あちこち転々としたんですよ」 と。 「で、それがどうしたんだよ?」  俺はまだ、ぴんときていない。 「僕、ちょっと検問に行ってくるよ」 「検問?」 「うん。この世とあの世の検問」  ますます、ぴんと来ないことを廉賀はするすると口にする。  廉賀は、俺を慰めるみたいに眉根を寄せて、 「賢志、もう忘れちゃったかもしれないけど、僕は死んでいるんだよ」  忘れちゃいないさ。  生きている人間は、飛び回ったり、壁をすり抜けたりなんかできない。 「一応、検問所があって出入りを管理しているんだよ。死んだばかりで初めて入る人と、死んでしばらく経った人と、仮死状態の人とで出入り口は違うんだけどさ」 「はあ」 「僕がこっちに戻ってくるとき、担当してくれた検問官と仲良くなってさ。いや、彼もベースやってたんだって。アマチュアでさ。プロを目指してたけど、結局夢は実らなかったって。だから、デビュー直前で死んじゃった僕にすごく同情してくれて。一応、お盆以外にこの世とあの世を行き来するのは歓迎されないんだよ。なんていうか、検問官のさじ加減次第っていうかさ」 「はあ」 「だから、僕は運が良かったんだ。それで、賢志といっしょにこうして暮らせているんだよ」 「あの世に帰るって、それってつまり、成仏ってことじゃないのか?もう帰って来れなくなるんじゃ?」  そう思うと、辛い。 「心配ご無用だよ!」  廉賀は胸を張って、 「彼に頼んで、静江さんのご主人に取り次いでもらうよ。色んな話が聞けると思う。しかも、こそこそしないでおおっぴらにね。静江さんの名字、なんて言ったっけ?川島?」 「そんな簡単に取り次いでもらえるものなのか?」  微妙についていけない。  今にも窓から飛び出しそうな廉賀の背中に手を伸ばして、そういえば、俺は廉賀に触れられないのだと切なくなる。 「たぶん、大丈夫。僕の父親、三晃商事で働いてんだ。まだ生きてるけどね。親父が三晃商事でお世話になって、とかなんとかもっともらしい理由を考えるさ。幸運を祈ってて!」  逃げ出したセキセイインコを見送るみたいに俺は窓辺にたたずんで、廉賀が遠くなっていくのを眺めた。  親父が三晃商事勤め?  そりゃ、当然、お坊ちゃんだ。  取り残された俺は、急にやることがなくなって手持ち無沙汰だった。  でも、ソファにひっくり返ってテレビを眺める気にもならない。  ドラムを叩こう。  ドラム部屋で、俺のRolandは静かに鎮座している。  チェアにまたがり、ヘッドホンで耳をふさぐ。  ドラム部屋は、俺にとって神聖な部屋だ。  だれも、この部屋に招き入れる気はない。  だから、廉賀との思い出の品でこの部屋を埋め尽くしていた。  あの日。  引っ越しを終えて、段ボールだらけの部屋を片付ける気力もなくて、無心に俺は、ドラムを叩いた。  ひとつのことに、区切りがつくと、どうしようもない感情が沸いてきて。  どうして、ここに、廉賀がいないんだろう?  俺は、以前より金持ちになっていて、以前より洗練された人間になっていて、以前は知らなかった店や楽しみもたくさん知っていて、以前よりもしぶとい人間になっていた。  パーティー三昧の日々と、名声目当てに近づいてくる下心ミエミエの取り巻きたちに嫌気が差したから。  華やかな世界に背を向ける俺を、周りのやつらはバカにするけれど。  廉賀、お前ならわかってくれるだろ?  虚飾にまみれた世界とはおさらば。  汗だくで、チェアに座っていられないくらい感情があふれて、床にひっくり返った。  血は流しても、涙なんか流さない。  唇を噛んで、目をぎゅっと閉じようとしたら、 「それでこそ、お前らしい第一歩だよ」  遮音機能ナンバーワンのヘッドホン越しに、懐かしい声が。  そうだ、廉賀。  お前がふわふわ、浮いていたんだ。  満面の笑顔でさ。  俺は、生まれて初めて死ぬかと思った。  心臓発作で。 5  俺がドラムを始めたのは、近所の兄ちゃんの影響だ。  つまり、俺の初恋だった。  なんでだろうな、俺は、自分がちっとも女の子にときめかないって知っていた。  小学生の頃から、体育の着替えだとか、服をめくったり脱がせたりする遊びにどきどきしていた。  だけど、そんな気持ちは絶対に外へ出さなかった。  だって、変態だろう?  アニメでも、漫画でも、ドラマでも、バラエティ番組でも、「ホモ」ってやつは嘲笑の対象だ。チビブスハゲと同列扱い。    そんなの、自分でどうにかできる問題じゃないのに。  俺が、中学一年生のときだった。  近所の兄ちゃんは、ひとつ年上で、有名私立校に通っていた。  なんの変哲もない公立校に通っていた俺。  ときどき、近所ですれ違うにすぎない俺が、彼に声をかけられる話題なんて。 「すげえ!ドラムやってるんすか?」  安直なんだよな、彼の鞄から、ドラムスティックが突き出していたから。  でも、彼はノッてくれた。  ギターとかベースじゃなくてドラムに興味あるの?と聞き返されて、俺は頷くしかなかった。  ドラムのドの字も知らなかったのに。  俺はなけなしのバイト代をはたいて、彼といっしょにスタジオへ通いつめた。  スティック、消音パット、ヘッドホン、アクセサリがどんどん増える。     結局彼が、同じ学校の女子生徒と付き合い始めて、僕らの逢瀬(と、思っているのは俺だけで、彼にとってはドラム好きな近所のモンキー中学生とドラムを叩いて優等生のストレス発散儀式)は自然消滅した。  俺に残ったのはドラムだけだ。  だけど、そのドラムが俺を導いた。  高校生になったとき、同じ県だけど別の町に住む、友達の友達の友達がバンドメンバーを探していると、声がかかった。  自分の腕もよくわからないし、ドラムを続けたいのかもよくわからなかったけれど、俺は勉強も苦手だったから、貧乏暮らしバイバイしたかったら、ヤケクソでドラムに夢をかけたって損はなかった。  結果、俺はバンドに加入した。  レインウェア・マンデー、というバンドで、華奢でかわいくて若干ビッチな女の子がメインボーカルをつとめていた。  彼女が歌詞を書き、メロディーのラフ案を出していたから、バンド名もバンドコンセプトも音楽性も方向性もコンテンツ作成もすべて彼女が決定権を持っていた。  人生は毎日雨が降っていて憂鬱な月曜日だからせめて私たちはお気に入りのレインウェアを着て、絶望と戦いましょうとかいうギミックだったと思う。  レインウェア・マンデーは、県内の、地方内のさまざまなバンドコンテストにエントリーし、最初は箸にも棒にも状態だったけれど、そのうち場慣れして、好成績に食い込めるようになった。  年齢を偽って小さめのハコでギグを重ね、知り合った人づてにレコード会社とコンタクトをとったり、デモ音源を作ったりした。  ここまで来ると勉強はそっちのけで、高校を卒業できるかどうかの瀬戸際になっていた。  全日制はとっくの昔に諦めて、時間の融通がある程度きく定時制に転校していたっていうのに。  レインウェア・マンデーのメインボーカルは、バンドカラーに自分色をどっぷりにじませているだけあって、メインボーカルの女の子はかなり強烈だった。  正直、お顔に派手さはなかったけれど、それが相手の警戒をとくのか、俺以外のバンドメンバー全員と寝ていたし、他のトガッたバンドメンバーとも寝ていたし、コンテストの関係者とも、バイト先のバーの店長とも常連とも、怪しげな広告代理店勤務のパーティーピーポーとも、まぁ、彼女がぴんときた人間とは、飯でも食うみたいに寝てた。  今でも思い出す。  一週間ごとに髪の色を帰る、彼女のネオンカラーのワンレンが、土深く根を張った木の根っこみたいに、トレードマークの黒いレインウェアの背中に広がって、汗でへばりつき、お世辞にも上手には程遠い彼女のシャウトに合わせて震えている光景。  内股の、長靴の先も揺れている。  彼女は俺の顔が好きだと言った。  だから、自分と寝ない俺をよく思っていなかった。  一度、しこたま酔わされて、襲われかけたことがある。  すさまじく腹が立って、俺は女に興味ないって叫んだ。  そのとき、俺は少しだけ音楽業界に詳しくなっていたから、世の中には色々な人がいて、いちいち人目を気にするより、商品になれたら勝ちなんだと思っていた。  俺に、その自信をくれた、レインウェア・マンデーに心から感謝しなきゃ。  本当だぜ?  まあ、その夜を境に、バンド内での俺の立場はかなりやばくなった。  レインウェア・マンデーの彼女が、彼女を拒否した俺に、道端のウンコでも見るような侮蔑を投げかけて、 「あたし、バカとホモは嫌い」 と、言った瞬間から。  ホモはバカだってことだろ。  シャレた言い回しで罵ってくれるじゃない。  言っておくけど、ホモはバカじゃない。  メンバー全員から、ナチュラルにシカトこかれて、飼い殺し状態。  腹が立って、脱退を宣言したものの、以前から予定されていたデモ音源のレコーディングはすっぽかすなと逆ギレされて、もともと、真面目な性格だからさ。  期日通りにスタジオ入りしたわけ。  ドラムパートは一番に取り終える。  俺が、レコーディングスペースにあれやこれや設定して、バンバン打ち込んでいる間に、他の連中はバラバラやってきて、スタジオの待合スペースでウォームアップやってた。  俺が、マイクルームのばか重いドアを押し開いて、ありがとうございましたーとか頭下げてんのに、 「皆で一致団結して、イイ音作るぞーっ」 とか、スクラム組んでんの。  バカじゃねえか?  劇場型って言うのかな。  誰かに見せつけなきゃ、まともに自分の人生も送れないってわけ。  だせっ。  さっさと帰りたかったけれど、帰れなかった。  全員のパートを採り終えたら、セッションを重ねて調整しなきゃいけないから。  そのときには俺もいなくちゃいけない。  朝早かったし、腹も減ったから、スタジオの人に断って、外へ出た。  オーガナイザーの兄ちゃんが、いい感じに気さくで、おすすめのカフェレストランを教えてくれたから、そこへ行った。  一番安いランチはナポリタンだったから、それと、飲み物は頼まなかったけれど鼻水が出るほどうまかった。  俺は、レインウェア・マンデーに残る気がなかった。  かといって、ソロでやれる自信もコネもなかった。  どん詰まりだった。  なんとなく、で、続けてきたけれど、夢のまた夢でしかなかったデビューが現実味を帯びてきていた。  やっぱり、夢だったのだ。  母ちゃんに楽させたかったな、と思いながらナポリタンを食べた。  不揃いな切り口のウインナーも、全然薄切りじゃない玉ねぎも、シャキシャキしているやつとシンナリしすぎている食感が混在しているピーマンも、ピリッとアクセントになる塩分が悪目立ちしているスパムミートも、芯がつぶれたコーンもみんな、泥濘みたいなケチャップが包み込んで、魔法をかけてくれる。  母親を思った。  長年、地元の総合病院の清掃員をやっていた。  母親は、ずっとがんばってきた。  朝早くから出勤し、病院じゅうをピッカピカに磨き上げたら、夕方帰宅して家のことをやって、食事を準備して、仮眠をとって、日付が変わる頃に起き出し、コンビニ弁当の工場へ出勤していた。  コンビニ弁当工場から、直接、病院へ出勤することもあった。  母親は、色々な職を転々としてきた。  子ども向け学習教材の訪問販売、保険の外交員、コンビニの夜勤、介護スタッフ。  夜のお店で働いたこともある。  だけど、結局最後は体を壊してしまうのだ。 「細かい作業をもくもくと、やるのが好きだから」  母親は、そう言って笑っていたけれど。  デビューして、売れたい。  そのこころは、母親に楽させたいって気持ちそのものだった。    ナポリタンをもぐもぐやりながら、俺は泣いていた。  泣いているのを誰にも悟られたくなくて、下を向いて必死で食べた。  俺は、初めて、自分が何者でもないと思い知った。  レインウェア・マンデーから脱退したら、なんの価値もなかった。  金を稼ぐチャンスをつかむなら、ここで頭を下げて、言いなりになればいい。  そんな心にもないことはできない。  だけど、それじゃ稼げない。  平行線だ。  そのことだけが、頭のなかをぐるぐる回っていた。    スタジオに帰ったら、土下座しよう。  そう、心に決めたら、急に冷めた。  自分が自分じゃなくなったみたいな。  稼いだら、やめよう。  レインウェア・マンデーは、なかなかイイ線を走っていた。  インディーズでも注目されつつあったし、有名プロデューサーや、関係者ともつながりがあった。  土下座して、リードボーカルと寝よう。  吐き気がした。  そのとき、声がした。 「やあ、金髪くん。ちょっといいかな?」  視線を感じた。  顔を上げた。  すごい俺好みの男が立っていた。  すらっと背が高くて、ほどよく筋肉質で、Tシャツにジーンズのラフな格好もバシッと決まっていて、なによりも瞳。  赤みがかかった、サンドブラウン。猫みたいに丸い目で、黒目の真ん中からまぶたのふちまでまんべんなく、好奇心に満ち満ちてきらきらしている。 「あのさ、きみ、さっき、黒猫スタジオでドラム叩いてただろ?」  さんさんと降り注ぐ日が照るのに、頬を濡らすほどに細やかな粒の雨が降っている、そんな、声の持ち主。  それが、廉賀だった。  不思議だった。  俺はもともと、人懐っこい人間じゃない。  外面はいいけれど、自分の核心は絶対、人に触れさせたくない。  だから、廉賀が俺の前に腰掛けて、 「僕、純須廉賀。《BBB479》ってバンドのキーボーディスト。よろしく」  たまたま、同じスタジオの別スペースにいて、俺の演奏にビビっと来てくれて、わざわざ、スタジオを出た俺を追いかけてきてくれた、そういう、スマートな男が目の前に座っていたとしても。  出会ってまもない人間に、自分のアレコレを話したりしない。  だけど、差し出された手を握った瞬間、俺達は恋に落ちた。  店を出るとき、俺は晴れやかだった。  レインウェア・マンデーにバイバイすることなんか、ちっとも惜しくなかった。  《BBB479》のドラムスが、他のバンドに引き抜かれて、ポジションが空いていたから。  その日の夕方、俺は《BBB479》へ正式に加入し、渋谷の安い居酒屋チェーンで飲み明かした。  俺が上昇気流に乗れたのは、俺がそんなに賢くなかったかもしれない。  石橋を叩いて渡るより、途中で崩れたらなんとか逃げ出そう、と思っていたからかもしれない。  そのときの《BBB479》は、インディーズで二枚、ミニアルバムをリリースして、一応の評価はあったものの、素人に毛が生えたに過ぎない集団だった。  そんな烏合の衆どもが、一年後のオリコンチャート一位から三位まで独占だなんて、だれが想像したと思う?  俺の母親が、震える手でつむいできた仕事をやめて湘南の、海を望む高台に建つ高級マンションに引っ越して、週に三日、家政婦さんを頼む暮らしができるようになるだなんて、だれが想像できたと思う?  それから。  メジャーデビュー前に、廉賀がバイク事故で死ぬなんて、だれが想像できたと思う?  少なくとも、俺は違う。 6  廉賀はまだ帰ってこない。  久しぶりにひとりで寝る夜だ。  ウイスキーを開けて、テレビをつけた。最初は停滞していたものの、最近は見事に安定した視聴率で、売り出し中のヒロインの知名度がうなぎ上りなドラマが始まる。  しばらく眺めて、チャンネルを変えた。バラエティ番組。芸人やタレントが、なんの変哲もない地方のスーパーを歩き回って、その場に特別感を生み出し続けている。  別のチャンネル。別のドラマ。  別のチャンネル。音楽番組。  別のチャンネル。すさまじく世話になった司会者がスタジオで盛り上げる、長寿な冠番組。  どれもこれも、顔見知りばかりだ。  表の顔も裏の顔も。  皆、お疲れ。  そんな気持ちで、テレビを切った。  廉賀はまだ、帰ってこない。  ベッドに横たわって、電気を消した。  テレビの向こう側の、華やかで賑やかで足元がいつもぐらつくあの世界に、帰りたいかと言われたら。  未練がないわけじゃない。  でも、俺は、根本的に向いていなかったのだ。  自分では楽しく、ハイテンションニ世渡りしているつもりだったけれど。  異変は、唾液だった。  唾液が全く出なくなったのだ。  唾液が出ないってめちゃくちゃ地味だけど、できないことが増えた。  口腔内が乾いていると喋りにくい。ひどいと、舌が口のなかのあちこちにくっつくから喋れない。  食事できない。なかなか、食べ物が飲み込める大きさにならないし、ぽさぽさしたままで無理やり飲み込むから、何度もむせた。  味もわかりにくくなって、食欲が落ちた。  特に辛味がわからなくて、仕事やめてから同じもの食べたら、辛くて火を吹くかと思った。  それから、口臭がひどくなった。  それで、バンドメンバー全員から、至近距離で話すなと拒否された。  トーゴなんか、その時期はあからさまに俺を避けて、同じ部屋にいたくないとまで言い放ったのだ。  ストレスだ、と医者は言った。  ストレスを感じないよう、ゆっくり過ごすことが必要だと医者は結論づけたが、そんなの、あの世界じゃ到底無理な話だ。  俺はもっと、覚悟を決めるべきだったんだ。  俺は、皆を尊敬している。  超人だ。  そして、普通の人だ。  ありえないくらいの苦しみと、葛藤を抱えてカメラの前で、心の底から笑っている。  完璧な自分を見せるために、ストイックすぎる自制を課している。  立ち止まりたいけれど、自分と向き合いたいけれど、知らぬうちに数ヶ月、数年先まで埋まっているスケジュール。  一日の行程を必死にこなしたら、もうへとへとだ。  考えることなんてできない。  すり減っていくだけ。  刺激は多い。  刺激だらけだ。  だけど、大事なのはインプットだけじゃない。  アウトプットとのバランスが必要なのだ。  そういう意味では、かなり不均衡な生き方せざるを得なかった。  これだけは言える。  もはや、俺に怖いものはない。  心から愛する廉賀を失ったとき。  俺は、恐怖も同時に失った。  俺の絶望が、廉賀をこの世に縛り付けた。 「賢志、きみにまた会いたかった。だから、僕は戻ってきたんだよ」  廉賀はそう、言ってくれるけれど。  俺は、弱い人間だ。  廉賀、お前は、それでいいのか?  俺のことを思ってくれているのは、すごく嬉しい。  身に余る光栄だ。  でも、お前にとって、この世にとどまり続けるのは、いいことなんだろうか? 「…志、おい、賢志」  胸が苦しい。  というか、重い。  嫌な空気だ。  空が落ちてきたみたいな、圧迫感。  目を開けた。   俺の胸の上で、廉賀が正座している。  ぎょっとした。  すぐに、気を取り直して、 「……あのさ、苦しいんだけど」  体が動かない。金縛りだ。 「ごめん、ごめん」  悠々としたものだ。  謝りながらも、廉賀は俺から降りる気配もない。 「そんなことより、大変なんだよ」 「金縛りって、俺にとっちゃ、そんなこと程度じゃすまねーよ」 「おっと、ごめん」  胡座をかいたまま、廉賀はふわりと舞い上がる。  やっと体が動くようになる。  午前三時。 「なんだよ、こんな時間に。俺、寝てたのに 」  俺はうつぶせになり、枕に顔をうずめて精一杯の抵抗とした。  ごめんごめん、と、廉賀は軽く謝って、 「すごいことがわかったんだ。なんと、川島静江さんは、五年前に亡くなっているんだよ」 「はあ?」  予想外すぎる。  静江さんが、とっくの昔に死んでいるって?  じゃ、俺らが知っている静江さんは、幽霊?  幽霊って、賃貸物件のオーナーになれるのか? 「んなバカな。同姓同名の別人じゃないのか?」 「僕もそう思ったさ。でも、本当らしいんだ。川島静江さんは、五年前の三月五日、長野県佐久市で亡くなっている」 「長野で?」 「そう、長野だ」  廉賀は、わざとらしすぎる真剣な面持ちを崩さずに、 「臭いな」 「臭いって?」  俺は慌てて、口を両手で覆う。  しょっちゅう口が臭いと言われ続けていたから、口元を隠すのが癖になっている。 「そんなこと、どうやってわかったんだよ? 」
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