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星空 ①
私はもう泣くこともできず、俯いて打ち震えているしかなかった。
会社帰りのサラリーマンが多く乗車している車内では、盛んな声が響き渡っていた。そんな楽しげな会話が聞こえる中、私は絶望感に頭が真っ白になっていた。
どうしよう。もうあの会社にいられないかもしれない。
額を手で覆い、血の塊を吐き出すように深い吐息を絞り出した。腕の震えが顔に伝わり、顎がガクガクと揺れた。
もうどこにも居場所がない。上司にも見限られて、あんな罵倒の言葉を叩きつけられてどこにも逃げ出すこともできずに、絶望するしかなかったのだ。
――何度やってもできないようなら、早くやめてしまえ。やる気がないなら、とっとと帰れ。邪魔なだけだ。
あの般若の面をした上司のことを想像すると、背筋が震えて吐き気が襲ってくる。私は身を削って精一杯やっているつもりだ。だが、結果が出ていないのも確かで、足手まといになっているのも紛れもない真実だった。
このままだと、近いうちに今の会社も辞めざるを得ないだろう。せっかくここまでやって来たのに、と悔しさがこみ上げてくる。
もうこの世界に私の居場所なんてないんだ。私はただ、自分に見合った仕事で惨めな想いをして生きていくしかないのかもしれない。
どうしよう――。
そう心の中で言葉を繰り返していた時、ふと「今が一番幸せね」と優しげな女性の声が聞こえてきた。私はその聞き覚えのある声に、体を震わせてはっと振り返った。
すると、ドアの前に若い夫婦が話し合っているのが見えた。女性の手にはベビーカーが握られており、赤ちゃんが穏やかな顔で眠っていた。
「今が、本当に幸せだと思うのよ。毎日が楽しくって、こんな感じでいいのかって思うくらい」
彼女は笑いながら、自分の夫を見つめた。私は彼女の顔を見て、あっと思った。
その人は確かに私の高校時代の同級生だった。当時長かった髪は今は肩までのところで切り揃えられ、薄く茶色に染められていた。
あの頃と変わらないすらりとした細身の体は少しだけ私に懐かしさを感じさせた。男性も穏和な感じの人で、爽やかな柄のポロシャツを着ていた。
私はじっと彼らを見つめたけれど、彼らの幸せそうな顔を見ているうちに、自分の心がどこか遠くへ置き去りになっているような感覚を抱いた。
彼女は今こんなにも幸せそうな家庭を持っているのに、私はなんて惨めなんだろう。毎日不安だらけで身も心もボロボロになって働いて、居場所もない、お金もない、そんなちっぽけな私とは本当に対称的だ。
私とは全く別の世界の住人のように思えてしまう。
彼らの目に映らないように身を縮めて、体の震えを抑えるのに必死だった。ああ、もう幸せというものはどこかへ忘れてきてしまったみたいだ。
どのくらいそうして俯いていたのだろう。気づけば電車は終点に差し掛かり、同級生の姿はもう電車のどこにもなかった。乗客も少なくなり、座席はガラガラとなって、私の心のようだなと思った。
もう休み明けに辞表を提出しよう、と思った。さっさと悪あがきはやめて、地獄に真っ逆さまに落ちてしまえばいい。
笑いがこみ上げてきて目が潤んだその時、スマートフォンに着信があった。会社からだろうか、とガクガクと震える腕を抑えつけながら画面を見た。
その瞬間、体中を縛っていた重荷がふわりと浮き上がって消えた気がした。
明日、休みなんでしょう? たまには家に帰ってきたら? 疲れてるだろうし、あなたの好きな肉じゃがを作って待ってます。 母より
突然視界が真っ白に掻き消えた。
目に薄い膜が張り付いて、鼻の奥がツンと痛くなった。
お母さん、私……私ね。
そのメールを見つめていると、堪えていたものが全て溶けだして涙が溢れてくる。
しかし、私は必死に涙を堪えて彼女にすぐにメールを送った。
明日、帰るから。その時に大切な話があるんだ。 佐代
そこで“あの人”から突き付けられた言葉を思い出す。それを思い浮かべると、抑えていた涙が一つ零れた。
母さんは私の話を聞いたら、どう思うだろう。ショックで呆然としてしまうだろうか。母さんの悲しむ姿は見たくなかった。私自身はどうなってもいいけれど、彼女の心を悲しませることだけはしたくなかった。
私はスマートフォンを鞄に戻し、目を閉じた。
頭を休めてじっとしていると、ふと何故か闇の中に無数の光が浮かび上がってくるのを感じた。
それが星々の光だと思い出す時には、私の悲しみは少し引いていた。そして、次第に懐かしさが心を癒すのを感じた気がした。
*
私は翌日、新幹線に乗って実家を目指した。席に座っている間ずっと私は眠っていた。どんな人が隣に座っていて、どんな景色が流れていったかなんて、全く記憶に残っていなかった。
私はただ虚ろな瞳で目の前の景色をぼうっと見つめているだけだった。誰も私になど目を留めず、通り過ぎていく。私は一人でその駅に着くまで闇に沈み、孤独を噛み締めて過ごした。
ようやくその駅に辿り着くと、懐かしい人の香りが私の心を刺激した。少しだけ視界が開け、ようやく地元に帰って来たのだと実感が湧いてきた。
私はスーツケースを引きながら、やがて鈍行電車に乗ってその田舎の町へとやって来た。その頃にはすっかり夜になり、訛りのある地元の人々の会話が耳に染み入ってきた。
駅の出口から見えた景色は、木々の立ち並ぶ蝉の声に溢れた一本道だった。それは私の進むべき道が一つしかないと物語っているような気がした。
バスロータリーには人はおらず、タクシーが一台案内板のある場所に停まっていた。とにかく虫の声だけがやかましく響き渡り、生温かな風が私の額を撫でていった。
この蒸し暑い空気が、私の子供時代に感じたものだった。何も変わっていない……変わっているのは私の心だけだ。
私はゆっくりと歩き出し、そのタクシーを拾った。運転手は私の顔を見ると、少しだけ驚いたような表情をし、そして「どこまでですか?」と言った。
「清水公園の入り口までお願いします」
私がそう言うと、運転手は「はい」とうなずき、それきり何も言わなくなった。ゆっくりと景色が流れていき、私は額を窓に付けて外を通り過ぎる風景をじっと見つめた。
ああ、帰ってきたんだ、と思った。
遠くに見える山の稜線や、寂れたバスの停留所、田園風景……アスファルトの道路が妙に不釣り合いで、反対車線を走る車は一台しかなかった。
川の側の橋を渡り、闇に沈んだ林道を抜けて、その木造の案内所のある公園の入り口に辿り着いた。私は小さな声でぼそりとお礼を言い、タクシーを降りた。
無神経にも感じ取れるほどの音を立ててドアが閉まり、車はそのまま行ってしまった。私はそこに立ち尽くし、目の前に広がっている光景をじっと見つめた。
公園入り口から伸びた道はアスファルトが敷かれて、山の麓の街へと続いていた。空に瞬く星達がぼんやりと闇の中に民家の姿を映し出し、曲がりくねりながら先へと続いていた。
虫の声が駅にいた時よりも何倍も膨れ上がり、羽虫が私の周囲を舞い始めた。草の咽返るような匂いが漂ってきて、それは土の生温かな空気に混じり合いながら私を取り巻いた。
けれど、何故か私はその空気の感触を受けて、少しだけほっとした。都会では全く感じられなかったその五感に触れると、ばらばらだった心が一つに繋がるような気がして、目の奥が熱くなる。
私はゆっくりと歩き出し、見知った民家が続く中、周囲の風景を見渡して進んだ。広い庭を持つ民家が多くあり、どれも窓の中は消灯されていた。木造の家が多く、ひび割れや塗装の剥げた部分があったが、それでもその姿はまだ暖かさがあった。
都会の無機質な高層ビルとは違う、心に直接触れるその人間味のある造形に肩の力が少しずつ抜けていった。
やがて、一軒の民家の前で立ち止まった。私は塀の前で佇み、その家の屋根を見つめた。瓦が波を打っていて古くなり、けれど子供時代に見上げたそれと全く変わっていないような気がして、胸が暖かくなっていく。
私が塀の間から玄関へと進みかけた時、扉の前に佇むその一つの影に気付いた。
はっと目を見開く。
「おかえり。そろそろ来ると思っていたわよ」
母はそう言ってにっこりと微笑んだ。暗闇の中でもその顔が笑っているのがわかったのは、心の中に彼女の笑顔が焼き付いているからだ。
私は足を止めて、何かが溢れ出していくのを感じた。でも、寸前のところで堪え、ふっと微笑んで歩き出した。
目の前まで行くと、母の姿がくっきりと浮かび上がった。
彼女はやはり笑っていた。目の下に皺を寄せて、顔いっぱいに笑みを浮かべ、ほっそりとした体を少しも揺らせず、しっかりと地面に足を繋ぎ留めて立っていた。
彼女は何も言わずに私をじっと見つめていたが、やがて私の肩にポンと手を置いて、うなずいてみせた。
「よく帰ってきたわね。少し貫禄が出てきたわ」
彼女はそう言って私の背中に手を回して、中に入るように促した。私は貫禄、と小さくつぶやき、信じられなかったけれど、その気遣いに思わず微笑んでしまった。
引き戸を開くと、小さな菱形に刻みこまれた床のタイルが明るい照明の光を跳ね返して、私の足元に広がった。私はその地面を見つめた後、ゆっくりと前方に視線を向けた。
木目調の床が奥へと続いていて座敷が見えた。父が居間の椅子に座って、こちらに目を向けて軽く手を上げて見せた。
私は喉が震えて、気持ちが溢れ出しそうになったが、まだ堪えよう、と思って唇を結んだ。靴を脱いで簀の子の上に上がり、ゆっくりと居間へと近づいていく。懐かしい木の匂いがその場所には満ちていた。
クーラーを付けていないのにひんやりと涼しく、奥の縁側から風が入ってくるのがわかった。台所のすぐ前の居間にはあの古い机が置かれ、その周りには三つの椅子が置かれていた。
父はその一つに腰を下ろし、文芸雑誌を読んでいた。眼鏡を外して、父はじっと私の顔を見つめ、よく帰ってきた、と口の周りに皺を寄せて笑ってみせた。
「お父さん、お母さん、ただいま」
私は震える声でそう小さくつぶやき、父の向かいの椅子に腰を下ろした。母が私のスーツケースを引いて、それを廊下の隅に置くと、すぐにエプロンを付けて料理を配膳する準備を始めた。
やはり夕食は彼女が言っていた通り、肉じゃがと赤飯、刺身で、私が好きなものばかりだった。私は彼女が黙って料理を出していくのを見つめていることしかできなかった。
言葉が零れることはなく、何を話せばいいのかわからなかった。父は再び文芸雑誌を読み始め、軽く鼻歌を唄い出す。
井上陽水の『なぜか上海』だとわかった。机の隅に『レ・ヴュー』のアルバムが置いてあったので、先程これをかけていたのかもしれなかった。
私はようやく胸の痞えがなくなり、すっと呼吸がしやすくなったのを感じた。母も準備を終えて椅子に座り、食べましょうか、と言った。
「あのね、私……」
そこからは自然に言葉が零れ出た。会社でうまくいっていないこと、もしかしたら仕事を辞めてしまうかもしれないこと、そして――。
「港さんと別れたの」
私はそうつぶやいた瞬間、もう張り詰めていたものがプツンと切れてしまうのを感じた。涙が溢れ出してきて、もう堪えようがなかった。
傷が走っている机の上に、ぽたぽたと涙が落ちて、それは徐々に小さな水溜まりとなって端へと流れていく。私は俯き、肩を大きく上下させて声を振り絞って泣いた。
結婚の約束をしていた男性から突然別れの言葉を告げられて、もう連絡がつかないことを語ると、父と母の顔はショックで硬直してしまうのかと思った。
しかし、彼らの顔に浮かんでいたのは、ただ少しだけ寂しそうな笑顔だった。
「そう。それは大変だったわね」
母はそう言って私の手の甲に掌を重ねて、わずかに涙を浮かべた。父は私を見つめながら、ただ黙っている。
「本当に悲しいのは私達じゃなく、佐代の方だから。頑張ったわね。私達はいつも頑張っているあなたが誇らしいわ。だから、私達のことは気にせず、自分の為に泣いていいのよ」
母はそう言って、ぽんぽんと私の掌を叩いた。私は片手で顔を覆って、子供のように泣き続けた。どんなに虫の声が反響しようとも、その大きな音を覆ってしまうほどに私の嗚咽は悲痛で、堪えようがなかった。
でも、それでも私には帰るべき場所があったのだ、とそれだけが救いだった。私は料理の湯気がふわりと浮き上がっている食卓で、ただ何もせずに空腹も忘れて泣き続けた。
すべてが吐き出されて空になった時、私は何故か目の前にある料理が食べたくて、貪るようにその食べ物を口の中に入れた。両親もただうなずき、いただきます、と声を零して食べ始めた。
久しぶりに顔を合わせて料理を口に運ぶ食卓には、言葉はなかったけれど、料理の熱よりもはるかに暖かい夏の熱気が漂っていた。
私はそのことに、ずっと忘れていた大切な何かを思い出したような気がした。それが何なのかはわからないけれど、それでも一歩、いや半歩だけ、前に踏み出せたような気がした。
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