星空 ②

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星空 ②

 私は食卓で大泣きして涙も枯れ果てると、風呂にも入らず、自室へと向かった。ゆっくりとドアノブを握って開くと、ひんやりと冷たい空気が流れ込んでくる。  見れば、窓が少しだけ開けられて、扇風機が回っていた。私はふっと微笑み、ゆっくりと中に入って電気を点けた。辺りを見回しながら、その懐かしさに言葉を失くしてしまう。  その部屋は私が家を出て行った時のままだった。ベッドには星座の模様が入った掛け布団が載せられ、大きな望遠鏡が窓際近くに置かれていた。  勉強机の横の棚には宇宙に関わるありとあらゆる書籍がぎっしりと詰め込まれ、2003年と書かれた宇宙の情景を描いたカレンダーがまだ壁に掛かっていた。  私は部屋の中央まで歩み寄り、ぐるぐると何回も体の向きを変えて、その部屋の景色を眺め、本当に心を揺らせた。なんだか嬉しくなってきて、そっとベッドに横になって、天井を見上げた。  じっとしていると、ここから見えた星空を思い出して、ふっと笑ってしまう。私はまたやってみようか、と起き上がって電気を消した。そして、机の横に置かれていた家庭用プラネタリウムの電源を入れた。  その瞬間に、無数の星々が暗闇に浮かび上がる。ああ、と私は大きな吐息を漏らして、その星空に見入った。そこには天の川が浮かんでいた。冬の夜空が浮かび、北斗七星を見つけると、喉の奥から熱い感情の塊がせり上がってくる。  私は、星が見たかったんだ。深くそう思った。  あんなに星が好きだったのに、この街から出る時には何一つそれに関連したものを持っていかなかった。あの時は初めての環境にひどく緊張していて、心が休まる暇もなかったのを覚えている。  こうして挫折して、家に帰ってきて、初めて暖かかった当時の記憶を思い出せた。港さんも私のことを想ってくれて毎日会ってくれた。  同じ新入社員として、別々の環境だけど頑張ろうと誓い合ったのだ。けれど、港さんは私の心の弱さを見るにつれて、失望した顔を見せるようになった。  ――僕と君は、進むべき道が違うのかもしれない。  彼はそう言って、私に強い眼差しを向けてきたのだ。それから徐々に電話の数が減っていき、音信不通になってしまった。  港さんは今、どうしているのだろう、と思うと、体が冷たくなっていくような気がした。けれど、今はこの星空を見ているだけで、何もかもが消えて、雄大な宇宙の姿だけが目に映ってくる。  星は本当に綺麗だ。きっとその光を誰かに届ける為に、輝いているんだ。  私はそう思ってようやく心から笑えた気がした。胸の扉がすっと開いて、中に入っていた鉛や鉄くずがごろごろと転がって出て行き、涼しい微風がすっと入ってくるのを感じた。  今はただ、星をずっと見ていよう。ここにいれば、何か私にも新しい道が見えてくるかもしれない。ずっと見ているうちに、その星々の光が私の心に焼き付いて、無数の星座が投影されていくのを感じた。  あそこに見えるのは、ふたご座で、あれがこいぬ、いっかくじゅう、オリオン……一つ一つ見つけていく楽しさを再び思い出し、私は子供のように無邪気になって星を指差した。  こんなプラネタリウムを使わなくても、この街にいれば、星が見られるのにな。そう思いながら、私はプラネタリウムから流れ出す音楽に次第にまどろみながら、流れ星が降ってくる夢を見るのだった。  次の日、目覚めるともう既に昼過ぎになっていた。私は慌てて起きて、また遅刻をしてしまったと焦ったが、ようやくそこが実家の自分の部屋で、今日は休暇中だったことを思い出した。  私は自分の格好を見下ろして、あのまま寝てしまったのか、と苦笑した。安物の私服は皺だらけで、いかにもみすぼらしそうな容姿をしていたけれど、鏡に映る自分の顔は少しだけ生気を取り戻したように見えた。  窓が開いて、そこから涼しい風が入ってくるのがわかった。外ではけたたましいほどの蝉の鳴き声が反響している。扇風機がまだ付けたままになっていた。  いつの間にかプラネタリウムの電源は消されており、きっと母さんが気遣ってくれたのだろうな、と想像することができた。私はスーツケースから着替えを取り出して、それを胸に外へと出た。  歩くとみしみしと軋む床の上を歩き、私は居間へとやって来た。すると、母が机に頬杖をついて新聞を読んでいた。私の姿に気付くと、ぱっと顔を笑みに変えて、疲れは取れた? と聞いてきた。 「ごめん。昨日はあのまま寝ちゃったみたい。シャワー浴びるね」 「ゆっくり入っておいで」  私はうなずき、浴室へと向かった。ゆっくりとシャワーを浴びながら、肌の中から疲れが滲み出して、排水口へと吸い込まれていくのを感じた。  肩から腰から、心から頭の中から、疲れが絞り取られていくらかすっきりした。私はバスタオルで丹念に体を拭いて整えると、Tシャツとジーンズを身につけて外に出た。  父は縁側で本を読んでいるらしかった。居間の端に置かれたCDラジカセから流れてくるのは、安全地帯の『ワインレッドの心』だった。その曲は私が子供の頃に聞いてとても心を震わせた音楽で、再び聞けた今、時を忘れてそこに佇んでしまった。  母は庭の洗濯竿に洗濯物を干しているらしかった。時折音楽に合わせて歌詞を口ずさみ、上機嫌な様子だった。そして、曲が終わると、次に『恋の予感』が流れ出す。  私はその深く感情を揺さぶってくるメロディに、息を止めてそこでじっとしていた。父さんがこちらに振り返って、笑った。 「さっぱりしたか、佐代」 「うん。久しぶりね、この曲」  私は父さんの横に並んでその曲をじっと聴いた。すると、母さんが洗濯物を干し終わったのか、縁側に上がって私達に言った。 「スイカがあるから、切りましょうか」  返事を待たず、母さんは台所へと向かっていった。私は母さんの背中を見送った後、縁側の風景をしばらく眺めた。奥にある塀まで、木々が連なっており、開けた空間が広がっていた。虫の鳴き声が四方から聞こえてきて、日差しが光のシャワーのように降り注ぎ、地面の艶々した雑草を照らしていた。  陽だまりの中で、穏やかな時間が流れていくような、そんなほっとする風景だった。蒸し暑さや草木のむっとするような匂いも気にならないほど、その景色は長閑だった。  母さんがスイカを盛った皿を運んできて、縁側に置いた。そして、麦茶の入ったグラスを私達に渡してくれた。 「今日は特に天気がいいわね。ここにいれば涼しいし、ちょうどいい夏を感じられるわね」  母さんがそう言って私の隣に足を垂らし、麦茶のグラスを傾けた。 「どうだ、佐代。星はまだ見ているのか?」  父さんがスイカを齧りながら、穏和なその顔に皺を刻んで笑い、言った。 「最近は星のこと、忘れていたの。でもね、昔好きだったことを思い出して、なんだか元の場所に帰ってきたような気がしてほっとしたんだ。私、今日この縁側で星を見ようかな」  そこで突然左右に座った二人が同時に笑ったので、私はきょとんとする。 「さっき父さんとそのことを話していたんだけどね、夜に三星山に見に行かないかって話なんだけど、どう?」  私は口を半開きにして母さんの顔をじっと見つめていたけれど、やがて大きな声で「うん!」とつぶやいた。 「行きたいな」  そこまで自分から気持ちを伝えることは最近なかったように思えたけれど、気づけば素直な自分の想いが零れ出ていた。  母さんは父さんと顔を見合わせ、楽しそうな顔でじゃあそうしましょう、と言った。  私は頭上の空を見上げて、澄み渡った青の向こうに星を見たような気がして顔が綻んでしまうのを感じた。本当に夜が楽しみだ、と思うと、昨日まで沈んでいた気持ちがどこかへ流れていってしまうような軽々しさを感じた。
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