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「おい、おまえ。こんなところで何をしている」
髭の生えた初老の男は驚いた声をあげた。
「お馬さんだ! ねえねえ、お馬さん乗せて」
3歳くらいだろうか。小さな男の子が男を見上げている。
「親はどうしたのだ」
「おじちゃん、このお馬さん、なんでさわれないの? ねえねえ、お馬さんの名前は?」
男の子は全く聞いていないようだ。
男はため息をついた。
「誰かと思えば……ほんとうに仕方がない。この馬はみかんという。わたしの可愛い馬だ」
「かっこいいねえ。さわりたいなあ」
「危ないから近寄るな。ケガでもしたらどうする。さあ、さあ、家に帰れ」
男の子は全く気にしてはいないようだ。
――ハラハラするのぅ……
男は眉をしかめた。
「なんでおじちゃんは、ここにいるの?」
男の子は男の顔を見た。
「おまえが呼ぶからだろう」
「ぼく、よんでないよ」
「まあ、だからな……おまえにはまだ早いか。言ってもわからないだろう」
「そんなことないよ、ぼく3さいだもん」
「なるほど、なるほど」
何度かトライしたが触らなかったので、男の子は馬を触るのを諦めたようだ。
「ねえ、ぼく、おうちに帰りたいんだけど」
「うん、うん。帰ればいい。気をつけて帰れよ。もうすぐ夕暮れだ」
「ぼくね、わからないの。おうち……」
男は目を丸くした。
「おまえの親は何しとるんじゃ」
「だって、ぼく大きくなったから……ひとりでできるんだもん」
「何がだ?」
「おうちのかぎ、あけられるの!」
男はガクッとした。
――この無鉄砲さ。わたしはこんな子ではなかったはずだが……
「まさか……」
「それでね、ぼうけんしたの。ここね、おとうさんと、おかあさんとおまいりにきたことあったの」
「……なるほどなるほど」
「おじちゃんはさ、えらいひとなんでしょ?」
話を振られ、男は喜んだ。
「まあ、昔は……」
男は功績を話して聞かせようとしたが、相手は3歳児だ。全く聞く耳を持っていなかった。
仕方なく男は男の子のペースに合わせてやることにした。
「えらいなら、ぼくのおかあさんのこと、まもってね」
「なるほど、なるほど。それがここに来た理由か」
「うん。おかあさんのおなかにあかちゃんいるんだって。ぼく、なんでもできるんだよ……、おにいちゃんになるから」
男の子はにこにこと話していたが、突然強く吹いた風の音にビクッとした。
いつのまにか日もだいぶ落ちていた。時折吹く風は冷たくなってきていた。
男の子は心細くなったようで泣きそうになった。
「ぼく、かえる」
「うんうん、それがいい」
「おじちゃん、おくって」
「わたしに言っとるのか」
面食らった後、男は大声では笑った。
それから男はみかんに乗った。
「いいな。いいな。ぼくも乗りたいな」
男の子はうらやましそうに見つめた。
あまりに見つめられて、男はいたたまれなくなった。それから男は大きくため息をついた。
「わたしも歩こう」
男は馬から降りた。
歩くたびに男の胸の金属片が揺れる。金属片は夕日を浴びてキラリとひかった。
男の服には勲章がいくつも輝いている。
「ねえ、それ、一個ちょうだい」
「は?」
まさかのおねだりに男は何も言えなかった。
「おじちゃん、一個ぼくにくれないの?」
男の子は丸い目に半分涙をためた。
男は「うーん」というとしばらく考えていた。
「おまえが大きくなって、わたしのところにきて……、どうしてもほしいというならあげてもいいよ」
「ほんと?」
男の子は目を輝かせた。
「うーんと大きくなったらだぞ。わたしより歳をとるんだぞ。若いうちに来たらいかんぞ」
「ねえ、そしたら、みかんに乗れる?」
「ああ、乗れるとも。ちゃんと大人になればな。そのときはみかんも許してくれるだろう」
男は笑った。
「そうか、みかんに乗りたいか。さすがだな……血は争えん」
男は満足そうに頷いた。
「ぼくね、この道から来たんだよ」
「そうか、そうか。この道かね」
車はほとんど通っていなかった。少し行くと大きな道とぶつかる。おそらく男の子はあの辺りから来たのだろう。
神社までよく事故に合わずに来たなと男は思った。
「これは……那須疎水の……鍛冶屋堀か」
男は懐かしいそうに水面を眺めた。
「おじちゃん、落ちちゃうからダメだよ。あんまりそっちに行かないのって……ママ言ってたもん」
男の子が怒っていう。
「なるほど、なるほど。その通り」
「昔はなあ、この辺はわたしの農場だったんだぞ。水をひいて、土壌を改良したんだ」
男はキョロキョロと辺りを見回し、「ずいぶん変わったものだな」とつぶやいた。
遠くのほうからサイレンが聞こえた。
「おまえのことを探しておるようだぞ」
「おじちゃん、帰っちゃうの?」
「おまえが無事ならいいんだ……」
「一緒に帰る? きっとみんなびっくりするよ」
男は苦笑いした。
「ああ、みんなびっくりして、腰を抜かすな。だからやめとくよ。いつまでも見守っているからな。元気でやっていくんだぞ」
「ええええ! そうなの?」
男の子は、少しむくれた。
だんだんパトカーの音が近づいてきた
「3歳の迷子のお知らせです。さいごうじゅうしん君を探しています」
男はパトカーをみた。
「ほら、役人がきたぞ」
「うん……また会える?」
「そうだな……盆とかなら会えるかもな。大きくなれよ」
「わかった! まってるね」
西郷従真は大きく手を振った。
男は思わず手を振り返した。
ーー頭もいい。気も優しい。それからはっきりものを言う。我が子孫はさすがだな。
男はそういうと、愛馬みかんに乗って立ち去った。
「従真! 探したのよ」
従真の母は従真を抱きしめた。
「ぼくね、神社行ってきたよ」
「神社って……あそこ? 西郷さんのとこ?」
「うん。おまいりしたんだよ」
あんなとこまで……と母はギョッとした。家から1キロ近く離れている。
「西郷神社でおじちゃんにあったよ」
従真が警察署で買ってもらったジュースを飲む。
「おじちゃんって、どこの?」
母の顔が強張った。
「うちにある……たまにパパがご先祖さまなんだぞって……」
「え? あの……?」
「神社で泣いていたら、おじちゃんがみかんと来たの。みかんって馬だよ」
まさか……
母はゾワゾワと鳥肌がたった。
西郷従道の愛馬の名はみかんなのだ。そしてこの子は西郷家の遠い子孫でもある。
「おじちゃんね、服にキラキラするのつけてたの。ちょうだいっていったら、大きくなったらくれるってやくそくしたんだよ」
*
日曜日。父、母、従真と西郷神社にお参りに訪れた。
神社には西郷従道は現れなかったが、従真は「おじちゃん、ありがとう」とお礼を述べた。
それから小さな声で「お盆に待ってるね」とつぶやいた。
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