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Stare
私は長いこと行きつけの喫茶店で、小説の構想を練っていたけれど、次回作は少しでも自分の身近なことに関わるテーマを題材にしたいと思っていた。けれど、必死にアイデアを形にしようとしても、なかなかうまくいかなかった。
店内にはひっそりとしたジャズがかかっており、時折軽いロックが流れたりするのだけれど、来店するお客も大声で話したりすることなく、いつも落ち着いた空気が漂っていた。
なかなか広く、一人用のテーブル席から大人数用のものまで様々な調度品が揃っていた。どれも木製の使い古されたもので、そこに刻まれた傷の数だけこの店の歴史の古さを物語っているような気がした。
壁に付けられた黄色いライトが、白い壁紙を同心円状に照らし出し、それがいくつか店の中を彩っていた。客層も二十代から高齢者までと幅広く、店内には心地良いコーヒーの香りが漂っていた。
私はルーズリーフの上にシャーペンを置いて、思わず溜息を吐いた。これでは、いつまで経っても、作業が進まない。この調子で、小説家としてやっていけるのだろうか。
私が椅子に背をもたせかけ、宙を見上げたその時、カウンターの方からゆっくりとした足音が近づいてくることに気付いた。私はそっと振り向き、その瞬間、胸の鼓動が高鳴ったのがわかった。
その男性はイートンコートを着て、すらりと背が高く、機敏に店内を歩いてこちらへと近づいてきた。黒い短髪で、どこか凛とした面持ちをしており、背筋がまっすぐで見ていると気持ちが良い程だった。
その瞳はまっすぐこちらへと向けられており、私は思わず姿勢を正して彼が間近に立つのを待った。
「あの、南さん。これ、もしよかったら食べてください」
オーナーの鏡さんはどこか緊張した面持ちで握っていた皿を差し出してきた。他の客へと聞こえないように本当に小さな声で話していた。私はそこに載っているショートケーキを見つめて、思わず「え」と声を上げた。
「休憩の際に食べて下さいね。少し、肩の力を抜いて構想を巡らせば、いいものがきっと書けますよ」
彼はそう言うとにっこりと微笑み、私に軽く頭を下げてきた。立ち去ろうとしている彼へと私は身を乗り出し、あの、とつぶやいた。彼がすぐに振り返り、首を傾げた。
「いつもすみません。あの、どうしてこんなサービスを?」
私が俯きながら言うと、彼は頬を掻き、視線を彷徨わせながら言葉を濁した。
「えっと……南さんが、特別なお客様だからです」
そう言って、鏡さんは顔を背けるようにしてぎこちない足取りで去っていく。右手と右足が同時に前に出ているので、彼も動揺しているのがわかった。
私はしばらくその背中をじっと見つめていたけれどふっと微笑み、ショートケーキにスプーンを当てた。一口食べてみると、すっきりとした甘みが口いっぱいに広がり、私は思わず声を上げてしまった。
クリームもまろやかで、スポンジもパサパサしていることもなく、本当に食べやすいショートケーキだった。こんなケーキを作ることができる鏡さんの腕は、やはりすごいな、と素直に思う。
彼のことは密かに今でも気になっているけれど、それでも一歩踏み込んだことを言うことはできなかった。そもそも歳がとても離れているし、きっと私じゃ彼には釣り合わないと思うからだ。
キリマンジャロを飲んで一息ついた時、ふと軽快なロックが途切れ、その懐かしいサウンドが店内に響き渡った。それはデヴィッド・ボウイの『スペース・オディティ』だった。その心をゆっくりと侵食していくような音楽が私に迫ってきた。
カウントダウンが始まり、『リフト・オフ』が宣言されると、突然音が弾けて私の感情を大きく揺さぶった。本当に懐かしいと思う。この曲は昔、高校の先輩とアルバムを買いに行った時に入っていたものだった。
今でも放課後、老舗のレコード屋でこのアルバムを手にし、電車の中でCDプレーヤーに入れて聴いた時の感動を思い出せた。あの頃の思い出が走馬灯のように頭を過って、私は口元が緩むのがわかった。
あの頃に戻りたいな、とふとそんなことを思ってしまう。しかし、その時だった。
すぐ傍から、「南ちゃん?」と聞き覚えのある声が聞こえてきたのだ。私ははっと顔を上げて、そこに立っているその女性を見つめた。その瞬間、自分の心の中で星々が一斉に瞬くのがわかった。
彼女はじっと慈しむような眼差しで私を見つめていた。その視線はどこか懐かしく、あの頃と全く変わっていなかった。大きな瞳は世界を映してきらきらと宝石のように輝いていて、人を包み込むような優しい表情が浮かんでいた。
昔は背中へと垂らしていたストレートの髪も、今では肩で切り揃えて、明るい茶色に染めていた。そのすらりとしたモデルのような姿は変わらず、彼女は皺ひとつないスーツを着て、凛とした雰囲気を漂わせていた。
仕事に生きる女性、といったような、そんな芯の強さを感じさせた。私は彼女の視線を受け止め、自然と「先輩」とつぶやいていた。
彼女はどこか頬を上気させて興奮した面持ちで私をじっと見つめ、一歩前へと進み、私に近づいた。本当に、とつぶやく。
「本当に久しぶりね。あれからずっと会うことがなくて、今どうしているのかしらってずっと気になっていたの。南ちゃんは昔と全然変わっていないわね」
彼女はそう言って目の下に皺を作って、穏やかに微笑んだ。私はあまりにも胸が様々な想いで一杯になっている為に、彼女に言葉を返すことができなかった。
やがて彼女が私の手元のルーズリーフを見つめ、小さくうなずいてみせた。
「南ちゃんの作品、読んだわよ。先日出版された『形のない空気』。佳代子が本当に今の私と重なって、共感することができたわ。いつも頑張っても、その努力は空気のように重みがない場合があるものね。私は南ちゃんの頑張りが、本という形になっているのが嬉しかったの」
先輩はそっとコーチのブランドバッグから一冊の本を取りだした。表紙を見て、すぐにそれが私の作品だとわかった。背表紙に『円 南』と書かれていたからだ。
彼女はペンと一緒に私に「お願いします」とその本を渡してきた。その瞳は薄らと潤み、本当に私のことを想ってくれているのだとわかる。
私は震える指でその本をつかむと、そこにサインをした。あまりサインなんてすることがないと思っていたけれど、一番大好きだった彼女に頼まれるなんて、とても信じられなかった。
私が本を差し出すと、先輩は目の縁の涙を拭って、それを受け取った。そして、大切な宝物を胸に抱くように、本を自分へと引き寄せた。
「ありがとう、南ちゃん」
彼女はそう言ってそのサインを改めてじっと見つめ、それを手に握ったまま、私へと振り向いた。
「南ちゃんが本を出す度に、ずっと見守ってきたの。これからもずっと南ちゃんのことを見てるわ。だから、頑張って」
先輩はそう言うと、私へと手を差し出してきた。私は何も言えないまま、ただただその温もりを確かめるようにして握った。そこで、先輩の背後から「道香」と若い男性の声が聞こえた。
その方向へと顔を向けると、一人の背の高い男性が私達の元へと歩み寄ってくるのが見えた。彼は皺ひとつないスーツを着ていて、髪は短く、どこか精悍な顔をしていた。
眼鏡を掛けており、目元がどこか先輩に似ていた。私はその人を一目見て、先輩の好きそうなタイプだな、と思った。とても誠実で礼儀正しそうな雰囲気があって、優しそうな目つきをしていたからだ。
先輩はぱっと晴れやかな表情を浮かべて、彼の方へと振り返った。そして芳樹、とつぶやく。二人は寄り添うようにして並ぶと、私へと軽く頭を下げてきた。
「南ちゃん。夢が叶って良かったわね。ずっとずっと応援してるわ」
そう言って先輩はその男性と一緒に歩き出そうとしたけれど、そこで私はようやく体の震えが取れ、にっこりと微笑んで、「先輩」と声をかけた。
先輩が振り向き、悪戯っぽい目を向けて首を傾げてみせる。私は二人の顔を交互に見つめながら、うなずいて言った。
「先輩だって、夢が叶ったみたいじゃないですか」
私がそう言うと、先輩は顔を朱に染めて視線を彷徨わせたけれど、一つうなずいて「そうね」と零した。
そこで会話は途切れ、今度こそ先輩は振り返らず未練など感じることなく、幸せそうに彼と店を出て行った。私は彼らを見送ると、くすくすと笑ってしまうのを堪えられなかった。
そこでようやく私の中に、これが書きたいという欲求が大きな波のように押し寄せてくるのがわかった。私が具体的にこうしようと考えなくても、独りでにシャーペンを握った手が動きだして、文字を綴っていく。
私が何を書きたいのか、はっきりと理解できた気がした。先輩のあの言葉が、彼女の柔らかな温もりが、私に物語を書く力を与えてくれたのだ。
周囲の景色が掻き消えていき、私は自分だけの空想の世界で、大きな海を泳ぎ出した。それはどこか困難な作業なようで、しかしとても軽快で楽しく、いつまでも両手を振って旅をしていきたいと思えるほどだった。
私はそうして何時間もその喫茶店でシャーペンを走らせ、その心地良い火照りを感じて、いつまでも物語を考え続けた。
了
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